2016年 12月 05日
気の医学と直感 続 |
◎第一印象だけを信じてみる
自分について、あるいは相手についての直感的な印象を受けとるには、どんなイメージでも、浮かんでくるものに注意をはらうこと。ほとんどの人は、健全な直感ではなく安心できる直感を求め、健全な洞察よりも安心できる洞察を聞きたがっている。将来、あるいは何か未知のものに対しては、そこに導いてくれる安全な道を選びたいからだ。このため、心を乱すようなイメージや、自分や相手の望みに合わないようなイメージを無視したい誘惑に駆られるかもしれない。
人生は、ときとしてつらいこともある。しかし、霊的に見れば、私たちは、人生で体験する痛みにきちんと直面するようになっている。欧米では、神が人間のためにつくった計画が誤解されており、人生は快適で何の問題もないことが当然と考えられている。神の存在の有無を、人生の快適度で測ってしまうのだ。だが、神でも仏でも、あるいはどんな霊的な指導者であっても、痛みのない人生など保証してはいないし、それがいいともすすめていない。霊の道の教えは、苦しい体験ひとつひとつが霊的な学びであり、それを乗り越えて成長するように言っている。直感力をつけることは、あらゆる体験の裏に隠された学びに気づく助けにもなってくれるのだ。
◎内面を見つめる心をもとう
直感力はすべての人にもともとある、生存の技能だから、霊的な意図によって発生するものではない。だが内省的、あるいは瞑想的な状態からものを見るようにしていると、直感を受けとりやすい条件が整う。
個人的な印象と、非個人的な印象を区別することを、私は経験を通して学んだ。直感が正しいことを示してくれるのは、私の場合感情の欠如である。私にとってはっきりとした印象とは、そこに感情的エネルギーがまったく介在していないもののことだ。ある印象に感情的なつながりを感じたとしたら、その印象は純粋ではないと考えることにしている。しかし、読みとっている印象から、相手の何らかの感情的なエネルギーを感じることはよくある。
私にとって、この印象とは、聴覚的でも視覚的でもない。きわめて微弱な電流をもつ、瞬間的に頭のなかに見えるイメージのようなものだ。相手の身体全体をざっとながめていきながら、それぞれの気の中心に意識を集中し、イメージが湧いてくるのを待つ。5秒ほどするとこの像が生じるプロセスがはじまり、しばらく続くと、やがてそれは自然に終息していく。その時間は人によって違う。1時間近くかかる人もいれば、十分とかからない人もいる。ときとして何も読み取れなかったり、なんの助けもしてあげられない人に出会うこともある。これがなぜなのかは、推測しかできない。自分がこれから言おうとしていることが、相手には何のことだかさっぱりわからないだろうという感じがするときもあるし、その人が、私には答えられない、何か具体的な疑問の答えを求めている印象をもったこともある。
▼NMさんからのメール
K野先生本日も有難うございましたm(__)m
今日は壁で首や頭を意識するほど身体が固まりどうしようもなくなりました
本当に緊張はすぐ出来ても弛緩は難しいですね!
横になっての腰の脱力が一番私が今マスターすべき調整点だと学びました。
先生の身体の自在な動きはタッチしてみると驚きと憧れです。
毎回問題の部位ばかりの私を自分自身も忘れていたような軽い身体に変えてくださる先生の凄い技のお陰で少し自分の快適な状態についてイメージが作れました。m(__)m
自分に気を付けて行動するのではなく観察する!
そして自分がしない動きをしてみる!そうすれば脱力出来る!
難しいのですが…来年の課題にしようと思いました。
有難うございましたm(__)m今後とも宜しくお願いします。
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by centeringkokyu
| 2016-12-05 00:06
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