2006年 12月 12日
準備 |
私のHPのコラム(2003-07-02)から転載します。ネタ切れですから・・・
先日、NHKの「新日曜美術館」で、河鍋暁斉を取り上げていました。浮世絵も描けば、狩野派の絵も描く、という事で、当時の画壇では評価されないところもあったようですが、早描きをしたり、題材も意味深長なものもあり、興味深い作品が数多くありました。
外国人のお弟子さんもいたようで、その人から得た知識で、暁斉は骸骨と裸体を対比させた絵や、遠近法を取り入れた絵を描いています。また、裸体を墨で描いてから、衣服を朱で描いた下絵や、大きな下絵の上に、顔の表情や、足の部分などを、何度も小さな紙に描き直し、修正を繰り返した様子がよくわかる下絵なども残されていました。
これまでも、美術館で、日本画家の下絵やエッシャーの下絵を見たときには、感激しました。しかし、暁斉ほど大量の下絵を残した画家は少ないようです。さらに、外国人の真面目なお弟子さんの為に、外国人らしい率直な質問に答え、秘伝と言われていた技法や、制作過程を、事細かに教えたようです。そして、外国人のお弟子さんが、その指導過程を、技法の解説本として外国で出版したのです。
私達が制作過程を知る事は、ほとんど出来ません。ですから、結果としての作品は見ることができますが、その制作過程であるアイデアの段階や、細部が何度も描き直されている事に、考えが及ぶ事は、ほとんど有りません。
彫刻家の平櫛田中は、昭和11年に6代目菊五郎の鏡獅子の舞台姿を彫りたいと思い、菊五郎をモデルに まず「鏡獅子試作裸像」を作り、昭和13年の院展に出品しました。この作品は、菊五郎が裸で決まりのポーズをとっているのですが、菊五郎は、9代目団十郎に踊りを習うときには、裸で教わり、常に裸で稽古をして、身体の動きを研究していたとの事でした。
昭和14年には、衣装をつけた、高さ50センチの「試作・鏡獅子」を出品したのですが、この作品は、裸の上に衣装をつけたり、頭に大きな毛をかぶせるところで、思いがけない苦心をし、何回も失敗を重ね、作り直したようです。
以前、平櫛田中展で、裸体と衣装を着けた鏡獅子の像を、両方同時に見たのですが、衣装を着けた鏡獅子は、裸体に比べると、明らかに衣装や被り物の重さを感じさせる身体表現になっていたので驚きました。
途中、戦争があり制作を中断し、改めて「鏡獅子」の原型の制作にとりかかったのは、昭和29年11月でした。昭和32年の暮れ、ついに2メートル30センチの「鏡獅子」が完成し、木像に金箔をおし、その上に彩色を施し、昭和33年の院展に出品されたのです。
美術品だけではなく、様々な稽古事でもそうなのでしょうが、自分が目に付いたところだけにしか考えが及ばないものです。完成までに費やされてきた時間や、表現方法の変化、そして、技術を積み重ねることの大切さを、少しだけでも想像できれば、作品に対する感じ方や、人生観さえも影響を受けるかもしれません。
○それから
昭和11年に平櫛田中(ひらぐし でんちゅう)は、64歳で「鏡獅子」の制作を思い立ち、昭和33年に86歳で、それを完成し、第43回院展に出品しました。
丁度そのころ、国立劇場が建てられることになり、 国は「鏡獅子」を、2億円で買い上げ、新しい劇場に飾る事にしましたが、平櫛田中は、「お金はいりません。この作品は私一人で作ったものではありません。六代目菊五郎さんと二人でこさえたもんですから、お金をとったら、あの世で、六代目さんに会った時、挨拶のしようがないですよ。ですから、お金はびた一文いりません。」と答えたのです。
田中は、「鏡獅子」を東京国立 近代美術館に寄贈しました。近代美術館では、それを国立劇場に貸し出すことにしたのです。こうして「鏡獅子」は、昭和41年に真新しい国立劇場の正面ホールに飾られたのです。
田中は、百歳を越えてもその制作意欲が衰えず、材料になる木を、30年分程も用意していたと言われています。そして、長寿の秘訣を尋ねられると、「今日もお仕事 おまんまうまいよ、貧乏極楽 気長にゆっくり。」と答えています。また、田中お気に入りの作品に「気楽坊」がありますが、それは、後水尾天皇が「世の中は 気楽に暮らせ 何事も 思えば思う 思わねばこそ」と詠まれた歌を元にして作られた作品です。これは、田中自身の気持ちでもあったようです。
岡山県に、井原市立田中美術館があります。
以上は、平櫛田中伝記編集委員会編の資料より、抜粋させて頂きました。
#蛇足です
毎年12月12日になると、小さい紙か短冊に『十二月十二日』と漢字で書いて、それに糊をつけて玄関や窓などに張ったことは、ありませんでしょうか?
この日は、石川五右衛門が捕まった日か、釜茹でにされた日だからという説があるようですが、私が聞いたのは「いに いに」。関西弁で「帰り 帰り」という意味で、「泥棒除けのまじない」だという事でした。確か、逆さまにして貼ったような記憶があるのですが・・・
現在ならさしずめ、セコムのシールぐらいの感じでせうか?
参照1:平櫛田中美術館
参照2:河鍋暁斉記念美術館
先日、NHKの「新日曜美術館」で、河鍋暁斉を取り上げていました。浮世絵も描けば、狩野派の絵も描く、という事で、当時の画壇では評価されないところもあったようですが、早描きをしたり、題材も意味深長なものもあり、興味深い作品が数多くありました。
外国人のお弟子さんもいたようで、その人から得た知識で、暁斉は骸骨と裸体を対比させた絵や、遠近法を取り入れた絵を描いています。また、裸体を墨で描いてから、衣服を朱で描いた下絵や、大きな下絵の上に、顔の表情や、足の部分などを、何度も小さな紙に描き直し、修正を繰り返した様子がよくわかる下絵なども残されていました。
これまでも、美術館で、日本画家の下絵やエッシャーの下絵を見たときには、感激しました。しかし、暁斉ほど大量の下絵を残した画家は少ないようです。さらに、外国人の真面目なお弟子さんの為に、外国人らしい率直な質問に答え、秘伝と言われていた技法や、制作過程を、事細かに教えたようです。そして、外国人のお弟子さんが、その指導過程を、技法の解説本として外国で出版したのです。
私達が制作過程を知る事は、ほとんど出来ません。ですから、結果としての作品は見ることができますが、その制作過程であるアイデアの段階や、細部が何度も描き直されている事に、考えが及ぶ事は、ほとんど有りません。
彫刻家の平櫛田中は、昭和11年に6代目菊五郎の鏡獅子の舞台姿を彫りたいと思い、菊五郎をモデルに まず「鏡獅子試作裸像」を作り、昭和13年の院展に出品しました。この作品は、菊五郎が裸で決まりのポーズをとっているのですが、菊五郎は、9代目団十郎に踊りを習うときには、裸で教わり、常に裸で稽古をして、身体の動きを研究していたとの事でした。
昭和14年には、衣装をつけた、高さ50センチの「試作・鏡獅子」を出品したのですが、この作品は、裸の上に衣装をつけたり、頭に大きな毛をかぶせるところで、思いがけない苦心をし、何回も失敗を重ね、作り直したようです。
以前、平櫛田中展で、裸体と衣装を着けた鏡獅子の像を、両方同時に見たのですが、衣装を着けた鏡獅子は、裸体に比べると、明らかに衣装や被り物の重さを感じさせる身体表現になっていたので驚きました。
途中、戦争があり制作を中断し、改めて「鏡獅子」の原型の制作にとりかかったのは、昭和29年11月でした。昭和32年の暮れ、ついに2メートル30センチの「鏡獅子」が完成し、木像に金箔をおし、その上に彩色を施し、昭和33年の院展に出品されたのです。
美術品だけではなく、様々な稽古事でもそうなのでしょうが、自分が目に付いたところだけにしか考えが及ばないものです。完成までに費やされてきた時間や、表現方法の変化、そして、技術を積み重ねることの大切さを、少しだけでも想像できれば、作品に対する感じ方や、人生観さえも影響を受けるかもしれません。
○それから
昭和11年に平櫛田中(ひらぐし でんちゅう)は、64歳で「鏡獅子」の制作を思い立ち、昭和33年に86歳で、それを完成し、第43回院展に出品しました。
丁度そのころ、国立劇場が建てられることになり、 国は「鏡獅子」を、2億円で買い上げ、新しい劇場に飾る事にしましたが、平櫛田中は、「お金はいりません。この作品は私一人で作ったものではありません。六代目菊五郎さんと二人でこさえたもんですから、お金をとったら、あの世で、六代目さんに会った時、挨拶のしようがないですよ。ですから、お金はびた一文いりません。」と答えたのです。
田中は、「鏡獅子」を東京国立 近代美術館に寄贈しました。近代美術館では、それを国立劇場に貸し出すことにしたのです。こうして「鏡獅子」は、昭和41年に真新しい国立劇場の正面ホールに飾られたのです。
田中は、百歳を越えてもその制作意欲が衰えず、材料になる木を、30年分程も用意していたと言われています。そして、長寿の秘訣を尋ねられると、「今日もお仕事 おまんまうまいよ、貧乏極楽 気長にゆっくり。」と答えています。また、田中お気に入りの作品に「気楽坊」がありますが、それは、後水尾天皇が「世の中は 気楽に暮らせ 何事も 思えば思う 思わねばこそ」と詠まれた歌を元にして作られた作品です。これは、田中自身の気持ちでもあったようです。
岡山県に、井原市立田中美術館があります。
以上は、平櫛田中伝記編集委員会編の資料より、抜粋させて頂きました。
#蛇足です
毎年12月12日になると、小さい紙か短冊に『十二月十二日』と漢字で書いて、それに糊をつけて玄関や窓などに張ったことは、ありませんでしょうか?
この日は、石川五右衛門が捕まった日か、釜茹でにされた日だからという説があるようですが、私が聞いたのは「いに いに」。関西弁で「帰り 帰り」という意味で、「泥棒除けのまじない」だという事でした。確か、逆さまにして貼ったような記憶があるのですが・・・
現在ならさしずめ、セコムのシールぐらいの感じでせうか?
参照1:平櫛田中美術館
参照2:河鍋暁斉記念美術館
by centeringkokyu
| 2006-12-12 12:12
| 日常