2005年 10月 17日
アシスタントの目 |
M岡さんからの投稿をご紹介します。
1 お腹は破裂するか?
と言う事は「破裂してみない」と分かりません・・・そして!私はある意味「破裂」
した訳です(笑)。
かと言って、「破裂する」迄やる事を推奨している訳ではありません。
以前にも何回か書かせて頂きましたが・・・要は、寅さんの名言で「お前の食った芋
で、俺の尻から屁が出るか?」と言う事だと思います。
思うのですが、結局、やってみないと言うのは「恐怖」、あるいは「怠惰(受け身)」、得てして「知る楽しみをご存じない」と言う事でなのしょうか?
ちなみに、私は・・・非常に「怖がり」だし「怠け者」です。
ただ、「全てにおいて好奇心が勝ってしまう」と言うか・・・「色々こねくり回すの
楽しい」のですね(怠け者だから「効率化」を図っている所もあります)。
2 「茶臼山」で「エベレスト」の事は共感出来ない
また、K野さんと皆さんの間にいる人間として思うのは・・・その方の「経験・検証
された分しかお伝え出来ないのが事実」と言う事です。
例えば、登山についてお話をするとして、「生駒山」に登った人には「生駒山レベル
の事」、「金剛山」なら「金剛山レベル」、「富士山」なら「富士山レベル」、「エベレスト」なら・・・と、その方の「経験と検証」のレベルでしか「お話」が出来ないのです。
そして、実際は「お話」と言ったって「言葉で伝える」事は「不可能」で、「経験」や「感覚」、「共感」を介するのですから余計です。
従って、「茶臼山」に居られても「エベレスト」の事は「共感」しようがない訳で
す。
3 師の教えを「鵜呑み」にしない
と書くと何か誤解されそうですし、反感も買いそうなんですが・・・私は最近、師に
対して最高の「弁護士」であり「検事」、「判事」である事がある意味必要だなと思うのです。
従って、K野さんが仰る事の「最大の弁護」と「最大の反論」を考え、それを1つ1つ「判断・検証」する様にしています。
そうする事で、単に「言われた事をやる」だけでなく、自分なりにK野さんの検証と工夫の「追体験」が出来ます。
また、人それぞれに優れた部分があるので、K野さんの教えを「発展」させる事も出来るでしょうし、「改善」もありだと思います。
何より、師と自分は「資質」も「可能性」、「性格」、「嗜好性」も異なる訳ですから。
従いまして、無礼・不作法ですが、そんなスタンスでの「工夫」や「意見」をK野さんに積極的に聞いて頂き、ご意見を伺ったり、検証する内に参考とした資料を全てK野さんや皆さんにお伝えする様にしています。
そうでないとK野さんも「胸の貸し甲斐がない」し「物足りない」のではないかな?と思うのです。
4 K野さんの問題提起
実際、K野さんご自身のやりがいや、我々の成長を図る意味もあってか?・・・
逆に!K野さんは常に我々に問題提起をし、挑戦されておられます。
現に、アシスタントの目で見ると、観照塾や中心塾に関わらず、K野さんは毎回レッスンの中で必ず「皆さんの出来ない事」を最低1つは入れておられる様です。
でも、それはある意味、「外見上の表現が変わっただけ」・・・
「原理はたった1つ」なのに・・・何故、我々は上手く出来ないのでしょう。
5 学び方の差
ある日・・・I川君が悩む初学者を見て「分からなければ質問すれば良いのに」、
「分からないのは質問の仕方が悪い」etc・・・つぶやいていました。
彼の言う事はごもっともなんですが、私としては「質問出来る」所まで来ているのならもう「一通りのレベル」で、逆に、そこまで至るが「至難の業」だと思うのです。
何故なら、多分「何を質問してよいやら分からない」であろうし、「質問出来るほど検証もまだ進んでいない」と推測するからです。
そして・・・もっと現実的な事を言いますと何をやるにしろ、「ものの学び方を知ら
ない」方が最近多いとも感じるからです。
実際、観照塾と中心塾を通じ、10代から80代までをお相手させて頂く中で、年齢別
の時代背景や個々人の経歴を俯瞰する訳ですが、往々にして、「学び方のレベルの差が
実力の差」になっている事をとても感じます(実際、芦屋教室では全く気が抜けませ
ん)。
従って、先ず、何より「学び方の個人差」を良く見てお話する必要を感じます。
ちなみに、I川君を弁護するなら、彼はどの人よりも検証し、練習しています。多
分、それを何がしかの値で「計量」すれば膨大な数値になるはずで、私などとても及ぶ所ではありません。
そして、何より彼の凄さは「学び」を「義務」でなく「遊んで」しまっている所で
す。
6 自分を見詰める様に
また、彼が「本人に良かれと思ってやり方を変えたら、逆効果になってしまった」
という事もありました。これは私にもある経験です。
結局、「お話する」と言う行為は「自分の興味と実力」の範囲でしか「無理」であるので、「相手にフィットする」事の方が少なく、大体、「自分の事すら良く分からない
のに他人の事なんてお互い分かりっこない」はずです。
ただ、「相手の中に自分を映して見る」時・・・比較的必要な事柄が自然と見え、そ
れを「自身に物語る様に」相手にお話も出来るのではと思います。
ちょっと、道徳や宗教的になりますが、「相手を思いやる」と言うのは多分そう言う事だと思い始めています。
所詮、「自分は身勝手で、自分の事しか考えません」けれど、「自分を思う気持ち」
で相手を見据える時、出来る範囲の事はさせて頂ける様に思います。
そう言う観点から、棒、剣、ダンスの相手等に自分を映し、誰かにお話する事もしています。
7 自分をマニュアル操作する
ここまで来ると、結局、「自分を見詰められていない」自分に気付きます。
「自分を見詰めると言う事」・・・それが心身に何か制限や過敏な所がある人には
「恐怖」や「肯定し難い」事になるでしょうし、逆に器用な人には「見落として」しまいがちなものなのでしょう。
そこで提案なのですが・・・自分を出来るだけ「オートマティック(自動)」でなく
「マニュアル(手動)」で操作してみませんか?
医者や治療師、自分の身体の免疫機能等に「ただ頼る事なく」・・・出来うる限り、
自分を「自分の責任と義務」において扱う訳です。
そうしますと、自分が作り出した「原因」が「結果」としてダイレクトに現れ、それを自分で「楽しい形にコーディネイト」出来る事が分かると思います。
勿論、車で考えて、「マニュアル」は「オートマティック」より面倒です。また、整備も「自分でやる」のですから間違いなくいきなり上手くなりません。
しかし、だからこそ、「長持ちする」し、「自分との付き合いも楽しく」なるので
は?と思います。
そんな方法論が「ヴィパッサナー瞑想」であり「フェルデンクライス」であり、「センタリング呼吸法」であると私は思っています。
1 お腹は破裂するか?
と言う事は「破裂してみない」と分かりません・・・そして!私はある意味「破裂」
した訳です(笑)。
かと言って、「破裂する」迄やる事を推奨している訳ではありません。
以前にも何回か書かせて頂きましたが・・・要は、寅さんの名言で「お前の食った芋
で、俺の尻から屁が出るか?」と言う事だと思います。
思うのですが、結局、やってみないと言うのは「恐怖」、あるいは「怠惰(受け身)」、得てして「知る楽しみをご存じない」と言う事でなのしょうか?
ちなみに、私は・・・非常に「怖がり」だし「怠け者」です。
ただ、「全てにおいて好奇心が勝ってしまう」と言うか・・・「色々こねくり回すの
楽しい」のですね(怠け者だから「効率化」を図っている所もあります)。
2 「茶臼山」で「エベレスト」の事は共感出来ない
また、K野さんと皆さんの間にいる人間として思うのは・・・その方の「経験・検証
された分しかお伝え出来ないのが事実」と言う事です。
例えば、登山についてお話をするとして、「生駒山」に登った人には「生駒山レベル
の事」、「金剛山」なら「金剛山レベル」、「富士山」なら「富士山レベル」、「エベレスト」なら・・・と、その方の「経験と検証」のレベルでしか「お話」が出来ないのです。
そして、実際は「お話」と言ったって「言葉で伝える」事は「不可能」で、「経験」や「感覚」、「共感」を介するのですから余計です。
従って、「茶臼山」に居られても「エベレスト」の事は「共感」しようがない訳で
す。
3 師の教えを「鵜呑み」にしない
と書くと何か誤解されそうですし、反感も買いそうなんですが・・・私は最近、師に
対して最高の「弁護士」であり「検事」、「判事」である事がある意味必要だなと思うのです。
従って、K野さんが仰る事の「最大の弁護」と「最大の反論」を考え、それを1つ1つ「判断・検証」する様にしています。
そうする事で、単に「言われた事をやる」だけでなく、自分なりにK野さんの検証と工夫の「追体験」が出来ます。
また、人それぞれに優れた部分があるので、K野さんの教えを「発展」させる事も出来るでしょうし、「改善」もありだと思います。
何より、師と自分は「資質」も「可能性」、「性格」、「嗜好性」も異なる訳ですから。
従いまして、無礼・不作法ですが、そんなスタンスでの「工夫」や「意見」をK野さんに積極的に聞いて頂き、ご意見を伺ったり、検証する内に参考とした資料を全てK野さんや皆さんにお伝えする様にしています。
そうでないとK野さんも「胸の貸し甲斐がない」し「物足りない」のではないかな?と思うのです。
4 K野さんの問題提起
実際、K野さんご自身のやりがいや、我々の成長を図る意味もあってか?・・・
逆に!K野さんは常に我々に問題提起をし、挑戦されておられます。
現に、アシスタントの目で見ると、観照塾や中心塾に関わらず、K野さんは毎回レッスンの中で必ず「皆さんの出来ない事」を最低1つは入れておられる様です。
でも、それはある意味、「外見上の表現が変わっただけ」・・・
「原理はたった1つ」なのに・・・何故、我々は上手く出来ないのでしょう。
5 学び方の差
ある日・・・I川君が悩む初学者を見て「分からなければ質問すれば良いのに」、
「分からないのは質問の仕方が悪い」etc・・・つぶやいていました。
彼の言う事はごもっともなんですが、私としては「質問出来る」所まで来ているのならもう「一通りのレベル」で、逆に、そこまで至るが「至難の業」だと思うのです。
何故なら、多分「何を質問してよいやら分からない」であろうし、「質問出来るほど検証もまだ進んでいない」と推測するからです。
そして・・・もっと現実的な事を言いますと何をやるにしろ、「ものの学び方を知ら
ない」方が最近多いとも感じるからです。
実際、観照塾と中心塾を通じ、10代から80代までをお相手させて頂く中で、年齢別
の時代背景や個々人の経歴を俯瞰する訳ですが、往々にして、「学び方のレベルの差が
実力の差」になっている事をとても感じます(実際、芦屋教室では全く気が抜けませ
ん)。
従って、先ず、何より「学び方の個人差」を良く見てお話する必要を感じます。
ちなみに、I川君を弁護するなら、彼はどの人よりも検証し、練習しています。多
分、それを何がしかの値で「計量」すれば膨大な数値になるはずで、私などとても及ぶ所ではありません。
そして、何より彼の凄さは「学び」を「義務」でなく「遊んで」しまっている所で
す。
6 自分を見詰める様に
また、彼が「本人に良かれと思ってやり方を変えたら、逆効果になってしまった」
という事もありました。これは私にもある経験です。
結局、「お話する」と言う行為は「自分の興味と実力」の範囲でしか「無理」であるので、「相手にフィットする」事の方が少なく、大体、「自分の事すら良く分からない
のに他人の事なんてお互い分かりっこない」はずです。
ただ、「相手の中に自分を映して見る」時・・・比較的必要な事柄が自然と見え、そ
れを「自身に物語る様に」相手にお話も出来るのではと思います。
ちょっと、道徳や宗教的になりますが、「相手を思いやる」と言うのは多分そう言う事だと思い始めています。
所詮、「自分は身勝手で、自分の事しか考えません」けれど、「自分を思う気持ち」
で相手を見据える時、出来る範囲の事はさせて頂ける様に思います。
そう言う観点から、棒、剣、ダンスの相手等に自分を映し、誰かにお話する事もしています。
7 自分をマニュアル操作する
ここまで来ると、結局、「自分を見詰められていない」自分に気付きます。
「自分を見詰めると言う事」・・・それが心身に何か制限や過敏な所がある人には
「恐怖」や「肯定し難い」事になるでしょうし、逆に器用な人には「見落として」しまいがちなものなのでしょう。
そこで提案なのですが・・・自分を出来るだけ「オートマティック(自動)」でなく
「マニュアル(手動)」で操作してみませんか?
医者や治療師、自分の身体の免疫機能等に「ただ頼る事なく」・・・出来うる限り、
自分を「自分の責任と義務」において扱う訳です。
そうしますと、自分が作り出した「原因」が「結果」としてダイレクトに現れ、それを自分で「楽しい形にコーディネイト」出来る事が分かると思います。
勿論、車で考えて、「マニュアル」は「オートマティック」より面倒です。また、整備も「自分でやる」のですから間違いなくいきなり上手くなりません。
しかし、だからこそ、「長持ちする」し、「自分との付き合いも楽しく」なるので
は?と思います。
そんな方法論が「ヴィパッサナー瞑想」であり「フェルデンクライス」であり、「センタリング呼吸法」であると私は思っています。
by centeringkokyu
| 2005-10-17 23:10
| ネコ殿