2019年 05月 24日
呼吸力・中心力・集中力 |
『合気道修行』から抜粋してご紹介します。
何も知らないで体を動かしているだけでは、合気道の技はいっこうに使いこなせないということなのです。
呼吸力というのは、自分の体の持っている能力を、最大限に、しかも最も効率よく使うことから生まれる力です。したがって、だれにでも、どんな人にでも呼吸力を使うことはできるのです。
問題は、そのための修練をやるかどうかということでしかありません。
我々は普段、手を動かすときには腕と肩の筋肉だけに頼り、足を動かす時には脚の筋肉だけに頼りがちです。つまり部分部分の力しか使っていないのです。これでは筋肉に負担のかかる、効率の悪い力の使い方しかできません。
合気道のいう呼吸力とは、人間が本来持っている、全身から生まれる力を自在に発揮させることなのです。
呼吸力の根本には、中心力があります。中心力というのは、体の中心線をまっすぐに保つ力のことです。
我々は、まっすぐに立てといわれても、たいてい、中心線にゆがみが生じているものです。仮に、まっすぐ立っているときには中心線がしっかりしていても、ちょっと動くと、すぐにそれがゆるんでしまうのです。
合気道の根本は中心力にあります。しっかりした軸を作って体を安定させることによって、千変万化の体さばきを可能にし、なおかつ集中力や呼吸力につながる大きな力を生み出すのです。
中心力は軸を維持する力のことでしたが、それから発展して、動きの中で中心線を維持することによって生まれる大きな力があります。それを集中力と呼びます。
集中力は、自分の力の出し方でした。そこにさらに、心の問題とリズムが加わって生まれるのが呼吸力なのです。
リズムといっても、一定の単調なリズムではありません。その場その場における最もふさわしいリズムを取らなければなりません。
このリズムを作るのが、結局、自分自身の呼吸です。吸ったり吐いたりというのを、ただ気まぐれに行うのではなく、その場に応じて吸うべきときに吸い、吐くべきときに吐く。それが結局、リズムを生み出すわけです。リズムが呼吸を整えるのです。
こういった呼吸やリズムを集中力に乗せる。それがピタッと一体になって発揮されたときに、本当の呼吸力が生まれるのです。
相手を協力してくれるような状態に導くのが呼吸力です。そういった意味では、相手の存在なくして呼吸力は出てこないと言ってもいいでしょう。
呼吸力を発揮するときには、約束事の形などまったく関係がありません。
呼吸力というのは、そのための特別な訓練をして身につくようなものではありません。日々の合気道の技の稽古がそのまま呼吸力の訓練になっているのです。
とっさのときに、アレっと思ったら相手が倒れているわけです。自分でもどうしたのかわからないから、ビックリしました。あとで考えてみても、どうやったのかはっきりとは思い出せません。
呼吸力とはそういうものです。やろうと思ってやれるもんじゃない。意識してしまったらダメなのです。
自然にいかなきゃならない。こうやってやろう、ああやってやろうという策におぼれてはダメなのであって、無策の策でいくという、これがなかなか難しい。
一回やったからといって、すぐにまたできるわけではありません。しばらくできなくて、また忘れたころに、なにげなくふとできる。そうやって千回、二千回と稽古を積み重ねていくうちに、点が線になる。そして、いつの間にか、いつでも思いどおりに呼吸力を使えるようになっていたというわけです。
教えろと言われたって教えられることではありません。自分でつかまえるしかない感覚なのです。
頭で考えたことにはすでに濁りが生じています。せっかくいいものを感じても、そこに自分の考えを持ちこむことで、ピュアではなくなってしまうのです。
究極は、自然にわが内に宿らせることです。自分の肌を通して知るということが大切なのです。
合気道でいう気とは、触れずに人を投げ飛ばすといったものとは、ちょっと違うのです。
気とは"バランスの集結"だと考えています。正しい姿勢と呼吸、それに集中力から生まれる爆発力。中心線の力もそうだし、タイミングも気の中に入れてもいいと思います。
気を合わせることによって発揮される力が呼吸力だと言ってもいいでしょう。
相手につかまれたとき、うまくやればこれが離れなくなる。見ているほうは、なんださっさと離せばいいのにと思うのですが、相手の気持ちをうまく把握することによって、勝手につかんだままいてくれるようになるのです。
それには敵対心があってはいけません。自分の気持ちを相手の気持ちと合わせるのです。すると相手の力の流れと気持ちの流れが見えてきます。その方向にこちらが誘導してやれば、相手は自分の行きたい方向に導かれるわけですから、逆らう気もなくついてくるわけです。呼吸力のところで説明した、相手が協力してくれるというのはこういうことなのです。
齢を取っていくうちに、次第に力が抜けていきます。そうなたっとき初めて、筋力に頼らない呼吸力というものの効果を実感することができるのです。
合気道をやるのなら、何かに頼った合気道ではなく、自分自身の合気道をやるのだという気持ちをしっかり持つことが大切です。
武道の本質は理屈でわかるものではありません。理屈があって、それを他人から聞いてわかった気になってもしょうがないのです。
修行を通じて自分で見出すということが大切です。そうでなくては本物ではありません。逆に言えば、自分で本質を見出すことが修行の目的だと言ってもいいでしょう。
合気道を闘いの武器として用いる時代は終わりです。武術としての合気道は、私で終わったのです。
何も知らないで体を動かしているだけでは、合気道の技はいっこうに使いこなせないということなのです。
呼吸力というのは、自分の体の持っている能力を、最大限に、しかも最も効率よく使うことから生まれる力です。したがって、だれにでも、どんな人にでも呼吸力を使うことはできるのです。
問題は、そのための修練をやるかどうかということでしかありません。
我々は普段、手を動かすときには腕と肩の筋肉だけに頼り、足を動かす時には脚の筋肉だけに頼りがちです。つまり部分部分の力しか使っていないのです。これでは筋肉に負担のかかる、効率の悪い力の使い方しかできません。
合気道のいう呼吸力とは、人間が本来持っている、全身から生まれる力を自在に発揮させることなのです。
呼吸力の根本には、中心力があります。中心力というのは、体の中心線をまっすぐに保つ力のことです。
我々は、まっすぐに立てといわれても、たいてい、中心線にゆがみが生じているものです。仮に、まっすぐ立っているときには中心線がしっかりしていても、ちょっと動くと、すぐにそれがゆるんでしまうのです。
合気道の根本は中心力にあります。しっかりした軸を作って体を安定させることによって、千変万化の体さばきを可能にし、なおかつ集中力や呼吸力につながる大きな力を生み出すのです。
中心力は軸を維持する力のことでしたが、それから発展して、動きの中で中心線を維持することによって生まれる大きな力があります。それを集中力と呼びます。
集中力は、自分の力の出し方でした。そこにさらに、心の問題とリズムが加わって生まれるのが呼吸力なのです。
リズムといっても、一定の単調なリズムではありません。その場その場における最もふさわしいリズムを取らなければなりません。
このリズムを作るのが、結局、自分自身の呼吸です。吸ったり吐いたりというのを、ただ気まぐれに行うのではなく、その場に応じて吸うべきときに吸い、吐くべきときに吐く。それが結局、リズムを生み出すわけです。リズムが呼吸を整えるのです。
こういった呼吸やリズムを集中力に乗せる。それがピタッと一体になって発揮されたときに、本当の呼吸力が生まれるのです。
相手を協力してくれるような状態に導くのが呼吸力です。そういった意味では、相手の存在なくして呼吸力は出てこないと言ってもいいでしょう。
呼吸力を発揮するときには、約束事の形などまったく関係がありません。
呼吸力というのは、そのための特別な訓練をして身につくようなものではありません。日々の合気道の技の稽古がそのまま呼吸力の訓練になっているのです。
とっさのときに、アレっと思ったら相手が倒れているわけです。自分でもどうしたのかわからないから、ビックリしました。あとで考えてみても、どうやったのかはっきりとは思い出せません。
呼吸力とはそういうものです。やろうと思ってやれるもんじゃない。意識してしまったらダメなのです。
自然にいかなきゃならない。こうやってやろう、ああやってやろうという策におぼれてはダメなのであって、無策の策でいくという、これがなかなか難しい。
一回やったからといって、すぐにまたできるわけではありません。しばらくできなくて、また忘れたころに、なにげなくふとできる。そうやって千回、二千回と稽古を積み重ねていくうちに、点が線になる。そして、いつの間にか、いつでも思いどおりに呼吸力を使えるようになっていたというわけです。
教えろと言われたって教えられることではありません。自分でつかまえるしかない感覚なのです。
頭で考えたことにはすでに濁りが生じています。せっかくいいものを感じても、そこに自分の考えを持ちこむことで、ピュアではなくなってしまうのです。
究極は、自然にわが内に宿らせることです。自分の肌を通して知るということが大切なのです。
合気道でいう気とは、触れずに人を投げ飛ばすといったものとは、ちょっと違うのです。
気とは"バランスの集結"だと考えています。正しい姿勢と呼吸、それに集中力から生まれる爆発力。中心線の力もそうだし、タイミングも気の中に入れてもいいと思います。
気を合わせることによって発揮される力が呼吸力だと言ってもいいでしょう。
相手につかまれたとき、うまくやればこれが離れなくなる。見ているほうは、なんださっさと離せばいいのにと思うのですが、相手の気持ちをうまく把握することによって、勝手につかんだままいてくれるようになるのです。
それには敵対心があってはいけません。自分の気持ちを相手の気持ちと合わせるのです。すると相手の力の流れと気持ちの流れが見えてきます。その方向にこちらが誘導してやれば、相手は自分の行きたい方向に導かれるわけですから、逆らう気もなくついてくるわけです。呼吸力のところで説明した、相手が協力してくれるというのはこういうことなのです。
齢を取っていくうちに、次第に力が抜けていきます。そうなたっとき初めて、筋力に頼らない呼吸力というものの効果を実感することができるのです。
合気道をやるのなら、何かに頼った合気道ではなく、自分自身の合気道をやるのだという気持ちをしっかり持つことが大切です。
武道の本質は理屈でわかるものではありません。理屈があって、それを他人から聞いてわかった気になってもしょうがないのです。
修行を通じて自分で見出すということが大切です。そうでなくては本物ではありません。逆に言えば、自分で本質を見出すことが修行の目的だと言ってもいいでしょう。
合気道を闘いの武器として用いる時代は終わりです。武術としての合気道は、私で終わったのです。
▼SKさんからのメールをご紹介します。
ブログ本当に勉強になります。
身体感覚が変わって読むと
本当に、なぜ見逃していたのかとつくづく思います。
あと、書いてあることを、そのまま体の感覚で理解できる部分は、すっと入ってきます。
まだまだ成長できると思えるので
僕は、いま、本当に楽しく感じます。
武術、体の感覚が好きなんだと
思います。
骨盤の細分化の文章。
いろんな角度から読めます。
色々な、方向から見れるようにしていただき、ありがとうございます。
これからも自分を創り続け
とらわれない生活を楽しみたいと思います。
いつもありがとうございます。
▼合気道修行 P211
昔の植芝道場には、はっきりと決められた型はありませんでした。ただ先生の完成された技があるだけで、門人はその技を自分なりに真似してやるしかなかったのです。そして、指導といえば、「天地と一体になれ」と言われるだけでした。
確かに、本来、技とはそういうものなのです。あらゆる状況に応じて千変万化するのが本当ですから、手順をはっきり決めてしまうのは、ある意味で嘘だと言ってもいいでしょう。
しかし、それだけでやっていると、一部のきちんと理合いを見極めた人は、上達しても、そうでない人は上達できないわけです。(中略)
集団を相手に教える以上、だれもがきちんと正しい理合いを覚えられるような指導をしなければならないと感じたのです。
中川 あのね、僕、まえに、合気道の植芝さんという人に会ったことがあるんですよ。その植芝さんというのは、先代だけれども、とても弱々しいような人に見えるんですがね。非常に動物的な勘みたいなもの、そういうものに鋭い人でしたね。
野口 反射運動的にやってしまうことを、弟子に教える時には、ここでこうやって、こうと、教えなくてはならない。それが教えられないで死んじゃったのでしょうが……。弟子はみんな何を言っているんだか判らないって。
中川 ああ、そうでしょうね。
野口 二代目のほうのは判ると言うんです。「判るかわりに術は使えないだろう」と訊くと、「そうだ」と言うんです。
中川 ああ、そうですか。形で覚えちゃうから……。
野口 そうなんですね。植芝さんは咄嵯に勘から勘へ行っちゃうんです。
天風先生も、さんざん苦労して会得してきたものだから、弟子は自分と同じような苦労には耐えられないと思ったのだろう。だから、もっと楽に学べるようにと、言葉をつくって教えた。
もちろんそれは先生の親心に違いない。しかし、私が先生に「親心が逆になりましたね。どら息子ばかりつくっているじゃないですか」と言ったときには、「うーん」と唸られるばかりだった。
ところがそんなクンバハカも、天風先生が亡くなったあと、いつのまにかまた元の誤った形へ戻ってしまった。本などでも誤ったやり方がそのまま説明されている。
by centeringkokyu
| 2019-05-24 23:40
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