形稽古をおぼえない |
▼新陰柳生流形成期に見られる勢法に関する研究
こうした「かた」は歴史の経過のなかで自然に培われてきたものと,ある特定の人物によって創造されたものとがあろう。いずれにしろ,その「かた」が客体化されなければ次世に受け継がれることはないため,ここに伝授者は,「かた」を「型」として伝承する必要性がでてくるのである。
しかし,「 型 」がそのままで被伝授者に継承されるかというとそうではなく,そこには「型」から発現された 「形」が「型」にフィードバックされる際逆に「型」が影響を受けたり,あるいは「型」自身が何らかの要因で変容するなど現実ではなかなかスムースに継承されないことが予想できる。
筆者はこの様な見地から,近世における剣術の 「かた」について関心を持ち研究を進めてきてい る。そのなかでも,特に尾張藩の新陰柳生流に注目して,その「勢法(かた)」(注2)の変容を考察しているが,これは近世の多くの武術諸流派が,時代と共に付加的に発展,展開してきたのに対し, 尾張柳生家という家を中心に発展を遂げた,芸道でいう家元的展開を示す特異な流派として位置付けられているためである(注3)。 新陰柳生流はその系譜を時代の推移と共に,介者剣術期,素肌剣術期,中興期の三期に分類できるも今回,そのうち,新陰柳生流の形成期にもあたる介者剣術期(上泉秀綱,柳生宗厳)を取り挙げ, この時期の勢法について考察しようとしたところ, 流祖である上泉秀綱の勢法と柳生宗厳の勢法とでは,目録上差異を認めることができた。本来ならば,流祖上泉の新陰流を,被伝授者の宗厳はそのままの形で継承することが要求されたはずである。しかし,差異が生じた背景を察すると,宗厳は継承後,上泉秀綱の新陰流に柳生としての独自性を付加させたものと考えられるのである。
そこで,本研究ではこの介者剣術期において, 上泉秀綱から柳生宗厳に継承される際の勢法の変容について考察し,柳生の独自性について明らかにすることにする。また,それを基に「かた」の継承形態の問題についても触れることにする。
▼活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史 ~活法・殺法の歴史は、医術・武術の歴史となり得るか~
要 約
柔道整復師の協定教科書とされる、柔道整復学・理論編(全国柔道整復学校協会... 監修)に記載されている活法 殺法の歴史と、医術武術の発展の歴史が同義であるかの如き文言に疑念を抱き、古文書や公の史書を調べ、一語でもこれが証明されるのであれば史実に近づく道筋が出来ると考えた。しかし活法という語はテキストに記載されている時代には存在せず、西洋医学が伝来した明治以降に初めて出現する。 この日本古来の医術が武術の一方向より発達したか否かの明確で無いままの論調は、柔道整復師の歴史を曲解させるものであり、様々な問題を発生させているものと考えられ、問題提起を行った。
1.戦国時代の武道の書物には「殺法」「活 法」に関する記述があるか
... ... 戦国時代とは、西暦1467年の応仁の乱から1573年の織田信長による足利義昭追放までとする説が有力で あるが、おそらくテキストの編者は、誤って徳川幕府江戸初期までを含めていると考えられる。 いわゆる戦国時代には武道という個人戦の戦術などあまり役に立たないので公の機関では個人戦の技術論を書とは考えにくい。 また、「武道の書物」とあるが、当時の武道とは、 武の道の心構え、即ち武士道の事であり、戦国時代の 武士道書には精神論や中国古代の兵法解釈論が書かれていたのである。 殺戮の手段や治療の手段である「殺法」「活法」などはどこにもみられない。 さて、武道の書物が武術の書物という意味であったと広く仮定して考えてみても、これは各流派の継承者 にのみ伝わる伝書であるため、他流派もしくは一般人には読むことができない。 読むことの出来る出版物として現在世に在るものを 調べる場合、戦国時代に書かれたという武道の書物は存在しない。そこで範囲を拡げて西暦1300年(室町時代)から1800年(江戸時代中期)の間に書かれた 書を、この範疇とする。 ......私が、この範囲の「武道書」「武術書」を一通り調べてみたが、「殺法」「活法」の言葉を見つけることができなかった。「殺法、活法の存在はあり、記述ではなく、口伝である。」との意見も聞いたが、テキストには「記述があり」と書かれている。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法である。 傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。 すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。 仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられる。
4.殺法と活法は「文武」の道として表裏一体となって進歩発展したのか
結論から言えば、殺法は武術の事ではないし、活法 は医学や文化的なものではない。 殺法は武術の殺戮手段として用いられてきたのではない。このテキストの記事担当者が言う殺法とは、徒手打撃技術の中でも最も効果の怪しい「当身術」のことである。急所を指先や拳、手刀等で突いたり叩いたりするのだ。武道書の中で「殺法」が出てくるのは、 この当身術だけである。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であった のだと推察される。明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。 「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。問題にした、このテキストの記述は誤りであると考えられる。 これは、柔道整復師の業務や資格には何ら影響を与えるものではないが、柔道整復技術が、古典に依存している術理なのではなく、近代医学の背景を持った業務であるという誇りは、持ってもよいと確認したものである。
▼解読三昧
ここ牧之原市出身の古典医学研究家の槇佐知子さんによって1000年間以上のあいだ、わざと誤字脱字まで組み込んであり漢字だらけで難解で誰も読めなかった「医心方」全30巻の完訳という偉業が今年40年もの長い歳月をかけてようやく達成された。漢字の部首やつくりでカテゴリー分けした捏造漢字を解読できる独自の辞書まで作成して臨んだ地道な非常に貴い仕事を槇さんが成されたお陰で今後、この類奇なる貴重な医療史の世界遺産となる「医心方」のコンテンツ(情報群)が世界に注目されていくであろう。漢字まで捏造した由縁は薬の濫用や誤用を避ける意図があったからと言われている。それゆえに余計に解読がたいへんであったのだ。
〆管理人です
先人の遺してくれた言葉や型は素晴らしい財産ですが、中身ではなく外枠を拠り所にしてしまうと、色々な矛盾が出てきますね。
一世代前の文化でも忘れ去られていくのに、時代が空けば尚更ズレが大きくなってしまうような気がします。
現在を生きる自分がどのように取り込み、どのように活かせるかが大切なのだと思います。
参照1:柳生新陰流の亜流? 【師範の数だけ亜流があるのかも知れませんね】
参照2:伝統技保存師範 【引き継ぐべき「技」とは何であるのか考えさせられます】
参照3:医療基準の転換点 【武術と医療の関わりについて書かれています】
参照4:流儀の本質が~ 変質するぅ~・・・?【2冊の小笠原流の本の写真を見比べてみると・・・?】
☆リンク先で更新された記事
◆第五十三回研究会稽古メモ
〈稽古メモ〉
下段八勢
①第一 相架け 順
②第二 相架け 逆
③制剛流 1本目〜3本目
下段八勢
④第一 相架け 順
⑤第二 相架け 逆
⑥第五 捍足止順(アシヲフセギトメ ジュン)
※右足内側を打ってくるのを順勢で防ぐ
⑦第六 捍足止逆(アシヲフセギトメ ギャク)
※左足内側を打ってくるのを逆勢で防ぐ
⑧第七 捍足流逆(アシヲフセギナガシ ギャク)
※左足外側を打ってくるのを逆勢で防ぐ
⑨第八 捍足流順(アシヲフセギナガシ ジュン)
※右足外側を打ってくるのを順勢で防ぐ
①② 二天一流や細身の木刀にて
③居合刀、模擬刀にて
④〜⑨ 袋撓にて
◆試斬稽古もする理由
東雲道場では、合気観照塾宗匠の考案された
形稽古をおぼえないカリキュラム
で剣術、合気柔術の稽古を行い基礎を積み上げております。
基礎稽古において、脳や体への入力の仕方を違うと、
何も無い世界
は発動しません。
やり直せばいいんです。
私は今でも宗匠の脇差を持った時の
ことを覚えています。
体と魂が小刻みに震えた
という感覚でした。
その感覚の意味を知りたくて自分でも刀を買い、縁あって抜刀試斬を経験することになりました。