2006年 12月 10日
柳生新陰流と金春流 |
隆慶一郎研究 瓢水氏による作品成立過程の考究から抜粋してご紹介します。
[柳生非情剣]
[『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その1)]
「慶安御前試合」(『柳生非情剣』所収)は、柳生石舟斎から数えて第14代の道統に当たる柳生厳長氏の『正傳新陰流』(元版は講談社、改版は島津書房)に全面的に依拠した作品である。厳長氏は尾張柳生の道統であり、尾張柳生家に伝えられた記録や口伝に基づいて本書を執筆した。その中に、慶安御前試合についての言い伝えが記されている。
立ち合いの様子は「慶安御前試合」と同じである。宗冬の右拇指を砕いた後、兵助はそのまま進んで小太刀の切っ先を宗冬のみぞおちに擬した。宗冬は俯いて足早に引き下がる。勝負が決した後、兵助は「後ろを向いて、木太刀の太刀鋒から鍔もとにかけて血ぬったその穢れを、懐紙をとり出して手ばやく拭い取った」(191‐192頁)と云う。
ちなみに尾張柳生家には、この時の“血痕付き”の小太刀が秘蔵されており、「ときどきこれを柳生会で諸台の清鑑に供している」(192頁。昭和32年当時)とのことである。
【追記】隆先生は柳生一族を描く際、『正傳新陰流』を縦横に活用したと思われる。何故なら『かくれさと苦界行』に、「『無刀取り』について柳生流十四世の道統を継がれた柳生厳長氏に短い記述がある」(新潮文庫版、143頁)とあり、石舟斎が家康に「無刀取り」を実演する場面が紹介されているのだが、これまた『正傳新陰流』に拠っているからである。(2004年4月1日瓢水記)
[『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その2・完結))]
この兵助と宗冬の立ち合いについて、『柳生一族』(新人物往来社)を書いた今村嘉雄氏はなかなか穿った論を展開している。以下に該当箇所を引用してみよう。
「尾張柳生の印可をうけている現在の権威たちの話によると、この時の宗冬、兵助の演じたのは、試合ではなくて『大転』と呼ばれている勢法、つまり型であって、兵助の使太刀の打込みが早すぎたため宗冬の拳を傷つけたものである(中略)『徳川実紀』では、宗冬はそれから八日後の四月十四日には堀田正盛、久世広元等と剣術を上覧に供している。もし実際に、そのようなことがあったとすれば、落度は双方の打ち合わせ不十分の点にあり、けっして自慢すべきことでない。むしろ、こうした伝説の強調は、技法にとらわれた尾州柳生の次元の低さを証するようなものである」(291‐292頁)。
つまり、尾張柳生家に伝わる兵助と宗冬の試合は“虚報”であり、この“虚報”は江戸柳生と尾張柳生の不和の産物であると主張しているのである。“正統派”の意見と言える。(2004年4月2日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その1)]
隆先生による一連の“柳生もの”の短編は、『柳生非情剣』として雑誌発表順にまとめられた。どれも力作であるが、中でも「柳枝の剣」は、「ぼうふらの剣」を経て「夜叉神の翁」に至るという意味で重要な作品のように思える。今回はこの点について書いてみたい。
「柳枝の剣」を読むと、隆先生が“宿題”として残したテーマがあることに気付く。それは、元々は金春流猿楽に伝わり、後に柳生新陰流の秘伝となった『一足一見』である。又十郎宗冬が能に打ち込んだことを記す際に、「元来、能と柳生新陰流はどこかで深く関わりを持っていたらしい」と書いた隆先生であるが、「『一足一見』が何を意味するかは筆者には分からない」と保留している(講談社文庫版、67頁)。
事実、この時点では隆先生にも判然としなかったのであろう。しかし、能と柳生新陰流の関わりには興味を持った。そこで『一足一見』を切り口にして両者の関わりを紐解こうと試みたのが、宗冬を全面的に取り上げた「ぼうふらの剣」だったと思われる。 (2004年5月21日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その2)]
しかし、「ぼうふらの剣」には合点がいかない箇所がある。それは、金春流と柳生新陰流で秘伝の交換教授をした際、柳生流から金春流に伝えたとされる『西江水』である。「ぼうふらの剣」では専ら『一足一見』に筆が費やされ、『西江水』についての記述はほとんどないのだ。両者ともに“足運び”の極意であるように思われるが、これが事実なのか、はたまた隆先生の創見なのかは判らない。
ともあれ、金春流と柳生新陰流の関わりに興味を抱いた隆先生は、能を愛好した宗冬が思いがけずも金春流の秘伝『一足一見』を会得する過程を描いた。これこそが「ぼうふらの剣」が書かれた理由だったと思われる。しかし、隆先生の好奇心はより一層深まっていった。何故なら、柳生石舟斎と秘伝の交換教授を行ない、さらには石舟斎から柳生新陰流の極意を記した『新陰流兵法目録事』を授けられた兵法の天才、金春七郎氏勝を発見したからである。 (2004年5月22日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その3・完)]
この金春七郎氏勝という人物を発見した時、おそらく隆先生は、驚きのあまり声を失ったのではないだろうか。「槍を十文字槍術宝蔵院胤栄、新当流長太刀を穴沢浄見、大坪流馬術を上田吉之丞といった当代一流の師に学び、いずれも皆伝を得ている。その氏勝が剣の師と仰ぎ、皆伝を許されたのは柳生石舟斎だった」(前掲書、105頁)という熱っぽい紹介からも、「こいつは一体何者なんだ!」という驚きと、七郎氏勝への大いなる関心が窺えるではないか。
そう、この金春七郎氏勝こそが、雑誌『野性時代』(角川書店)に僅か6回連載されただけで未完となった「夜叉神の翁——金春一族の陰謀」の主人公なのである。隆先生がこの七郎氏勝を軸に、金春流と柳生新陰流の関わりを解き明かそうと試みたことは明らかであろう。「柳枝の剣」で抱いた関心は、「ぼうふらの剣」で間接的ながらその輪郭が描かれ、「夜叉神の翁」に至って真正面から取り組むべき機が熟したのであった。 (2004年5月23日瓢水記)
[試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也]
真田増誉『明良洪範』より柳生宗矩の有名な逸話をひとつ。息子の宗冬に兵法の厳しさを知らしめた内容であるが、同時に将軍家兵法師範としての処世の難しさが滲み出ている逸話でもある。読み方によっては、宗矩の悲鳴が聞こえるような気さえする。
「大猷院様(注:徳川家光)品川御殿へ御成有り柳生但馬守御供にて剣術上覧有り御側の面々何れも試合有て御機嫌斜ならず(中略)此時但馬守が子飛騨守(注:宗冬)も御供にて父但馬守と試合せしが一度も勝事能はずして飛騨守寸の延たる太刀ならば勝べしと申されければさらば大太刀にて試合仕れと仰せられ飛騨守寸延びの大太刀を持て父子立合けるに伜推参也と云ながら唯一打に打居たり飛騨守暫時気絶したり畢竟寸の延びたる太刀ならば勝べしなど云事柳生家に生れし者の本意に有ずとて強く打たる也とぞ剣術の試合は譬御慰みなり共試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也」(『明良洪範』国書刊行会、66‐67頁)。 (楽隠居注:新陰流には長短一味という教えがあります。)
この逸話を換骨奪胎したのが、隆先生の「ぼうふらの剣」(『柳生非情剣』所収)である。宗冬の上達振りに慄然とした宗矩は、ここで負けては天下随一の剣の伝説が崩れてしまうため、秘伝中の秘伝ともいうべき『西江水』の剣を使って宗冬を昏倒させた。柳生家を出奔した宗冬は、柳生の里に近い金春重勝の稽古場に通ううち、『西江水』の由来について知ることになる。そこには、能楽と剣法の意外な接点が秘められていた……。(2004年10月1日瓢水記)
#楽隠居です
隆慶一郎先生の著書は、だいたい読んでいたのですが、『夜叉神の翁』は知りませんでした。隆慶一郎全集5に掲載されていましたので、早速読んでみました。
「一足一見」と「西江水」に関しては、やはり小説ですから、想像で書かれているという感は否めませんが、着眼点は流石だと思います。「西江水」については、このブログでも紹介していますので、単語検索してみてください。
柳生新陰流関連の小説は、隆慶一郎短篇全集に掲載されていますのでご一読をお薦めします。
以前ご紹介した写真ですが、この中に柳生新陰流関連の本が沢山ありますので載せておきます。
[柳生非情剣]
[『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その1)]
「慶安御前試合」(『柳生非情剣』所収)は、柳生石舟斎から数えて第14代の道統に当たる柳生厳長氏の『正傳新陰流』(元版は講談社、改版は島津書房)に全面的に依拠した作品である。厳長氏は尾張柳生の道統であり、尾張柳生家に伝えられた記録や口伝に基づいて本書を執筆した。その中に、慶安御前試合についての言い伝えが記されている。
立ち合いの様子は「慶安御前試合」と同じである。宗冬の右拇指を砕いた後、兵助はそのまま進んで小太刀の切っ先を宗冬のみぞおちに擬した。宗冬は俯いて足早に引き下がる。勝負が決した後、兵助は「後ろを向いて、木太刀の太刀鋒から鍔もとにかけて血ぬったその穢れを、懐紙をとり出して手ばやく拭い取った」(191‐192頁)と云う。
ちなみに尾張柳生家には、この時の“血痕付き”の小太刀が秘蔵されており、「ときどきこれを柳生会で諸台の清鑑に供している」(192頁。昭和32年当時)とのことである。
【追記】隆先生は柳生一族を描く際、『正傳新陰流』を縦横に活用したと思われる。何故なら『かくれさと苦界行』に、「『無刀取り』について柳生流十四世の道統を継がれた柳生厳長氏に短い記述がある」(新潮文庫版、143頁)とあり、石舟斎が家康に「無刀取り」を実演する場面が紹介されているのだが、これまた『正傳新陰流』に拠っているからである。(2004年4月1日瓢水記)
[『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その2・完結))]
この兵助と宗冬の立ち合いについて、『柳生一族』(新人物往来社)を書いた今村嘉雄氏はなかなか穿った論を展開している。以下に該当箇所を引用してみよう。
「尾張柳生の印可をうけている現在の権威たちの話によると、この時の宗冬、兵助の演じたのは、試合ではなくて『大転』と呼ばれている勢法、つまり型であって、兵助の使太刀の打込みが早すぎたため宗冬の拳を傷つけたものである(中略)『徳川実紀』では、宗冬はそれから八日後の四月十四日には堀田正盛、久世広元等と剣術を上覧に供している。もし実際に、そのようなことがあったとすれば、落度は双方の打ち合わせ不十分の点にあり、けっして自慢すべきことでない。むしろ、こうした伝説の強調は、技法にとらわれた尾州柳生の次元の低さを証するようなものである」(291‐292頁)。
つまり、尾張柳生家に伝わる兵助と宗冬の試合は“虚報”であり、この“虚報”は江戸柳生と尾張柳生の不和の産物であると主張しているのである。“正統派”の意見と言える。(2004年4月2日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その1)]
隆先生による一連の“柳生もの”の短編は、『柳生非情剣』として雑誌発表順にまとめられた。どれも力作であるが、中でも「柳枝の剣」は、「ぼうふらの剣」を経て「夜叉神の翁」に至るという意味で重要な作品のように思える。今回はこの点について書いてみたい。
「柳枝の剣」を読むと、隆先生が“宿題”として残したテーマがあることに気付く。それは、元々は金春流猿楽に伝わり、後に柳生新陰流の秘伝となった『一足一見』である。又十郎宗冬が能に打ち込んだことを記す際に、「元来、能と柳生新陰流はどこかで深く関わりを持っていたらしい」と書いた隆先生であるが、「『一足一見』が何を意味するかは筆者には分からない」と保留している(講談社文庫版、67頁)。
事実、この時点では隆先生にも判然としなかったのであろう。しかし、能と柳生新陰流の関わりには興味を持った。そこで『一足一見』を切り口にして両者の関わりを紐解こうと試みたのが、宗冬を全面的に取り上げた「ぼうふらの剣」だったと思われる。 (2004年5月21日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その2)]
しかし、「ぼうふらの剣」には合点がいかない箇所がある。それは、金春流と柳生新陰流で秘伝の交換教授をした際、柳生流から金春流に伝えたとされる『西江水』である。「ぼうふらの剣」では専ら『一足一見』に筆が費やされ、『西江水』についての記述はほとんどないのだ。両者ともに“足運び”の極意であるように思われるが、これが事実なのか、はたまた隆先生の創見なのかは判らない。
ともあれ、金春流と柳生新陰流の関わりに興味を抱いた隆先生は、能を愛好した宗冬が思いがけずも金春流の秘伝『一足一見』を会得する過程を描いた。これこそが「ぼうふらの剣」が書かれた理由だったと思われる。しかし、隆先生の好奇心はより一層深まっていった。何故なら、柳生石舟斎と秘伝の交換教授を行ない、さらには石舟斎から柳生新陰流の極意を記した『新陰流兵法目録事』を授けられた兵法の天才、金春七郎氏勝を発見したからである。 (2004年5月22日瓢水記)
[『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その3・完)]
この金春七郎氏勝という人物を発見した時、おそらく隆先生は、驚きのあまり声を失ったのではないだろうか。「槍を十文字槍術宝蔵院胤栄、新当流長太刀を穴沢浄見、大坪流馬術を上田吉之丞といった当代一流の師に学び、いずれも皆伝を得ている。その氏勝が剣の師と仰ぎ、皆伝を許されたのは柳生石舟斎だった」(前掲書、105頁)という熱っぽい紹介からも、「こいつは一体何者なんだ!」という驚きと、七郎氏勝への大いなる関心が窺えるではないか。
そう、この金春七郎氏勝こそが、雑誌『野性時代』(角川書店)に僅か6回連載されただけで未完となった「夜叉神の翁——金春一族の陰謀」の主人公なのである。隆先生がこの七郎氏勝を軸に、金春流と柳生新陰流の関わりを解き明かそうと試みたことは明らかであろう。「柳枝の剣」で抱いた関心は、「ぼうふらの剣」で間接的ながらその輪郭が描かれ、「夜叉神の翁」に至って真正面から取り組むべき機が熟したのであった。 (2004年5月23日瓢水記)
[試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也]
真田増誉『明良洪範』より柳生宗矩の有名な逸話をひとつ。息子の宗冬に兵法の厳しさを知らしめた内容であるが、同時に将軍家兵法師範としての処世の難しさが滲み出ている逸話でもある。読み方によっては、宗矩の悲鳴が聞こえるような気さえする。
「大猷院様(注:徳川家光)品川御殿へ御成有り柳生但馬守御供にて剣術上覧有り御側の面々何れも試合有て御機嫌斜ならず(中略)此時但馬守が子飛騨守(注:宗冬)も御供にて父但馬守と試合せしが一度も勝事能はずして飛騨守寸の延たる太刀ならば勝べしと申されければさらば大太刀にて試合仕れと仰せられ飛騨守寸延びの大太刀を持て父子立合けるに伜推参也と云ながら唯一打に打居たり飛騨守暫時気絶したり畢竟寸の延びたる太刀ならば勝べしなど云事柳生家に生れし者の本意に有ずとて強く打たる也とぞ剣術の試合は譬御慰みなり共試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也」(『明良洪範』国書刊行会、66‐67頁)。 (楽隠居注:新陰流には長短一味という教えがあります。)
この逸話を換骨奪胎したのが、隆先生の「ぼうふらの剣」(『柳生非情剣』所収)である。宗冬の上達振りに慄然とした宗矩は、ここで負けては天下随一の剣の伝説が崩れてしまうため、秘伝中の秘伝ともいうべき『西江水』の剣を使って宗冬を昏倒させた。柳生家を出奔した宗冬は、柳生の里に近い金春重勝の稽古場に通ううち、『西江水』の由来について知ることになる。そこには、能楽と剣法の意外な接点が秘められていた……。(2004年10月1日瓢水記)
#楽隠居です
隆慶一郎先生の著書は、だいたい読んでいたのですが、『夜叉神の翁』は知りませんでした。隆慶一郎全集5に掲載されていましたので、早速読んでみました。
「一足一見」と「西江水」に関しては、やはり小説ですから、想像で書かれているという感は否めませんが、着眼点は流石だと思います。「西江水」については、このブログでも紹介していますので、単語検索してみてください。
柳生新陰流関連の小説は、隆慶一郎短篇全集に掲載されていますのでご一読をお薦めします。
以前ご紹介した写真ですが、この中に柳生新陰流関連の本が沢山ありますので載せておきます。
by centeringkokyu
| 2006-12-10 15:31
| 本などの紹介