2007年 03月 13日
合気道の神髄 |
「合気道の神髄」(大阪合気道新聞 昭和51年11月21日)から抜粋してご紹介します。
心の法則を研鑽せよ
昭和26年大阪に合気道の道場が誕生して以来、さまざまな行事とともに精進して参りましたが、今日より5年前。財団法人大阪合気会として発足し、内容的にも充実し、ますます活発な動きに発展が目立って参りました。
こうして普及発展すればするほど、私は深奥である合気道を研鑽に研鑽を重ね、更に更に練り上げ、心身鍛錬に精進して行かねばなりません。
合気道の学びは、すなわち心に通ずる法則を研鑽する道である。
合気道は精神的要素を働かし、その道に従わねばならぬ。
精神活動は最も具体的、直接的のものであるから、いきなり統一的精神活動は理解できぬ。精神活動の不可思議である微妙な活動を幾分たりとも理解しようと、究むれば究むるほど、深奥なるを発見するにある。要するに、心に通ずるよう、和の練成によって邁進してこそ、合気道の道に感動して行くのである。
技に気をとらわれているときは、既に技から離れている。これが霊性的直感です。自分自身に悟りを開いて行くことそのものが、自然の法則である。
合気道は、万有の気と結び合い、平等の世界を造り上げるよう、心して精進して行かねばならぬ。それには、おのおのの力量において和合につとめるよう努力せねばならぬ。我々は常に建設的精神を養いつつ邁進し、もって精神の育成につとめ、この世の中に溶け込んで行く、これ合気道の本義である。
合気道は気の流れを研鑽するのである。この気というのが勘になるのです。気は自然である。
合気道を学ぶ条件は心の中心の研鑽にある。形に縛られて学ぶのではなく、合気道を全体から見て、中味を理解するのである。とくに合気道は大和魂を持つ日本人の心(精神)と肉体と言語が結びついて合気道の本義を守り、目的達成するにある。
合気道は、投げることを考えるより、和することを考え(正しい同化)相手は何を考えて何をするかと先々の気をとらえ、相手の隙にさばき込むのである。商魂も同じである。それは正しき中心を知り「ス」の根源によって恵を与えるにある(スとは中心の元である)合気道の極意は形ではありません。心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であり、精神活動の奥深き中心に全力を集中し、心に響きを与え、心の奥底に清き澄み切りし心を深く刻み込み、一元の本源または本質たる道主の霊現をはじめて一切の心が読みとれるのである。
人と人との交わりも言語であり、呼吸である。気である故に相手を引きつける。相手の力を受け止めるのではなく、相手の心を我が心にするよう努力する。相手の心と同化してしまえば、我が思うようになる。これが合気の術である。
我々は天地の真理にもとった修行をし、皆様とともに、ますます飛躍することを希望する。
#楽隠居です
下の3つの図は、25年ほど前に、大阪合気会の田中万川先生が、非売品として出版された、「合気道神髄 創元之巻 道祖 植芝盛平翁妙道」に描かれているものです。
真空の図は、気の研究会でいうところの、弛みを取って、相手の中心を動かすという意味だと、勝手に解釈しています。万川先生は、「物の空で技を掛けてはいけない。」と言っておられたと記憶しています。
そして、『フーム アップ アンド ダウン』のアンドの時に、自分の身体の軸をより細く高く深くすることで、相手もより同調し、意識を動かしやすくなるのではないかとも考えました。(参照:チェックポイントの解説?前半)
図14では、親指が腹で、中指は中心というのは何となく納得できるのですが、私の感じでは、人差し指は、方向を示し、光の部分は、労宮で指先の実に対して、虚ではないかと考えています。光というよりは、むしろブラックホールというイメージでしょうか…
さらに、この図よりも、親指と小指が相対し、人差し指と薬指が相対する方がよいかとも思います(朝顔の手)。皆さんも、色々な仮説を立てて、実験してみられてはいかがでしょうか。
参照:3年前の手帳から
心の法則を研鑽せよ
昭和26年大阪に合気道の道場が誕生して以来、さまざまな行事とともに精進して参りましたが、今日より5年前。財団法人大阪合気会として発足し、内容的にも充実し、ますます活発な動きに発展が目立って参りました。
こうして普及発展すればするほど、私は深奥である合気道を研鑽に研鑽を重ね、更に更に練り上げ、心身鍛錬に精進して行かねばなりません。
合気道の学びは、すなわち心に通ずる法則を研鑽する道である。
合気道は精神的要素を働かし、その道に従わねばならぬ。
精神活動は最も具体的、直接的のものであるから、いきなり統一的精神活動は理解できぬ。精神活動の不可思議である微妙な活動を幾分たりとも理解しようと、究むれば究むるほど、深奥なるを発見するにある。要するに、心に通ずるよう、和の練成によって邁進してこそ、合気道の道に感動して行くのである。
技に気をとらわれているときは、既に技から離れている。これが霊性的直感です。自分自身に悟りを開いて行くことそのものが、自然の法則である。
合気道は、万有の気と結び合い、平等の世界を造り上げるよう、心して精進して行かねばならぬ。それには、おのおのの力量において和合につとめるよう努力せねばならぬ。我々は常に建設的精神を養いつつ邁進し、もって精神の育成につとめ、この世の中に溶け込んで行く、これ合気道の本義である。
合気道は気の流れを研鑽するのである。この気というのが勘になるのです。気は自然である。
合気道を学ぶ条件は心の中心の研鑽にある。形に縛られて学ぶのではなく、合気道を全体から見て、中味を理解するのである。とくに合気道は大和魂を持つ日本人の心(精神)と肉体と言語が結びついて合気道の本義を守り、目的達成するにある。
合気道は、投げることを考えるより、和することを考え(正しい同化)相手は何を考えて何をするかと先々の気をとらえ、相手の隙にさばき込むのである。商魂も同じである。それは正しき中心を知り「ス」の根源によって恵を与えるにある(スとは中心の元である)合気道の極意は形ではありません。心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であり、精神活動の奥深き中心に全力を集中し、心に響きを与え、心の奥底に清き澄み切りし心を深く刻み込み、一元の本源または本質たる道主の霊現をはじめて一切の心が読みとれるのである。
人と人との交わりも言語であり、呼吸である。気である故に相手を引きつける。相手の力を受け止めるのではなく、相手の心を我が心にするよう努力する。相手の心と同化してしまえば、我が思うようになる。これが合気の術である。
我々は天地の真理にもとった修行をし、皆様とともに、ますます飛躍することを希望する。
#楽隠居です
下の3つの図は、25年ほど前に、大阪合気会の田中万川先生が、非売品として出版された、「合気道神髄 創元之巻 道祖 植芝盛平翁妙道」に描かれているものです。
真空の図は、気の研究会でいうところの、弛みを取って、相手の中心を動かすという意味だと、勝手に解釈しています。万川先生は、「物の空で技を掛けてはいけない。」と言っておられたと記憶しています。
そして、『フーム アップ アンド ダウン』のアンドの時に、自分の身体の軸をより細く高く深くすることで、相手もより同調し、意識を動かしやすくなるのではないかとも考えました。(参照:チェックポイントの解説?前半)
図14では、親指が腹で、中指は中心というのは何となく納得できるのですが、私の感じでは、人差し指は、方向を示し、光の部分は、労宮で指先の実に対して、虚ではないかと考えています。光というよりは、むしろブラックホールというイメージでしょうか…
さらに、この図よりも、親指と小指が相対し、人差し指と薬指が相対する方がよいかとも思います(朝顔の手)。皆さんも、色々な仮説を立てて、実験してみられてはいかがでしょうか。
参照:3年前の手帳から
by centeringkokyu
| 2007-03-13 00:00
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