あらゆる様態をイメージする |
▼こころを鍛えるインド 伊藤武著
「浄土曼荼羅」というものがある。平安時代に盛んに描かれたもので、西方浄土の宮殿と阿弥陀仏。蓮華の咲き乱れる浄(きよ)らかなプールがあり、そのほとりでは、装身具をつけたセミヌードの美しい娘たちが歌い踊っている。ここでも、インダスの儀礼が繰り返されている。
この絵は本来、美術品として鑑賞する目的でつくられたのではない、ということを言いたかったのである。「浄土曼荼羅」は、ある意味では、今日のパソコンにも似た実用品だったのである。
何に用いるのかと言えば、ヨーガに用いる。平安時代の日本にヨーガ?――奇異に思われるかもしれないが、前にも述べたように、ヨーガは「兪伽」の字で古代から日本に定着していた。ただし、「兪伽」の場合、先述した坐法や呼吸法ではなく、いや坐法も呼吸法ももちろん重要なのだが、中心となるのは禅那(ディヤーナ)である。
ディヤーナは禅仏教として花開いた、とこれも先述したが、この場合のディヤーナの方法は禅とは反対の方法をとる。禅では心を無にするのだが、ここでは心をイメージでいっぱいに満たしてしまうのである。これを「観想」という。
イメージといっても、心に浮かぶ思いをデタラメに追っていくのではない。では、どういうふうにやるのか――。前に、忍者の「仮死の術」がヨーガの技術からきているのではないか、というようなことを書いたので、ここでも、忍術にことよせて説明することにしよう。
忍者の行う不思議な術に「念」というのがある。室内で侍に取り囲まれた忍者が念を凝らすと、襖の山水画の湖から水が渦を巻いて溢れ出してきて、侍たちは溺れそうになる。しかし、忍者が念をやめると、いっときに水が消えてしまう、といったものだ。
これは、密教で行じる水観という観想(イメージ瞑想)がもとになっている。一心に水を念じ、水のあらゆる様態をイメージしているうちに、行者そのものが水と化す。行者の念が強力だと、周りの者もその水を見てしまうのである。
隠形変身の術というのもある。「隠形」は忍者が印を結んでドロンと消える、「変身」は木や石や蝦蟇に姿を変える、という講談でお馴染みのやつだ。だが、決して荒唐無稽な話ではない。原理は水観と同じなのだ。
わが身は無である、木や石や蝦蟇である、と強力にイメージする。そして、その意志の塊を相手に投げつけることによって、錯覚を生じさせる。つまり、強力な精神のコンセントレーション【精神集中】から相手の心の裡に入り込み、その脳に自分の描くイメージを直接映し出すのであって、相手は目で見ているのではない。理解しにくければ、瞬間催眠術ないしはマインド・コントロールと考えればよい。
同じようなことは、いまもインド魔術で行われている。よく知られているのが、ロープが蛇のように頭をもたげて天を冲(ちゅう)する、というのが綱立ての術である。かつて『エキザミア』誌が、その秘密を暴こうと赤外線写真で挑んだことがある。人々にはロープが空に昇っていくのが見えたのに、写真には何も写っていなかった。つまり、集団催眠術で白昼夢を見せられていたのである。
周知のように、忍術は修験道や密教と深い関わりを持ち、その源流はインドのヨーガである。ヨーガは日本でも、千数百年の歴史があるのである。
#楽隠居です
久しぶりに、家でのんびりできました。殆ど何もしませんでした。
このところシリーズで読んでいる伊藤武さんの本に、面白いことが書かれていましたので、ご紹介しました。
修験道の先生方が写っている写真には、時々不思議な光景が写るようですから、集団催眠ではないようです。
『あらゆる様態をイメージする』
『わが身は無である』『強力にイメージする』
『相手の心の裡に入り込み、その脳に自分の描くイメージを直接映し出す』
このあたりの言葉が、とても印象に残りました。
2005年1月から始めたこのブログの記事数が、2600件になりました。
これからも、面白い資料などがありましたら、ぼちぼち更新させていただくつもりです。
しかし、大切な資料は、2008年ぐらいまでに総て載せてありますので、是非参考にしてください。
そして、気になったことは、ブログ内検索でお調べください。
参照1:擬態
参照2:自分のゼロ化
参照3:読書の秋
参照5:相手の変化を導くアプローチ