2007年 03月 17日
同時打ち(合気二刀流) |
琢磨会と大東流 琢磨会総務長 森恕 合気ニュースの記事から転載します。
久琢磨師から、合気二刀流の剣技を柔術に応用したときの技について教授を受けた。
同師が、昭和32年から43年までの11年間にわたり、大阪の埼玉銀行ビルに開設して多数の門弟を育て、後半には、そこを住居にして一人で寝起きをされていた関西合気道倶楽部の道場を畳み、東京に転居をされる直前のことである。
総伝写真集をはじめ、道場に置かれていた英名録・書籍・写真・書簡等、武道関係の資料一切を私がお預かりすることになり、その整理のために、私一人が道場に詰めていた頃のことであった。
合気二刀流の剣技そのものについては、その何年か前に、木刀を使って、幾つかの形を教えていただいていたので、そのときは、それを合気柔術に応用したときの技法だけを教えていただいた。
それは、徒手の両小手を二本の小太刀に見立て、それを振るって行なう千変万化の攻守の方法であった。
同師は、技法を具体的に示されながら、その説明をされたのであるが、そのときの同師のお話の中で、一番深く印象に残ったのが「同時打ち」に関することである。
剣技教授のときもそうであったが、師は、師の技を懸命に真似る私の両手刀の動きを見ておられ、その左右の手の動きに少しでも時間的ズレが生ずると、それでは駄目だと制止して見本を示され、さらに次のように言われたのである。
「動きに時間差をつけてはいけない。武田先生は、この技の二刀の動きについて、交互に打つのは芸者の太鼓、大東流は同時打ち、と言われていた」
私は、このお話の中の「交互に打つのは芸者の太鼓」というところが、武術の話としては何となくユーモラスに感じられて、今でも鮮明に覚えているのである。
武田先生が言われた「二刀同時打ち」とは具体的にはどのような動きなのか、久師によれば、例えば剣の場合、二刀を振るって相手に打ち込むとき、それが、真っ向・袈裟・横胴、いずれの斬り方であっても、両手で二刀を揃え持って、一呼吸で、同時に、同方向に斬りつけることを言うのである。
ただし、「同方向」というのは、あくまでも攻撃だけのときの原則であって、防御要素が加わり、一刀で相手の攻撃を打ち払い、もう一刀で相手に攻撃を加えるようなときは、当然に、二刀それぞれの刀の向かう方向は異なってくるのであるが、それでも、その打ち払いと攻撃は、一呼吸で「同時」に行なわれるのである。
注目すべき点は、この「同時打ち」を相手方から見た場合、相手方は、こちらの二刀によって、体のニヵ所を同時に攻撃されることになることである。
私はこれを初めて教えられたとき、二刀のこのような技法、とくに「同方向」の打ち込みが、形の上であまりにも単純素朴で芸がなく、一瞬、はなはだ奇抜な教えを受けたように思えたのであるが、その後、冷静に考察をしているうちに、だんだんと考えが変わってきた。
これは、攻防の手段としては、まさに意表をついた「鬼手」とも言えるものであり、相手方は、体のニカ所を同時に攻撃されることにより、心理的な打撃を受け、一瞬、運動意識が分裂して動きが止まるのである。その現象には、合気の極意に通ずる何か大切なものが潜んでいるのではないかとさえ思わせるものがある。
最初、奇抜に思えた剣の操法そのものも、人体の構造や運動神経・運動方法などから見て、むしろこのほうが合理的であり、自然ではないかとさえ思えるようになった。
この剣の術理は、合気柔術のときにもまったく同じように用いられる。
たとえば、「両手捕りの各種合気投げ」を想起すればわかるように、相手に捕られた両小手を伸ばして投げる瞬間の形は、二刀を揃え持って切りつけるのと同じであるし、「総伝の一本捕り」のように、相手の正面打ちを一方の手で手刀受けをして、もう一方の手で当て身を入れる場合、あるいは「横面打ち合気投げ」のように、一方の手刀で横面を打ってくる相手の手を払い受けし、もう一方の手刀で相手の首を打つ場合など、こちらの両手刀が「相手の攻撃を防ぐ働きと相手を攻撃する働き」を同時に行なっているところは、二刀で「打ち払いと攻撃」を同時に行なうのとまったく同じである。
久師のこの「同時打ち」の教えのポイントは、両小手を伸ばし、同じ方向に切り下ろすようにして合気投げをする場合は当然のことであるが、両手刀が、同時に攻・守二つの働きをするときにも、その動きは、これを、一、二と、二段階あるいは二呼吸に分けてやるのではなく、すっと、同時に、一呼吸でやれというところにあるのである。
大東流には、両手を用いて施す技は無数にある。その全部が全部、二刀流に通ずるものであるとは言えないかもしれないが、少なくとも両小手を同時に動かして、相手を投げ、あるいはその動きを制する技の中には、この二刀流の秘伝が隠されているのではないかと考えられる。
これまでで繰り返して述べてきたように、人間は、体の何処かを刺激されると、その刺激を受けた場所と刺激の強さによって、さまざまな反応を示すものである。合気柔術は、その反応として現れる本能的な「動き」、あるいはその逆の「動きの停止」を利用して身体操作を行なう武術であり、「合気」とは、その本能的な動き、あるいはその停止状態を引き出す技術そのものである。
合気二刀流は、剣の場合も柔術の場合も、二刀を用いて合気によって相手を制する技であるが、その合気は、「同時打ち」によって初めて生ずるのである。
私は最近まで、このことについては、「交互に打つのは芸者の太鼓」という言葉の面白さだけに惹かれていたのであるが、総伝研究も相当に進み、いろいろなことがわかってきて、今、あらためてこの二刀同時打ちの教えを見直したとき、私は、あのとき、久師から、せっかく合気の真髄に触れるたいへん大切なことを教えていただいておりながら、それにまったく気がついていなかったのではないかと痛感し始めているのである。
参照1:武蔵の剣
参照2:基礎の重視と日常からの鍛錬
参照3:武蔵
参照4:投げない柔術 振らない剣術
(最後に、私の木刀コレクションの写真を紹介しています。)
#楽隠居です
現在発売中の「月刊秘伝」4月号の特集には、剣に託された人智の極み 戦闘コンセプト別 名門古流剣術入門が掲載されています。
シンを捉えて粘り着く 専守中心の剣・・・・・・・・念流
人を活かして勝ちを制す 円転入身の剣・・・・・・・新陰流
厳しき剣先の見切り 一点突破の剣・・・・・・・・・一刀流
全身全霊の一撃求めて 一打必殺の剣・・・・・・・・薬丸示顕流
各流派の「手の内・身勢・意識のベクトル」などを比較するのには格好の資料になると思います。ご一読をお薦めします。
先週の観照塾では、流派によって木刀の形が違うのは何故かということについて、私が気づいたことをお話させていただきました。仮説でしかありませんが、「右手と左手のバランス」や「分目・搦」「身勢」ということにも関係してくるはずだと考えています。
久琢磨師から、合気二刀流の剣技を柔術に応用したときの技について教授を受けた。
同師が、昭和32年から43年までの11年間にわたり、大阪の埼玉銀行ビルに開設して多数の門弟を育て、後半には、そこを住居にして一人で寝起きをされていた関西合気道倶楽部の道場を畳み、東京に転居をされる直前のことである。
総伝写真集をはじめ、道場に置かれていた英名録・書籍・写真・書簡等、武道関係の資料一切を私がお預かりすることになり、その整理のために、私一人が道場に詰めていた頃のことであった。
合気二刀流の剣技そのものについては、その何年か前に、木刀を使って、幾つかの形を教えていただいていたので、そのときは、それを合気柔術に応用したときの技法だけを教えていただいた。
それは、徒手の両小手を二本の小太刀に見立て、それを振るって行なう千変万化の攻守の方法であった。
同師は、技法を具体的に示されながら、その説明をされたのであるが、そのときの同師のお話の中で、一番深く印象に残ったのが「同時打ち」に関することである。
剣技教授のときもそうであったが、師は、師の技を懸命に真似る私の両手刀の動きを見ておられ、その左右の手の動きに少しでも時間的ズレが生ずると、それでは駄目だと制止して見本を示され、さらに次のように言われたのである。
「動きに時間差をつけてはいけない。武田先生は、この技の二刀の動きについて、交互に打つのは芸者の太鼓、大東流は同時打ち、と言われていた」
私は、このお話の中の「交互に打つのは芸者の太鼓」というところが、武術の話としては何となくユーモラスに感じられて、今でも鮮明に覚えているのである。
武田先生が言われた「二刀同時打ち」とは具体的にはどのような動きなのか、久師によれば、例えば剣の場合、二刀を振るって相手に打ち込むとき、それが、真っ向・袈裟・横胴、いずれの斬り方であっても、両手で二刀を揃え持って、一呼吸で、同時に、同方向に斬りつけることを言うのである。
ただし、「同方向」というのは、あくまでも攻撃だけのときの原則であって、防御要素が加わり、一刀で相手の攻撃を打ち払い、もう一刀で相手に攻撃を加えるようなときは、当然に、二刀それぞれの刀の向かう方向は異なってくるのであるが、それでも、その打ち払いと攻撃は、一呼吸で「同時」に行なわれるのである。
注目すべき点は、この「同時打ち」を相手方から見た場合、相手方は、こちらの二刀によって、体のニヵ所を同時に攻撃されることになることである。
私はこれを初めて教えられたとき、二刀のこのような技法、とくに「同方向」の打ち込みが、形の上であまりにも単純素朴で芸がなく、一瞬、はなはだ奇抜な教えを受けたように思えたのであるが、その後、冷静に考察をしているうちに、だんだんと考えが変わってきた。
これは、攻防の手段としては、まさに意表をついた「鬼手」とも言えるものであり、相手方は、体のニカ所を同時に攻撃されることにより、心理的な打撃を受け、一瞬、運動意識が分裂して動きが止まるのである。その現象には、合気の極意に通ずる何か大切なものが潜んでいるのではないかとさえ思わせるものがある。
最初、奇抜に思えた剣の操法そのものも、人体の構造や運動神経・運動方法などから見て、むしろこのほうが合理的であり、自然ではないかとさえ思えるようになった。
この剣の術理は、合気柔術のときにもまったく同じように用いられる。
たとえば、「両手捕りの各種合気投げ」を想起すればわかるように、相手に捕られた両小手を伸ばして投げる瞬間の形は、二刀を揃え持って切りつけるのと同じであるし、「総伝の一本捕り」のように、相手の正面打ちを一方の手で手刀受けをして、もう一方の手で当て身を入れる場合、あるいは「横面打ち合気投げ」のように、一方の手刀で横面を打ってくる相手の手を払い受けし、もう一方の手刀で相手の首を打つ場合など、こちらの両手刀が「相手の攻撃を防ぐ働きと相手を攻撃する働き」を同時に行なっているところは、二刀で「打ち払いと攻撃」を同時に行なうのとまったく同じである。
久師のこの「同時打ち」の教えのポイントは、両小手を伸ばし、同じ方向に切り下ろすようにして合気投げをする場合は当然のことであるが、両手刀が、同時に攻・守二つの働きをするときにも、その動きは、これを、一、二と、二段階あるいは二呼吸に分けてやるのではなく、すっと、同時に、一呼吸でやれというところにあるのである。
大東流には、両手を用いて施す技は無数にある。その全部が全部、二刀流に通ずるものであるとは言えないかもしれないが、少なくとも両小手を同時に動かして、相手を投げ、あるいはその動きを制する技の中には、この二刀流の秘伝が隠されているのではないかと考えられる。
これまでで繰り返して述べてきたように、人間は、体の何処かを刺激されると、その刺激を受けた場所と刺激の強さによって、さまざまな反応を示すものである。合気柔術は、その反応として現れる本能的な「動き」、あるいはその逆の「動きの停止」を利用して身体操作を行なう武術であり、「合気」とは、その本能的な動き、あるいはその停止状態を引き出す技術そのものである。
合気二刀流は、剣の場合も柔術の場合も、二刀を用いて合気によって相手を制する技であるが、その合気は、「同時打ち」によって初めて生ずるのである。
私は最近まで、このことについては、「交互に打つのは芸者の太鼓」という言葉の面白さだけに惹かれていたのであるが、総伝研究も相当に進み、いろいろなことがわかってきて、今、あらためてこの二刀同時打ちの教えを見直したとき、私は、あのとき、久師から、せっかく合気の真髄に触れるたいへん大切なことを教えていただいておりながら、それにまったく気がついていなかったのではないかと痛感し始めているのである。
参照1:武蔵の剣
参照2:基礎の重視と日常からの鍛錬
参照3:武蔵
参照4:投げない柔術 振らない剣術
(最後に、私の木刀コレクションの写真を紹介しています。)
#楽隠居です
現在発売中の「月刊秘伝」4月号の特集には、剣に託された人智の極み 戦闘コンセプト別 名門古流剣術入門が掲載されています。
シンを捉えて粘り着く 専守中心の剣・・・・・・・・念流
人を活かして勝ちを制す 円転入身の剣・・・・・・・新陰流
厳しき剣先の見切り 一点突破の剣・・・・・・・・・一刀流
全身全霊の一撃求めて 一打必殺の剣・・・・・・・・薬丸示顕流
各流派の「手の内・身勢・意識のベクトル」などを比較するのには格好の資料になると思います。ご一読をお薦めします。
先週の観照塾では、流派によって木刀の形が違うのは何故かということについて、私が気づいたことをお話させていただきました。仮説でしかありませんが、「右手と左手のバランス」や「分目・搦」「身勢」ということにも関係してくるはずだと考えています。
by centeringkokyu
| 2007-03-17 00:00
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