2006年 12月 30日
風声明語 |
野口晴哉著「風声明語」からご紹介します。
自分の健康は自分で保つ可きだ。
蟻でも、鼠でも、犬でも、そのことを実行しているのに、
人間は自分で自分の健康を保てない、
何故か。
いつの間にか、病気は他の力で治して貰うもの、
健康は何らかの方法によらねばならぬもの、
自分独りでは生きられぬものと自ら決めてしまっているからである。
その決めた心の向きさえ変えれば、
そのはたらきで丈夫を保つことができることに気付かないのは惜しい。
しかし、これができなければ、自由も独立もない。
非常の場合、自分ではどうにもならないような心で、
口先だけで、自由や独立をいうのは滑稽だ。
◇ ◆ ◇
自発的に行えば楽しんで行えることでも、命令され、強制されて行えば疲れる。
命令され、強制されることでも、自発的に受け入れるなら嬉しさがある。
人間の行為に於ける真実とは、その自発的であるか否かにある。
人間が機械になりつつあることを防ぐ唯一のものは、自発の行為に生くることである。
◇ ◆ ◇
健康の原点
健康の原点は自分の体に適うよう、飲み、食い、働き、眠ることにある。
そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。
どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。
これが判らないようでは鈍っていると言う可きであろう。
体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。
旨ければ自ずと、唾が湧き、嫌いなことでは快感は湧かない。
楽しく、嬉しく、快く行えることは正しい。
人生は楽々、悠々、スラスラ、行動す可きである。
◇ ◆ ◇
今、生きているということは、死につつあるということと同じである。
人間は誰も、死ぬといって間違いない。昔から死ななかった人はいない。
それ故、十年生きたことは、十年死んだということになる。
しかし、死を見つめて生きてきた者と、死を見ないように生きてきた者とは、人生に対する態度が違う。
人の死ぬことを知って生きている者は、いつも人生に誠実である。
人のいつか死ぬことを覚悟して生きる者は、養生の人である。
◇ ◆ ◇
イスラエルのフェルデンクライス博士は、いろいろの病気を治し健康を獲得する為に、体操をいくつもつくった。六の日の講座の時、それを紹介して、「私はこういう体操を千七百余りつくった。それでもまだ足りない。あなたはどれ位つくられたか」と訊かれた。
「一つ……オンリイ・ワン」と、私は答えたが、生命の為の体操は一つでよい。千七百余もつくってまだ足りないと言うのは、生命のことを知らないからである。
#楽隠居です
野口晴哉先生とフェルデンクライス博士は、接触があったという証拠の文章です。お互いのプライドもあることでしょうし、方法論は異なりますが、自分で自分の健康を保つということでは共通だとも言えます。さらに、無意識の動きか、意識的な動きかは別として、筋肉の緊張を弛めるという目的は同じだと思います。
私の個人的な感じとしては、意識的な動きを神経訓練と考えてする方が、錐体外路系運動を訓練するよりも再現性があると考えています。身体が弛んでくると、小さな活元運動的動きがでることもありますが、それは自然な動きに任せておけばいいのです。その動きを「うすらぼんやり」観ることが、気づきにつながることもあるはずですから・・・
寧ろ、多くの人達が他の人と同じような動きをしないといけないと感じてしまう方が問題だとも考えられます。
参照1:見えない糸
参照2:自分の体の変化の観察
自分の健康は自分で保つ可きだ。
蟻でも、鼠でも、犬でも、そのことを実行しているのに、
人間は自分で自分の健康を保てない、
何故か。
いつの間にか、病気は他の力で治して貰うもの、
健康は何らかの方法によらねばならぬもの、
自分独りでは生きられぬものと自ら決めてしまっているからである。
その決めた心の向きさえ変えれば、
そのはたらきで丈夫を保つことができることに気付かないのは惜しい。
しかし、これができなければ、自由も独立もない。
非常の場合、自分ではどうにもならないような心で、
口先だけで、自由や独立をいうのは滑稽だ。
◇ ◆ ◇
自発的に行えば楽しんで行えることでも、命令され、強制されて行えば疲れる。
命令され、強制されることでも、自発的に受け入れるなら嬉しさがある。
人間の行為に於ける真実とは、その自発的であるか否かにある。
人間が機械になりつつあることを防ぐ唯一のものは、自発の行為に生くることである。
◇ ◆ ◇
健康の原点
健康の原点は自分の体に適うよう、飲み、食い、働き、眠ることにある。
そして、理想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。
どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。
これが判らないようでは鈍っていると言う可きであろう。
体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。
旨ければ自ずと、唾が湧き、嫌いなことでは快感は湧かない。
楽しく、嬉しく、快く行えることは正しい。
人生は楽々、悠々、スラスラ、行動す可きである。
◇ ◆ ◇
今、生きているということは、死につつあるということと同じである。
人間は誰も、死ぬといって間違いない。昔から死ななかった人はいない。
それ故、十年生きたことは、十年死んだということになる。
しかし、死を見つめて生きてきた者と、死を見ないように生きてきた者とは、人生に対する態度が違う。
人の死ぬことを知って生きている者は、いつも人生に誠実である。
人のいつか死ぬことを覚悟して生きる者は、養生の人である。
◇ ◆ ◇
イスラエルのフェルデンクライス博士は、いろいろの病気を治し健康を獲得する為に、体操をいくつもつくった。六の日の講座の時、それを紹介して、「私はこういう体操を千七百余りつくった。それでもまだ足りない。あなたはどれ位つくられたか」と訊かれた。
「一つ……オンリイ・ワン」と、私は答えたが、生命の為の体操は一つでよい。千七百余もつくってまだ足りないと言うのは、生命のことを知らないからである。
#楽隠居です
野口晴哉先生とフェルデンクライス博士は、接触があったという証拠の文章です。お互いのプライドもあることでしょうし、方法論は異なりますが、自分で自分の健康を保つということでは共通だとも言えます。さらに、無意識の動きか、意識的な動きかは別として、筋肉の緊張を弛めるという目的は同じだと思います。
私の個人的な感じとしては、意識的な動きを神経訓練と考えてする方が、錐体外路系運動を訓練するよりも再現性があると考えています。身体が弛んでくると、小さな活元運動的動きがでることもありますが、それは自然な動きに任せておけばいいのです。その動きを「うすらぼんやり」観ることが、気づきにつながることもあるはずですから・・・
寧ろ、多くの人達が他の人と同じような動きをしないといけないと感じてしまう方が問題だとも考えられます。
参照1:見えない糸
参照2:自分の体の変化の観察
by centeringkokyu
| 2006-12-30 00:06
| フェルデンクライス関連