2006年 11月 19日
わかる |
「わかる」とは どういうことか ―認識の脳科学 山鳥 重著からご紹介します。
「わからない」ことに気づく
変な言い方ですが、わかるためには「これはわからない」「ここまではわかったがここからはわからない」など、わからないことに気が付く必要があります。これじゃ禅問答みたいですから表現を変えてみましょう。わからないとは、何か新しい問題に直面したとき、これは自分の頭にはおさまらないぞ、という感情です。心の異物感です。
わからないよ、と心が声を上げるのです。この心の声が聞こえなければ、わかるも、わからないもないのです。ここまではわかったけど、ここからがわからない、と心が情報(心像)を整理してくれているのです。自分の記憶心像と照らし合わせて、これはわかる、これはわからないという信号を出しているのです。
知識の網の目があると、その網の目を通してものごとは整理されます。わからないことがあると、この網の目に引っかかってしまうのです。心がこれ何? と信号を発します。わからん! と声を上げるのです。疑問として立ち上がります。そしてこの疑問が解決すると、知識の網の目がひとつ増えます。網の目は一段と細かくなります。網の目が作り上げられていないところは、ひっかけようもありません。そもそも網が準備されていないのです。
解いた答えが本当かどうかを知ろうとして、さらに考えます。疑問が生じないと、その疑問を解きたい、という衝動も生まれません。
その時の自分の知識ではわからないものが、わからないぞ、と引っかかってくるのです。引っかかるのは、自分がそれ相応の網を張っているからです。
学校ではわからないことは試験問題とか、先生からの質問という形で与えられます。ですが、このように受け身の形で人から与えられた問題(わからないこと)が解けたからといって、知識が自分のものになるわけではありません。本当の意味でのわかる・わからないの区別の能力は人から与えられるものではありません。自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです。
学校で試験が出来だからといっても、それは与えられたことをこなしているだけで、その人の能力の尺度にはなりません。社会に出た時、なんやあいつ、と無能をさらすことになります。社会で生きてゆくには自分で自分のわからないところをはっきりさせ、自分でそれを解決してゆく力が必要です。
人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。
#楽隠居です
詳しくは、配付資料083をご一読願います。
以前少しご紹介した「大使が書いた日本人とユダヤ人」駐日イスラエル大使 エリ・コーヘン著から引用します。
日本とイスラエルの教育のはっきりした違いは興味深い。日本の教育現場では、生徒は教師の教えることを疑いなく受け入れることが普通である。調べたり問いを発したりということはずっと後の段階になってなされることが多い。
問いの答え、というのは生徒が知識の積み重ねをすることによってやがて得られるものであって、その学びの過程で生徒が疑問をもち、それに答えるのは時期尚早と考えているのである。
それに対し、ユダヤの教育方法というのは、疑問をもつことが非常に重要である。
(中略)
ユダヤ人の問いに関する次のようなジョークがある。
キリスト教の神父がユダヤ教のラビと出会った時言った。「一つ質問をさせてください。」
ラビは答えた。「質問は何ですか?」と。
神父は、「なぜあなたたちユダヤ人は質問に対して質問で答えるのですか?」
ラビは言った。「なぜいけないんですか?」 引用終わり
疑問をもった時に、どうしても正しい答えを探そうとします。試験問題では答えが必要ですが、人生はいつも現在進行形で、前提が少し変われば考える方向性が変わってしまいます。
合気や呼吸法や治療方法でも、これが絶対と思ってしまうと進歩がなくなります。変化することが、必ずしも進歩だとは限りませんが、進歩することだけがいいとも限りません。実験を失敗したお陰でノーベル賞を貰った例もあります。
疑問が解決しなくても、その疑問を深く考えるだけで、網の目は細かくなるかもしれません。人の意見を参考にしながら、自問自答を繰り返すことを楽しみたいと考えています。
所作を問ひ 心に答へ ひとり行く 道を知らずば 妙は有るまじ
極意とて 別にはなきぞ 常によく 所作をからして 理を吟味せよ
極意とは 書物の外に あるものを 心に問ふて 業に知らせよ
「わからない」ことに気づく
変な言い方ですが、わかるためには「これはわからない」「ここまではわかったがここからはわからない」など、わからないことに気が付く必要があります。これじゃ禅問答みたいですから表現を変えてみましょう。わからないとは、何か新しい問題に直面したとき、これは自分の頭にはおさまらないぞ、という感情です。心の異物感です。
わからないよ、と心が声を上げるのです。この心の声が聞こえなければ、わかるも、わからないもないのです。ここまではわかったけど、ここからがわからない、と心が情報(心像)を整理してくれているのです。自分の記憶心像と照らし合わせて、これはわかる、これはわからないという信号を出しているのです。
知識の網の目があると、その網の目を通してものごとは整理されます。わからないことがあると、この網の目に引っかかってしまうのです。心がこれ何? と信号を発します。わからん! と声を上げるのです。疑問として立ち上がります。そしてこの疑問が解決すると、知識の網の目がひとつ増えます。網の目は一段と細かくなります。網の目が作り上げられていないところは、ひっかけようもありません。そもそも網が準備されていないのです。
解いた答えが本当かどうかを知ろうとして、さらに考えます。疑問が生じないと、その疑問を解きたい、という衝動も生まれません。
その時の自分の知識ではわからないものが、わからないぞ、と引っかかってくるのです。引っかかるのは、自分がそれ相応の網を張っているからです。
学校ではわからないことは試験問題とか、先生からの質問という形で与えられます。ですが、このように受け身の形で人から与えられた問題(わからないこと)が解けたからといって、知識が自分のものになるわけではありません。本当の意味でのわかる・わからないの区別の能力は人から与えられるものではありません。自分から自発的にわからないことをはっきりさせ、それを自分で解決してゆかないかぎり、自分の能力にはならないのです。
学校で試験が出来だからといっても、それは与えられたことをこなしているだけで、その人の能力の尺度にはなりません。社会に出た時、なんやあいつ、と無能をさらすことになります。社会で生きてゆくには自分で自分のわからないところをはっきりさせ、自分でそれを解決してゆく力が必要です。
人間は生物です。生物の特徴は生きることです。それも自分で生き抜くことです。知識も同じで、よくわかるためには自分でわかる必要があります。自分でわからないところを見つけ、自分でわかるようにならなければなりません。自発性という色がつかないと、わかっているように見えても、借り物にすぎません。実地の役には立たないことが多いのです。
#楽隠居です
詳しくは、配付資料083をご一読願います。
以前少しご紹介した「大使が書いた日本人とユダヤ人」駐日イスラエル大使 エリ・コーヘン著から引用します。
日本とイスラエルの教育のはっきりした違いは興味深い。日本の教育現場では、生徒は教師の教えることを疑いなく受け入れることが普通である。調べたり問いを発したりということはずっと後の段階になってなされることが多い。
問いの答え、というのは生徒が知識の積み重ねをすることによってやがて得られるものであって、その学びの過程で生徒が疑問をもち、それに答えるのは時期尚早と考えているのである。
それに対し、ユダヤの教育方法というのは、疑問をもつことが非常に重要である。
(中略)
ユダヤ人の問いに関する次のようなジョークがある。
キリスト教の神父がユダヤ教のラビと出会った時言った。「一つ質問をさせてください。」
ラビは答えた。「質問は何ですか?」と。
神父は、「なぜあなたたちユダヤ人は質問に対して質問で答えるのですか?」
ラビは言った。「なぜいけないんですか?」 引用終わり
疑問をもった時に、どうしても正しい答えを探そうとします。試験問題では答えが必要ですが、人生はいつも現在進行形で、前提が少し変われば考える方向性が変わってしまいます。
合気や呼吸法や治療方法でも、これが絶対と思ってしまうと進歩がなくなります。変化することが、必ずしも進歩だとは限りませんが、進歩することだけがいいとも限りません。実験を失敗したお陰でノーベル賞を貰った例もあります。
疑問が解決しなくても、その疑問を深く考えるだけで、網の目は細かくなるかもしれません。人の意見を参考にしながら、自問自答を繰り返すことを楽しみたいと考えています。
所作を問ひ 心に答へ ひとり行く 道を知らずば 妙は有るまじ
極意とて 別にはなきぞ 常によく 所作をからして 理を吟味せよ
極意とは 書物の外に あるものを 心に問ふて 業に知らせよ
by centeringkokyu
| 2006-11-19 10:47
| 本などの紹介