2008年 08月 14日
哲学と陰謀とは一体 |
「日本人はこうして奴隷になった」林秀彦著からご紹介します。
何事であろうと、考えるという人間行為は、執着心の変形である。
淡白に物事を考えるなどということは、弾の入っていない銃で鳥撃ちに出かけるようなものだ。
考えるということは、複数の命題から、そのひとつを選び取ることだ。比較吟味なくして、考えることはできない。しかもそれを、しつこく選ばねばならない。籤引(くじび)きではない。
白人たちがどれほど執念深い人種であるか、日本人は知らない。生きることへの情熱が強いと言い直してもいい。とにかくすべてにエネルギッシュで、それは愛憎に現れる。それは日本などと比べ物にならないほどの過酷な生存条件、生活環境、歴史的な苦難などの結晶として、彼らが培ったものである。彼らは常に二者択一を迫られ、右に行くか左に行くかの選択を迫られながら生きてきた。その判断の誤りは、自分だけでなく、一家眷属の命にかかわり、部族の運命にかかわり、最後には国家の命運をかけるものだった。
人間の考える能力は、一瞬一瞬の生存を支える要だった。
このような「考えること」の根っこ、本質を、日本人は知ったことがない。
考えることは哲学を生み、果ては「陰謀」に続くものである。
哲学と陰謀が一本の線上にあるなどという発想は、とても日本人には理解しがたいに違いない。だがこの二つ完全に一体をなすものなのだ。哲学とは決して机上の空論をもてあそぶものではなく、今日と明日の生き方を考えるものであり、サーヴァイヴァルのノウハウなのである。
となれば、考えるという行為自体が執着心の一種であるというこのトリックの本質が、理解できるかもしれない。浅く雑で、あっさりした安直な考えでは、たちどころに抹殺される世界が白人世界であり、それは今や、全地球的な範囲に及んでいるのである。無関心、無頓着、我関せず焉の立場など、いまや世界中どこにもない。世界はますます考えの戦場となっている。そこでの武器は、お互い相手を説得し折伏できる哲学の存在なのだ。
それが日本には、まったくない。
常に相手の言いなり、相手は言いたい放題。
これで国が存続できるわけは−−−当然ない。
結局考えるということは、いくつかの選択肢をまず持ち(即ち情報)、その中からひとつを選ぶ決断と似ている。その根本には生きるか死ぬかの二者択一がある。判断・決断が考えることの意味であり、その過程ではない。過程は情報整理に対する合理と科学による分析で、計算に近い。
前に紹介したアメリカCIAの三原則、What,so What,Whyと同じである。最後のホワイ(なぜ)にあたる部分が、考える世界(哲学的世界)なのだ。
CIAの情報戦略こそが哲学の道筋と同じなのだ。
だからこそ、哲学は陰謀と直結する。
もし哲学というものが、ただ空に絵を描くようなもので、実際に役に立たないものだと考えている人がいたら、今直ちにその考えを捨てなくてはならない。哲学は日常の必需品なのである。そして人々は無意識に、その毎日で哲学をしている。日常哲学という呼称もある。浅いか深いかの問題なのた。
考えは結果をもたらせるものだ。なんら具体的な結果が期待されない考えこそ、「バカの考え休むに似たり」になる。
求める結果(それは時に「理想」とも呼べるもの)、それをまず見定めることなくして、哲学することはできない。悪を無くすための最善の道、というパラドックスは可能なのだ。悪の理想・理想的な悪、という概念も成り立つ。アメリカが今世界に押し付けている戦略こそ、悪の理想的な具現なのである。
哲学を知らないと、この道筋まで見誤る。そして、善でも悪でも、最初にホワットがいるのだ。次のソー・ホワット(だからどうした?)から哲学が始まり、最後のホワイ(なぜ)が解答へ導く。
このような考え方の発現要因が日本人には、ついぞなかった。
参照1:自己主張 自分の意見を持つこと
参照2:注目集める独特の幼児教育
参照3:世界が認めた折り紙の幾何学
参照4:「学校ー家族」複合体の破壊
参照5:自由・平等・友愛のモラル
参照6:中毒
参照7:自壊する帝国
参照8:才能、教育、成功
参照9:演奏のコツ
参照10:仮説実験授業の考え方
参照11:弁証法ってなに?
参照12:こころのしこり
参照13:陰謀論
参照14:成りすましスパイ事件
参照15:悪辣、国連人権委員会を利用した情報戦
何事であろうと、考えるという人間行為は、執着心の変形である。
淡白に物事を考えるなどということは、弾の入っていない銃で鳥撃ちに出かけるようなものだ。
考えるということは、複数の命題から、そのひとつを選び取ることだ。比較吟味なくして、考えることはできない。しかもそれを、しつこく選ばねばならない。籤引(くじび)きではない。
白人たちがどれほど執念深い人種であるか、日本人は知らない。生きることへの情熱が強いと言い直してもいい。とにかくすべてにエネルギッシュで、それは愛憎に現れる。それは日本などと比べ物にならないほどの過酷な生存条件、生活環境、歴史的な苦難などの結晶として、彼らが培ったものである。彼らは常に二者択一を迫られ、右に行くか左に行くかの選択を迫られながら生きてきた。その判断の誤りは、自分だけでなく、一家眷属の命にかかわり、部族の運命にかかわり、最後には国家の命運をかけるものだった。
人間の考える能力は、一瞬一瞬の生存を支える要だった。
このような「考えること」の根っこ、本質を、日本人は知ったことがない。
考えることは哲学を生み、果ては「陰謀」に続くものである。
哲学と陰謀が一本の線上にあるなどという発想は、とても日本人には理解しがたいに違いない。だがこの二つ完全に一体をなすものなのだ。哲学とは決して机上の空論をもてあそぶものではなく、今日と明日の生き方を考えるものであり、サーヴァイヴァルのノウハウなのである。
となれば、考えるという行為自体が執着心の一種であるというこのトリックの本質が、理解できるかもしれない。浅く雑で、あっさりした安直な考えでは、たちどころに抹殺される世界が白人世界であり、それは今や、全地球的な範囲に及んでいるのである。無関心、無頓着、我関せず焉の立場など、いまや世界中どこにもない。世界はますます考えの戦場となっている。そこでの武器は、お互い相手を説得し折伏できる哲学の存在なのだ。
それが日本には、まったくない。
常に相手の言いなり、相手は言いたい放題。
これで国が存続できるわけは−−−当然ない。
結局考えるということは、いくつかの選択肢をまず持ち(即ち情報)、その中からひとつを選ぶ決断と似ている。その根本には生きるか死ぬかの二者択一がある。判断・決断が考えることの意味であり、その過程ではない。過程は情報整理に対する合理と科学による分析で、計算に近い。
前に紹介したアメリカCIAの三原則、What,so What,Whyと同じである。最後のホワイ(なぜ)にあたる部分が、考える世界(哲学的世界)なのだ。
CIAの情報戦略こそが哲学の道筋と同じなのだ。
だからこそ、哲学は陰謀と直結する。
もし哲学というものが、ただ空に絵を描くようなもので、実際に役に立たないものだと考えている人がいたら、今直ちにその考えを捨てなくてはならない。哲学は日常の必需品なのである。そして人々は無意識に、その毎日で哲学をしている。日常哲学という呼称もある。浅いか深いかの問題なのた。
考えは結果をもたらせるものだ。なんら具体的な結果が期待されない考えこそ、「バカの考え休むに似たり」になる。
求める結果(それは時に「理想」とも呼べるもの)、それをまず見定めることなくして、哲学することはできない。悪を無くすための最善の道、というパラドックスは可能なのだ。悪の理想・理想的な悪、という概念も成り立つ。アメリカが今世界に押し付けている戦略こそ、悪の理想的な具現なのである。
哲学を知らないと、この道筋まで見誤る。そして、善でも悪でも、最初にホワットがいるのだ。次のソー・ホワット(だからどうした?)から哲学が始まり、最後のホワイ(なぜ)が解答へ導く。
このような考え方の発現要因が日本人には、ついぞなかった。
参照1:自己主張 自分の意見を持つこと
参照2:注目集める独特の幼児教育
参照3:世界が認めた折り紙の幾何学
参照4:「学校ー家族」複合体の破壊
参照5:自由・平等・友愛のモラル
参照6:中毒
参照7:自壊する帝国
参照8:才能、教育、成功
参照9:演奏のコツ
参照10:仮説実験授業の考え方
参照11:弁証法ってなに?
参照12:こころのしこり
参照13:陰謀論
参照14:成りすましスパイ事件
参照15:悪辣、国連人権委員会を利用した情報戦
by centeringkokyu
| 2008-08-14 00:32
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