2017年 05月 04日
切り口が違うだけで本質は一緒 |
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#くぼけんです。
今まで『うすらぼんやり』と意識していましたが、『自然とうすらぼんやりになる』事を感じた瞬間でした。
よく出てくる合気用語の解釈を少しずつ変える必要がありそうです。
「立体視」〜「空間認識」〜「うすらぼんやり」より一部抜粋
「禅的生活」 玄有 宗久 著(配付資料082)
瞑想とは、結果として見れば、ふだん意識から独立している無意識の脳機能を意識によってコントロールする方法であり、基本的には意識が拡散した状態を保持することから始まる。たとえば意識が右の掌一ヵ所に集中すると我々はすぐに何かを考えはじめることもできるが、意識を両手の掌に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の四ヵ所に意識を分散したまま集中することも可能になる。そのほかにもじつにいろんな瞑想の技術はあるが、ここではこれ以上深入りしない。(中略)
ともあれ実際に「瞑想」してみると分かるが、そのときあなたは眼に見える何ものをも言語化していないし、なんらかの価値判断もしていない。ただ「ありのままに」浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされないからこそ、全体が浮かんでくるのである。まえに「ありのまま」などあり得ないということを書いたが、じつは瞑想においてはそれがあんがい簡単に実現してしまうのである。見えている人の顔にしても、好き嫌いとか特別な怨みがあったりすればすぐに見えなくなってしまう。つまり瞑想において全てが見えるのは、好き嫌いや価値判断を離れているからなのである。
瞑想とは、結果として見れば、ふだん意識から独立している無意識の脳機能を意識によってコントロールする方法であり、基本的には意識が拡散した状態を保持することから始まる。たとえば意識が右の掌一ヵ所に集中すると我々はすぐに何かを考えはじめることもできるが、意識を両手の掌に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の四ヵ所に意識を分散したまま集中することも可能になる。そのほかにもじつにいろんな瞑想の技術はあるが、ここではこれ以上深入りしない。(中略)
ともあれ実際に「瞑想」してみると分かるが、そのときあなたは眼に見える何ものをも言語化していないし、なんらかの価値判断もしていない。ただ「ありのままに」浮かんで見えているに過ぎない。つまり価値判断がなされないからこそ、全体が浮かんでくるのである。まえに「ありのまま」などあり得ないということを書いたが、じつは瞑想においてはそれがあんがい簡単に実現してしまうのである。見えている人の顔にしても、好き嫌いとか特別な怨みがあったりすればすぐに見えなくなってしまう。つまり瞑想において全てが見えるのは、好き嫌いや価値判断を離れているからなのである。
全体を見ることより一部抜粋
しかし、このことも平常極く自然に行はれなくてはならぬのであって一瓶の座から離れてみて「何心なく一瓶に打ち向ひ」とか、「一ところに目を配らず全体に」——とか言った風に、殊更らに、さういふことを意識の中に置いて花をとゝのへてゐたのでは、こんどは花に対する「感度」といふものがにぶって了ふ。それであるから、「全体をみる」とか「何心なく打眺める」とかいふことも修業をつんだ上に立っての話であって、最初から、そのやうなことをしてみても、いたづらに、判らなくなって了ふばかりである。
むかでといふ虫は、百足とも書かれる文字通り足の多い虫であるが、あれでも、歩くときには、第何番目の足と何番目の足は一緒に出て、その次は何番目の足か出る、といふやうに、ちゃんと決った足の順番があるのに違いない。しかし、それは造化の神様だけが知ってのことで、むかで自身はしらずに歩いてゐるのである。もしも、むかでが何かの拍子に、自分の夥しい足の、歩く順番を教えへられて「はて、この次は三番目だったか二十五番目だったかな?」と考へ出したら、とても歩けなくなるのに相違ない。しまひにはむかでは神経衰弱になるであらう。
むかでは自然に会得した複雑なあの足の操作法に依って、極く自然に歩くことが出来るのであって、殊更らに、それを教へ込まれたならば動きがとれなくなって了ふやうに、一瓶の花をとゝのへるに際しても、右の禅師の言葉や水月の矩の教へを殊更らに実践するのではなく、極く自然に動きの中に移してゐる——修業が大切なのである。
要する一瓶の花をとゝのへるに際して、全体の調和を見定める極意は次の一言に定まるのである。
「気を奪はれることなく心を瓶華に向け、心を瓶華に向けつゝ気を失はず」 観世音菩薩のやうに「観自在」にこれをみることが出来れば大したものである。自在にこれを観るのである。この観るは、肉眼で見るのではなく、心の眼で観るのである。心眼に近い眼で自在に、花の姿を観察し全体の姿を調整することである。所謂、千手千眼の人となって、はじめて花の姿全体が判るのである。
むかでといふ虫は、百足とも書かれる文字通り足の多い虫であるが、あれでも、歩くときには、第何番目の足と何番目の足は一緒に出て、その次は何番目の足か出る、といふやうに、ちゃんと決った足の順番があるのに違いない。しかし、それは造化の神様だけが知ってのことで、むかで自身はしらずに歩いてゐるのである。もしも、むかでが何かの拍子に、自分の夥しい足の、歩く順番を教えへられて「はて、この次は三番目だったか二十五番目だったかな?」と考へ出したら、とても歩けなくなるのに相違ない。しまひにはむかでは神経衰弱になるであらう。
むかでは自然に会得した複雑なあの足の操作法に依って、極く自然に歩くことが出来るのであって、殊更らに、それを教へ込まれたならば動きがとれなくなって了ふやうに、一瓶の花をとゝのへるに際しても、右の禅師の言葉や水月の矩の教へを殊更らに実践するのではなく、極く自然に動きの中に移してゐる——修業が大切なのである。
要する一瓶の花をとゝのへるに際して、全体の調和を見定める極意は次の一言に定まるのである。
「気を奪はれることなく心を瓶華に向け、心を瓶華に向けつゝ気を失はず」 観世音菩薩のやうに「観自在」にこれをみることが出来れば大したものである。自在にこれを観るのである。この観るは、肉眼で見るのではなく、心の眼で観るのである。心眼に近い眼で自在に、花の姿を観察し全体の姿を調整することである。所謂、千手千眼の人となって、はじめて花の姿全体が判るのである。
#管理人です。
剣術や禅、華でも切り口が違うだけで本質は一緒という事が良く解ります。
本質は教える事が出来ないといった所も共通している様なので、如何に気付くきっかけを創るかが大事という事ですね。
呼吸動作研究会でも、そう言った認識を持ち気長に進んで行きたいと思います。
参照1:気づく機(とき)
#楽隠居です
組織を維持することと技術を伝えることは、両立させることが難しいのではないかと思っています。
私の場合は、成り行きで稽古を続けられているので、会を大きくしたいとも思っていませんし、そのような才能もありません。
ただただ、会員諸氏のお蔭だと思い感謝しています。
身体の感覚は、言葉では伝えようがありませんし、どのように感じれば正しいのかという答えもありません。
出来るか、出来ないか、それだけです。
ある人には掛かっても、他の人には掛からないということもよくあります。
身体が調整された途端に、技が掛かるということは普通にあります。
ということは、技を覚える前に、身体を整えておくべきだということかもしれません。
相手の反応の仕方によって、見た目の動きは変わります。しかし、原理は共通です。ですから、技に名前は付けられません。
技に名前を付けられないのですから、級や段を取得するための技を分類することはできません。
ですから免状は、出せません。
相手に合わせて動くのが合気だとすると、◎◎投げをしようと思った時点で、合気では無くなります。
参照2:身体の伸びを指先まで繋げる
言葉や動作(形を含む)だけでは、なかなか本質的な部分をお伝え出来ないので、稽古ではいつも試行錯誤しています。
体内操作・呼吸・意念をバランス良く解説することは、不可能です。
それに、手の内は見せられませんから・・・
滋賀県から堺市まで稽古に来て下さっているSYさんが、「最初は体操や歩法の意味が全く理解出来なかったのに、このところの研究会で、共通項が見えてきたので、本当に楽しいです。」と感想を述べてくださいました。嬉しいですね!
燕飛の前半の仕太刀をお見せしましたら、「今日の稽古が、全部含まれているんですねぇ〜」とMTさんが感心しておられました。
私がしていることは、金太郎飴の切り口を変えているだけで、面長の金太郎や、ちょっとギザギザになった金太郎を、お見せしているだけで、金太郎飴の味は変わりません。
精々私に騙されないようにしていただきたいと思います。
by centeringkokyu
| 2017-05-04 02:01
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