2019年 03月 04日
呼吸という経験をただあるがままに経験する |
P34
生きるということ、それはメソッドなどではありません。
私たちは、カモメから、小さな子どもだちから、あるいは伸びいく植物たちから、生きるということがどういうことかを教わるのです。
私たちは、自然から全てを直接学ぶのです。
教科書や「生きるための新しいテクニック」などというタイトルのつけられた読み物などからではありません。
私たちに生まれつきそなわっている性質には、はかりしれない神秘さがあります。
そしてその神秘さは、私たち以外のものにも宿っていますーー
集い、ともに居ること。
互いに向き合い、つながり合うこと。
そして、全ての感覚を研ぎ澄ませながら、今・ここにある生命を生きていること。
こうしたことは、技術的なコツなどではないのです。
メソッドや技術は、手放せば手放すほどよいのです。
物事を「どのようにやらなければならないか」を、忘れれば忘れるほどよいのです。
これから何か起こるのかなど、わたしにも前もっては分かりません。
次の瞬間に、どんなことをあなたたちとしているのかすら、今のわたしには分からないのです。
わたしはただ、何かが十分確かになってくるまで待っているのです。
次に必要なものが、わたしをとおして感じられてくるまで、ただ待っているのです。
P35
このワークの根底、このワークの一番中心にあるのは、例えどんなことであっても、私たちはつねにそれを初めて経験しているのだという事実なのです……それは、つねに私たちにとって初めて感じられるものであり、発見されるのを待っているのです。
発見はどこにでもあります。
あなたが何をしているのかには関係ありません。
発見は、あなたが何をしているのかにではなく、どのようにそれをやっているのかに宿っています。
P45
私たちは時々「今こそようやく真実を見つけたぞ!」と感じることがあります。
それは、その瞬間にはまさにたった一つの真実です。
そう、その瞬間には。
けれどもそれは”絶対不変の真実”ではないのです。
同じように”絶対不変の良さ”とか”絶対不変の悪さ”というものもありません。
”絶対不変の正しい呼吸”や”絶対不変の正しい座り方”もないのです。
あるのは呼吸をしていることと、座っていること。
そして、それらが、その瞬間には真実であるというだけです。
台座に乗せて「これが絶対不変の真実です」と言えるようなものは何もありません。
”信じる”ということですら、わたしは信じてはいません。
そうではなくて、自分が置かれているその瞬間の状況を自ら探り、それをはっきりと感じ取り、その中から真実として、あるいは真実でないものとして自分に感じられてくるもの……それだけをわたしは信じているのです。
P132
呼吸に意識を向けた途端、私たちはしばしばそれを「行って」しまいがちです。
すぐさま「呼吸する」ことを始めようとしてしまうのです。
けれども、そうではないのです。
もしかしたら自分が呼吸を押し殺しているように感じるかもしれません。
それならそれでかまいません。
今あなたは呼吸を押し殺している。
そのうちに、また自然な呼吸が始まるかもしれません。
このワークはただ、普段はぼんやりとしているものを、いつもより少し意識化するということなのです。
それをどうにかしようというのではなく、気づいたものをそのままに認め、感謝する。
そして自分と呼吸とのつながりをしっかりとさせるために、その経験に数分間とどまってください……
呼吸とはどんなものかを感じるために、呼吸という経験をただあるがままに経験するのです。
呼吸をするために何かをしようとしている時は、そのことが感じられます。
自分がそうしていることに気がついたら、それを手放してください。
呼吸が変化を求めていることに気がついたら、変化を許してください。
からだのあちこちが、もっと呼吸を必要としているのを感じるかもしれません。
その時には何かが起こっているのです。
そのことに気がついたら、あなたはゆっくりとそこに注意を向けていくことができ、そこで起こっていることを感じることができるでしょう。
このワークは自分らしさを鍛えます。
あなたは、感覚をはっきりと感じるようになります。
あなたは、よりあなたらしくなっていくのです。
P158
息を吐き出した後、しばらくの問呼吸は止まります。
その小さな隙間のような時間に、有機的生命体の内側にある全てのものが、それぞれの居場所を見つけ出す素晴らしいチャンスがあるのです。
呼気を完全に、十分に、そして自由に吐き出した時、それが大きな解放であり、そこに本当の安らぎがあるということを知っていますか?
息を吐く時には、ただそれが導くままに十分に吐いていきます。
ただそれにまかせて。
そうしてしばらくすると、ふわりと翼が持ち上がるように、新しい呼吸が生まれるのです。
これは私たちが感じられる感覚の中でもとびきり素敵な感覚の一つです。
どれほど言っても、言い過ぎということはないぐらい素敵なんです。
P176
感覚に鋭敏になるということは、自分の内側に鋭敏になるだけではありません。
自分の外側で起こっていることにも鋭敏になるということです。
もし私たちが十分に鋭敏ならば、ただ自分の背骨の動きに鋭敏なだけではすみません。
私たちは自分の外側の出来事にも同様に鋭敏であり、それに応答して内側も動くのです。
そうやって自分に感じ取られたものに対して、私たちは応答するのです。
他の人がどうであるかは別の問題です。
何を感じとるかは、あなた自身に与えられた機会なのです。
P185
あなたが十分に、そして徹頭徹尾たった一つの物事に取り組めば、鈍感であることと鋭敏になっていくことの違いが分かるでしょう。
それは物事や他者との関わり合いを自分に許すか、あるいはそれらを退けるかの違いであり、また自分を押さえ込んでしまうか、明け渡していくかの違いです。
全ての活動、他者、状況、感情、考えが、どのようにもなりうる可能性を宿してあなたに差し出しされています。
ですから、どこで、どのような経緯であなたがある物事を経験することになったのかは、とりたてて大きなことではありません。
ここでこうして私たちがやっているのと同じことを、これからあなたが行う全ての行為においてもすることができるからです。
こころ、目、感覚、繊細さ、私たちの誰もが普段はかえりみることのない直感、それら全てを開くのです。
それらが開かれれば開かれていくほど、全てが同じであること、全ては「生きる」ということなのだということが十分に実感され始めるでしょう。
〆管理人です
この本は、センサリーアウェアネスのレッスンの内容を元に、指導者と生徒の会話形式で綴られています。
書かれていたレッスンを実際に行なってみて、「ただあるがままに経験する」ことの難しさを実感しました。
自分の中に潜んでいる新たな感覚を、少しずつ発見していきたいと思っています。
参照1:感覚の気づき
☆センサリー・アウェアネス―「気づき」ー自己・からだ・環境との豊かなかかわり
チャールズ V.W.ブルックス (著), 伊東 博 (翻訳)
・「センサリー・アウェアネス」というものは、禅の瞑想と同じように、ことばで教えることのできるものではなくて、やってみるものなのです。
参照2:道案内は快適さ
・本当に重要な学習はすでに知っていることを別のやり方でおこなうことができるということです。やり方が多くなればなるほど選択の自由は大きくなります。選択が自由になればなるほどより人間らしくなります。
・努力を減らさなければ感受性を高めることはできないのです。
・学ぶときに大事なことは、なにを学ぶかではなく、いかに学ぶかなのです。
参照3:心身の不必要な緊張をやめるために
・ひとに何をするべきか、いうことはできない。あなたのするべきことは、感覚することなのだから。
・努力とは、自分がすでに知っていることを強化することでしかありません。
・ある部分に問題が生じるのは、有機体全体に問題があるからなのです。その証拠に、手順を踏んでいけば特定の欠点は根絶されます。
・変化するには、ひとの一生の習慣に抵抗するような決断が要求される。
参照4:「いまここにいる」ための方法
規則的な呼吸に注意を向けながら、自分の注意がどこに向いているのかを「観る」という訓練を繰り返し行うのが瞑想である。
すなわち瞑想とは、「いまここにいる」ための方法なのである。思考や想像の世界を膨らませて「そこにいなくなる」のではなく、つねに「いまここ」を意識して「自分にいる」ための方法が瞑想である。
参照5:呼吸による癒し
呼吸を出会いの場として心と身体が結合するという、この全体的なプロセスについて学んでいくとわかるのは、気づきが非常に大きな影響をもたらしているということです。影響といっても、呼吸をコントロールするとか、変えるといった問題ではありません。そうしなくても注意をはらえば呼吸の質が変わるのです。
by centeringkokyu
| 2019-03-04 00:07
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