2008年 02月 08日
宗教的態度には心身の健康に役立つ要素がある |
「谷沢永一 幸福通」 アラン「幸福論」の智恵
谷沢永一著からご紹介します。
【跪き、かがみ、緊張をとくと躰(からだ)の諸器官が解放され、生命の機能がいっそうスムーズに働くようになるからだ。】
病気の真似をするより健康の真似をしなさいとは先に述べました。アランは心の持ち方が体を左右し、また体の動かし方が心に影響することをこんなふうに述べます。
「どんな平凡な人間でも、自分の不幸をまねると大芸術家である。」
「心がしめつけられると、自分の腕で胸をしめ上げ、あらゆる筋肉が互いにひっぱり合う。どこにも敵などいないのに、歯をくいしばり、胸を武装し、拳をふりあげる。こういう人さわがせな動作は、外部にあらわれない場合にも、じっと動かないでいる躰の内部でやはり下ごしらえされており、そのためいっそう強力な効果を及ぼす。眠れないときには、ほとんどいつも同じ不愉快な考えがどうどうめぐりするのに、おどろくことがある。この不愉快な考えを思い出させるのが、あの下ごしらえされた物まねであることは、断言していい。道徳的秩序のあらゆる害悪に対して、また病気の初期に対しても、緊張をときほぐし、体操することが必要である。そして、だいたいにおいてこの療法で間に合うのではないか。」
体の動きと心の動きとの関連を考えれば、同じ理由から、
「優しさ、親切、快活さなどをまねるとき、それは不機嫌さ、さらには胃腸病に対してさえ、りっぱに手当てをしたことになる。頭を下げたり、微笑したりする運動は、幸いなことに、怒りたけるとか、不信の念をいだくとか、悲嘆にくれるとかいう、その反対の運動を不可能にする。だからこそ、社交や訪問、儀式や祝祭がいつでも歓迎されるのだ。それは幸福をまねる機会である。」というわけです。
そして、心身の健康に役立つ要素を宗教的態度の中に見つけます。
「宗教的態度は、これを医者が考察すれば役に立つものである。跪き、かがみ、緊張をとくと躰の諸器官が解放され、生命の機能がいっそうスムーズに働くようになるからだ。『頭を下げよ。心おごれるシカンブルびと。』これは怒りや慢心から癒えよといっているのではなく、ともかく黙って、目を休ませ、柔和にふるまえといっているのだ。こうすれば、粗暴な性格がぬぐいさられる。しまいに、あるいは永久にそうなるのではない。そんなことはわれわれの力では及ばない。そうではなくて、じきに、そしてしばしの間の話だ。宗教上のさまざまな奇跡は、奇跡でもなんでもない。」
「宗教的態度」を、「敬虔な態度」と考えても差し支えありません。敬虔な態度には心を鎮め、荒々しい心が起きないようにする思慮、おもんばかりを深くするという要素があります。宗教そのものはどうでもいいのです。
「鰯の頭も信心から」であって、とにかく何者か、人間の力、人知を超越したものに対して帰依する気持ちがあると、人間は安らかに生きられるのです。ひざまずき、手を合わせるその動作が心の安らぎに連動しているとアランは指摘しています。
「神仏を敬え」というのは、例外的に戦国武将の教えにごく一部出てきます。迷いを去るために祈りが有効であるとは北条早雲なども書いています。
実際、神社仏閣に行くと、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)という思いになり、手を合わせると、気持ちが安らかになるものです。
アランはカソリックです。そのアランが「宗教上のさまざまな奇跡は、奇跡でもなんでもない」というのですから、妙に聞こえるかもしれません。しかし、アランは徹底した近代人で、スピノザと同じように、奇跡とは人知では及びのつかない不思議のことですが、自然のなすわざである、身体と心の動きがつくるのだと考えるのです。きわめてノーマルな人ですね。
「人がしつこい考えをどうやって追いはらうかを見ると、ためになる。かれは、まるで筋肉をほぐすように、首をすくめ、胸をゆさぶる。首をまわして、別の知覚や別の空想をいだくようにする。思うがままの身ぶりで心配ごとを遠くへ投げすて、指を鳴らす。これは舞踏のはじまりである。そのときダビデの竪琴がかれの心をとらえ、その身ぶりを整え、和らげて、憤怒や焦燥を遠ざけるならば、抑うつ病患者などたちまちなおってしまう。」
#楽隠居です
ネコ殿がアランの幸福論を紹介しておられましたので、こちらもちょっと角度を変えて「谷沢永一 幸福通」をご紹介しました。
アマゾンのカスタマーレビューから引用します。
『フランスの人生哲学者・モラリスト、アラン(1868-1951)の述作「幸福論」の注釈ではなく、谷沢永一がアランの「幸福論」をテキストとして、仕事、恋愛、結婚、友人、病気、戦争などの場面を取り上げながら、幸福とは何であるかを見出すヒントを提供する書である。
谷沢はあるときはアランの意見に賛成し、あるときは「そうは言っても、」と反駁する。「幸福論の決定版はないと見てよろしかろう」と谷沢が言うように、幸福のカタチについては、人の数だけありましょうが、谷沢永一という希代の人間通が語る本書は読んで得すること間違いなしです。』
先日の呼吸法中心塾では、椅子編と歩行のレッスンをしました。勿論、立ち姿、歩く姿、椅子に座った姿などの現状認識をしていただいてから、呼吸法のレッスンに入りました。
30分も呼吸法をすると、皆さん別人のような美しい姿勢になられましたが、私がちょっと悪戯をして、ある参加者の特徴的な姿勢を真似すると、「そんな姿勢を見ると、また元通りになるような気がするから止めてください!」と言われました。そこで、「あぁ〜祓い賜え浄め賜え!」なんてことを言いながら、皆さんとご一緒にお祓いをしました。
参照1:礼法とセンタリング呼吸法
参照2:型ができる以前を考える
参照3:修行千二百日
参照4:それは毎日の日常生活のなかにあった
参照5:修行はあらゆる瞬間に
by centeringkokyu
| 2008-02-08 00:01
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