2017年 06月 01日
心も身体も和而不同 |
『和して同ぜず』で検索・抜粋しました。
昨日は書き初めの日でしたが、私はまだ書き初めをしていません。
この字は、書道技法講座13 孫過庭 書譜 今井凌雪編からコピーしました。
ネットで意味を調べてみると
「君子和而不同、小人同而不和」
【君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず 『論語』】
「和」とは、自分の主体性を堅持しながら他と協調する事。
「君子は協調性に富むが、無原則な妥協は排斥する。
小人は逆で、やたらと妥協はするが、真の協調性には欠ける。」
というようなことでした。
▼笹森 順造著「一刀流極意」によりますと
合 気
四、和而不同
敵の強い刀に逆らってわれからも強く出で、敵の打を中途で強く受止めると兎角合気となって味がない。逆らい争って勝つのは上乗の勝ではない。敵が望んで打って来たらそれに和し育て敵の刀の行く方向にわれからも助勢し、その心意と太刀技とを力いっぱいに尽させて流してやると、われは聊(いささ)かの働らきにて大きく勝ち得るものである。これもまた敵の曲合の利をやわらかにわが懐にとりこむ所であり和して同ぜず平らかに勝つ所である。平らかに和して自ら勝つから兵法を平法といい、剣術を和術という。和する所が勝つ所であり、勝ってまた後によく和するのである。
この字は、書道技法講座13 孫過庭 書譜 今井凌雪編からコピーしました。
ネットで意味を調べてみると
「君子和而不同、小人同而不和」
【君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず 『論語』】
「和」とは、自分の主体性を堅持しながら他と協調する事。
「君子は協調性に富むが、無原則な妥協は排斥する。
小人は逆で、やたらと妥協はするが、真の協調性には欠ける。」
というようなことでした。
▼笹森 順造著「一刀流極意」によりますと
合 気
四、和而不同
敵の強い刀に逆らってわれからも強く出で、敵の打を中途で強く受止めると兎角合気となって味がない。逆らい争って勝つのは上乗の勝ではない。敵が望んで打って来たらそれに和し育て敵の刀の行く方向にわれからも助勢し、その心意と太刀技とを力いっぱいに尽させて流してやると、われは聊(いささ)かの働らきにて大きく勝ち得るものである。これもまた敵の曲合の利をやわらかにわが懐にとりこむ所であり和して同ぜず平らかに勝つ所である。平らかに和して自ら勝つから兵法を平法といい、剣術を和術という。和する所が勝つ所であり、勝ってまた後によく和するのである。
前回引用させていただいた「本当に相手と一つになったとき、相手の苦痛がそのまま自分に感じられて、それが自分の前に投影されているような気持になる。」をよく読んでみると、『自分の前に投影されるような気持ちになる』と書かれていますので、この場合は、「移ってくる」のではなく、「映ってくる」ということのはずです。
「移ってくる」と、患者さんの症状が自分の身体に出てしまいますから、患者さんが楽になったとしても、自分が苦しまなければならないかもしれません。「映ってくる」のでしたら、テレビと同じですからチャンネルを変えるか、テレビの電源を切ってしまえばいいわけです。イメージとしては、分かりやすいのですが、いざ実際に患者さんと関わるとなると、どうしても同調しやすくなりますし、何とかしてあげられないかと思ってしまいます。
私の場合は治療家ではありませんから、患者さんと接触することはありませんので、問題ないはずですが、それでも根が軽率ですからいろいろな目に遭ったのは事実です。ですから、治療方法に興味を持つよりも、自分の身体や心が如何に人の影響を受けなくなるようにするかということが、最重要課題になったのです。
心の問題は「あっしには関わりのねぇことでございます。」と唱えることで、基本的には大丈夫なのですが、身体の方をどう作っていくべきか、試行錯誤したのです。そのヒントになったのが、「一刀流極意」に書かれていた「和而不同(わしてどうぜず)」でした。
「移ってくる」と、患者さんの症状が自分の身体に出てしまいますから、患者さんが楽になったとしても、自分が苦しまなければならないかもしれません。「映ってくる」のでしたら、テレビと同じですからチャンネルを変えるか、テレビの電源を切ってしまえばいいわけです。イメージとしては、分かりやすいのですが、いざ実際に患者さんと関わるとなると、どうしても同調しやすくなりますし、何とかしてあげられないかと思ってしまいます。
私の場合は治療家ではありませんから、患者さんと接触することはありませんので、問題ないはずですが、それでも根が軽率ですからいろいろな目に遭ったのは事実です。ですから、治療方法に興味を持つよりも、自分の身体や心が如何に人の影響を受けなくなるようにするかということが、最重要課題になったのです。
心の問題は「あっしには関わりのねぇことでございます。」と唱えることで、基本的には大丈夫なのですが、身体の方をどう作っていくべきか、試行錯誤したのです。そのヒントになったのが、「一刀流極意」に書かれていた「和而不同(わしてどうぜず)」でした。
結論から申しますと、センタリング呼吸法を健康法として稽古するのが呼吸法中心塾です。そして、センタリング呼吸法の体内操作と呼吸を使って、ある種の力を人や物に伝えていく稽古をするのが合気観照塾です。(全文お薦めします。)
#管理人です。
心も身体も和而不同という事が、どの生活パターンにおいても大事だと感じたので検索してみました。
何度も読んだことのある記事でしたが、また一味違うように思いました。
呼吸動作研究会や合気観照塾、呼吸法中心塾の方で改めて読んで面白いと感じた記事を教えて頂けると有難く思います。
☆リンク先で更新された記事
#楽隠居です
ご無沙汰しています。
いよいよ6月になりました。合気観照塾は、15年目に入ります。
お陰様で、これまで稽古を続けることが出来ました。
会員諸氏のご協力に、心より感謝致します。
さて、昨年の9月から、私がこれまでに気づいて工夫してきたことを、総て公開してまいりました。それが、正しいかどうかは別にして、体内操作・呼吸・意念を使う合気とは、どういうものなのかということは、充分感じていただけたことでしょう。
皆さんお気づきのように、合気を言葉で説明しようとしたり、見せようとすると、合気ではなくなることがあります。
植芝盛平翁の道歌には、
「合気とは 筆や口には つくされず 言ぶれせずに 悟り行え」とあります。
そして、皆さんは、相手を倒すための合気ではなく、治療家として、相手を活かすことができる合気を目指してくださっている事と思います。
私のネタ見せは、総て終了した感じですので、各自で更に工夫し続けてください。
『合気の身体になれるかもしれない体操』『太極棒のメニュー』
『歩法と剣術のメニュー』これらの共通項を感じながら、
技や施術に応用して下さることを期待しています。
最後に、このところ気に入っている記事から抜粋しておきます。
武蔵は「五つのおもて」として、五本の形のみを教える。さまざまな構えが五方に集約され、その五方のそれぞれの構えからの太刀遣いであるので、形は五本なのである。わずか五本の形であれば、技の質が問題となる。形なので、打太刀の攻め方も仕太刀の受け方も決まっているが、同じ動作であっても、からだの遣い方、太刀の遣い方により、技の感じは微妙に違ってくる。この違いに敏感になり、動きやすく太刀の振りやすい感覚を手がかりにして、「太刀の道」をからだで掴み、覚えることに集中できる。最初は相手の打ちに応ずるのに精一杯で、技も所々途切れてしまうが、稽古を重ねていくと、次第に技につながりが出来てくる。初めは掴めなくとも、稽古を積んで感覚を磨いていくと、少しずつ「太刀の道」が分かってくる。武蔵は、形稽古の意味は「太刀の道」を知ることにあると繰り返し強調する。形のやり方を追うのではなく、技を行う感覚に鋭敏になって磨いていかなければならない。
その都度最も振りやすい「太刀の道」が分かるようになると、動きやすいまとまりの動きと、それに続く一連の動き方もおのずと掴め、スムーズにつながっていくようになり、そのつながりの中で生ずる「拍子」(リズム)も掴めてくる。動き全体の「拍子」が掴めるようになると、一つひとつの動作のちょうどよい速さも決まってくる。したがって「太刀の道」を知ることは、ちょうどよい速さで、最もスムーズに打てる「拍子」を知ることでもある。
からだの感覚を磨いて「太刀の道」と「拍子」が分かってくると、敵の動きを見て取れるようになる。敵のわずかな動きでも、「太刀の道」から、その次につながっていく動き方が予測出来るようになる。その「太刀の道」から判断すれば、敵の一振りを見ただけで、敵がどの程度の力量の者であるか、判断もつくのである。「我家の一通り太刀の道をしり、また大形(おおかた)拍子をも覚え、敵の太刀を見わくる事、まづ、此の五つにて、不断手をからす所也」と武蔵はまとめている。
by centeringkokyu
| 2017-06-01 23:13
| 単語検索抜粋