2007年 08月 31日
それは毎日の日常生活のなかにあった |
「癒しの音を求めて」宮下富実夫著から抜粋してご紹介します。
◆日常生活のなかに瞑想がある
何事であっても、形にこだわった方法で学んでしまうと、その一歩奥へはなかなか入っていけないものだ。そこで形すらもすべて打ち捨てて、さらにその奥へとどんどん入っていく。そうしたときに最後に残るものはいったい何なのか。こうした探究を進めていき、それを突きつめたときに、人は初めてもとの形に戻ってくる。
まず形を知って、次には形を破壊して、そこから解脱したときにはじめて本当の形が現れてくるということだ。そういう世界が必要なのではないか。私はいつしかそのように考えるようになった。
かつて私にも、かしこまってロータス・ポジションをとり、「さあ、これから瞑想に入ろう」と意気込んでやっていた時代があった。そのころというのは、非常に形にこだわっていて、自分をそういうところに追いやっていく。「しっかりと瞑想しなければ」と、絶えず自分をしつけていく。
ところがあるとき、私は「そうではない世界がある」ということに気がついた。
一瞬一瞬、あのロータス・テンプルでの接心中に得た"空間"を自分のなかにもう一度想い起こして、絶えずそこに自分をいざなっていく、そうした方法というのがあるということに気づいたのである。
◆それは毎日の日常生活のなかにあった。
たとえば、ほうき一本をもって、庭をサッサッサッサッと掃いていく。もしそれを無意識にやっていると、けっこう疲れるものだ。
ところが、すべてのことを意識をしながら、サーッサーッサーッサーッと掃いていく。音でいうなら、リズムに合った一つの音によって庭掃除をしていく。すると、そこに一つの世界が生まれる。
仮に一本の竹ぼうきで同じように掃いたとしても、玉砂利の上にある葉っぱの音と、芝の上にある葉っぱの音と、土の上にある葉っぱの音とでは、全部音の世界が違う。そこで、その異なる音の世界に意識の波長を合わせて、その世界に入って瞑想していく。そうして、あの"空間"へと至る。これはまさに"ウォーキング禅"だと私は思っている。
もう一つ例を挙げておこう。たとえば、いろりで火をたいて、お湯を沸かしながら、そのお湯をお茶の杓ですくって湯飲みに入れるとしよう。そうした動作も無意識におこなえばただそれだけのものだが、意識を集中し、一つひとつを自覚しながらおこなうと、この一連の動作のなかにもきわめて大きな世界があり、それは瞑想へとつながる。
もしかすると、こうしたところから茶道というものが生まれたのかもしれない。そのように私は考えている。
要するに、ほうきで掃くことや火をたくことなど、日常のすべての行為を通して瞑想というものをおこなっていくと、あの"空間"の記憶がフッフッとよみがえってくることがある。そうしたとき、坐禅中で見たのと同じようなビジョンが見えてきて、私の意識はその世界ヘスーッと吸い込まれていく。そのときの境地は、「これもそうなのか、これもそうなのか」といった感じである。
そのあと、あらためてロータス・ポジションで坐る。すると、自分の生体的なエネルギ一体、すなわち東洋医学でいう《気》の流れとしてのエネルギー体や背骨のもつ大切な役目などが自然とわかってくる。
このようにしてはじめて、坐禅ではなぜロータス・ポジションというものが必要なのかもわかるのだ。あれは、自分の体のバランスをとるためのもっともすぐれた坐り方であり、最高の健康法でもある。背骨をピーンとまっすぐに伸ばしてくれて、しっかりとピラミッドの形を自分の体につくる。どこからきてもタイチーできるし、倒れない。要するに、そこに本当に安定した坐りの世界があるのである。
#楽隠居です
呼吸法はどのくらいやればいいんでしょうか?とのご質問に対して私は「10分間息を止めてみてください。」と言うことにしています。そして「どうせ息をしないといけないんですから、気がつけばいつでも工夫して呼吸をしてみてください。」と付け加えます。
呼吸は動作のリズムとも合ってきますから、吐く息を丁寧に意識するだけでも、身体の使い方が変わるかもしれません。
さて、合気観照塾のお知らせです。
9・10月は、太極棒の稽古をします。「センタリング呼吸法と合気」の関係が分かりやすい稽古にしたいのですが、疑問点があればなんなりとご質問ください。
11・12月は、杖の稽古をします。これまで、杖の稽古時間が少なかったので、今年は杖を使って「身体と呼吸と意識」の関連性をじっくり稽古したいと思っています。
参照1:音薬 ON・YAKU
参照2:修行はあらゆる瞬間に
参照3:呼吸による癒し
by centeringkokyu
| 2007-08-31 00:06
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