2016年 02月 23日
活元か霊動か |
☆リンク先で更新された記事
◆『活元運動には再現性が無い』
#くぼけんです。
昨日の稽古中から始まっていた、薄筋や骨盤底筋の筋肉痛は時間が経つにつれてきつくなってきました。
筋肉痛が出ない様に使うには、中を伸ばす事と手首を決める事が重要な事に一日家族と歩き回って気付き、帰宅して仰向けになり足の上げ方を科学してみると、両足を上げる時に軸が無くなるので、柱に肘を軽く曲げた状態で両拳を当てて、中を伸ばし、分け目と物打ちと西江水だけを気にして検証すると、軸が出来て勝手に両足が浮きました。
でも、何か腑に落ちない。
上げる意識をなるべく無くして力を抜く事に集中していると、仰向けに対しての重力に全然対応していない事が解ったので、『骨が床に落ちてしまえば良い。』と言う心持ちで力を抜くと本当に骨が床に落ちて行くんです。
余り、意識を広げすぎるとばらけそうな気がしたので、骨盤と股関節の力をひたすら抜きながら、全身の反応を薄らぼんやり感じる事にしました。
すると、今まで何度もお決まりの様に使っていた合気用語が全て形を追いかけていたと思えた途端に、活元運動?が始まったので重さに訊く事だけ集中していると、上がる所は上がって、床に付く所は着く、段々骨盤腔が真空状態?になり体中に真空が行き届く感覚を感じ得ました。
私は、今まで『活元運動には再現性が無い』と言う言葉に縛られてしまい、どこか活元運動に頼ってはいけないと言う思想が頭にへばり付いて頭の動きと共に身体の動きを止めていた様です。
師匠の活元誘導?をして頂いた感覚とリンクしたお蔭で、活元運動?に学ぶ事ができ、『活元運動には再現性が無い』と言う事が身体の本質を意味していると認識が変わりました。
修正部分が多々ありますが、何か腑に落ちたので検証を止め記事にする事にしました。
明日から、また新しい気持ちで検証をスタートします。
◆仙骨周辺が硬い
◎施術では
○相手の手を取る時に腰が柔らかく動いていくれる
○身体が動きやすいせいか迷わない
○活元誘導風調整が良い感じ
#くぼけんです。
骨盤周りで仙骨周辺が特に硬い事が解り、なぜ長座が苦手なのかが解りました。
そして、重さに訊く事で反作用が自然に使える事も解ったので良しとしておきます。
参照1:観念法と呼吸法と触手療法
・霊動が肉眼で見えるのを顕動と云い、肉眼で全く見る事の出来ない微動を潜動と云うのである。
要するに顕動は一つには、初学者の為に霊動とは、どんなものであるかを示す為であり、一つには潜動に導く手段である。諸病治療には専ら潜動に依らねばならぬ。
霊動の起こって居る手を患部に按手する時は、電気にでもかかってる如く、其の振動を感じ、且つ此の振動が細かい為に、患部の最深部に迄充分伝わり、神秘的な力によって、病細胞を破壊し、如何なる難病をも易々治療する事が出来るのである。此れ即ち中脳を経て植物性神経を刺激し、其の配下にある不随意筋を微動するが故に、効果偉大且つ的確なのである。
此れに反し顕動は振動が粗い為に、身体の部まで到達せず表面で消えてしまう為に、治療効果も極めて少ない。而して顕動は終脳より動物性神経を刺激して、随意筋を働かすのである。
参照2:見えない糸
十階の窓の障子が仄明るい。昨夜より少しましだが、まだまだ痛む。
痛いのが気になって、活元運動も出て来ない。しかし痛い以上、体内では活元運動が行われている筈だ。ふと“内観”という言葉が浮かんだ。
内観といっても仏教のそれでなく、自己流に漠然と目を瞑って体内の呼吸を見ていると、呼吸と一緒に張弛する気の動きが見えて来た。
それはまるで遊んでいるかのように、上がったり下がったり、螺旋状になったり、8の字になったり、首から左腕へ行ったり、全く自由自在で、この“気遊”とでも言いたいような気に先導されて、欠伸や涙が出てくる、汗ばんでくる。同時に微妙な全身の活元運動になって行った。
それは、今までの訓練による活元運動とは全く異なっていた。これなら車の中でも、何処でも出来る。外からは余り見えないような細やかな動きだからだ、丁度、野の花がいつ咲いたか分からないような、そんな何でもない自然さと快さがあった。
参照3:無意識に全身全霊で
活元大会はやるけれど、活元会に出ることを考えられないのは、一人一人を見ると、その体の状態を知っていますから、「彼はこういう運動が出るべきなのに、こんな運動をしている」と思う。そうすると手を出したくなるのです。何十人、何百人と並んでやられると全部わからない。その中の何人かをみる、そうなると不公平ができます。そして見ている自分の方が忙しくて仕方ない、プロはいつでもそのように見ていますから、無意識にそのように見てしまう力を持っています。
参照4:相手からやり方を見付ける
胸椎何番を押えろと云うのは素人へのおどかしで、そうすればそこに注意を集めるからそうやるので、問題は何番を覚えるのでなくて、その急処に心を集め、そこに有る異常を感じとろうとする、そういう気の集中が根本であって、そういうような愉気だけで、技術なんていうものは殆んど充分なものなのです。
参照5:自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也
我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也
我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也
所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
参照6:野口晴哉著作全集
参照7:錐体外路系
◆野口整体と均整法
『話は外れるが均整法では、錐体外路系を使うことは、いろいろ不思議なことがあるが害があるので、これを使うことを禁止しているのである。もちろん外路系運動と良い点もあるのであるから、その原理をわきまえて使うならば良いが、多くは興味本位に使って害が多いから、使ってはいけないと言っているのである。』
ここで言っている錐体外路というのは、野口晴哉先生が「整体法の基礎・全生社刊」の「人間における知識以前の働き」のなかで 『人間の運動系には錐体路と言う経路があります。ところがそれ以外に、錐体外路系といって、錐体路系によらない運動の様式があるのです。その錐体外路の働きを訓練するのが活元運動であります。・・・したがって、人間が生きているという面において一番大事なことは、知識以前の問題、技術以前の問題、あるいは自然にある本能といいますか、そういう力、そういうはたらきの問題であります。それを知識や技術に求めてみても得られないのではないだろうかということに至りまして、体運動の中で無意識的に働いてしまう外路系の働き自体を敏感にするにはどうすればよいか、そこで外路系の働きそのものを使って訓練する方法を活元運動と名づけて、五十年ほど前から行ってきたのであります。その誘導は愉気によって行います。・・・愉気をしていますと、柱のように硬張ってしまった人以外は、みんなひとりで動きだしてきます。』と述べられています。
この錐体外路はわれわれ治療家にとって、とても重要な意味を持つ概念だと思いますが、野口整体と均整法が分かれるきっかけとなったのは、この「錐体外路系」をめぐる考え方の違いからだと思います。
亀井先生の説明を借りて錐体外路を説明しますと、先生は「刺激の基礎原理」(昭和46年2月・機関誌26号)の中で、「骨格筋は生理学的には随意筋といわれているが、この名称は錯覚を起こしやすい」と述べて興味深く解説されています。以下は私の解釈を要約します。
参照8:感応法
○眼光感應法
人若し訓練を重ぬる時は、敢て指掌を用ゆるの必要なく、単に其の眼を用ふれば可なり。
元来生気は、身体の各部より放射するものにして、指頭手掌を用ふるは、唯最も便なるに因る。然るに眼は鋭敏にして放射力強く、単に凝視するのみを以て、十分なる感應を與ふることを得べし。而して感應せしむべき部廣ければ、之を移動するを要す。
今他人の自己運動を変換するか、若しくは他の部に運動を起さしめんとするに当たり、眼光に依る感應法を用ふる時は、全く指掌感應法を以てすると、同一の結果を来すべし。宜しく実験して之が訓練を為し置くべし。
☆おまけ
・9条教は町内の迷惑&言霊信仰の安全保障&トルコの恩返し&靖国“爆発音”事件って何だ! 「カツヤマサヒコSHOW」より
◆『活元運動には再現性が無い』
#くぼけんです。
昨日の稽古中から始まっていた、薄筋や骨盤底筋の筋肉痛は時間が経つにつれてきつくなってきました。
筋肉痛が出ない様に使うには、中を伸ばす事と手首を決める事が重要な事に一日家族と歩き回って気付き、帰宅して仰向けになり足の上げ方を科学してみると、両足を上げる時に軸が無くなるので、柱に肘を軽く曲げた状態で両拳を当てて、中を伸ばし、分け目と物打ちと西江水だけを気にして検証すると、軸が出来て勝手に両足が浮きました。
でも、何か腑に落ちない。
上げる意識をなるべく無くして力を抜く事に集中していると、仰向けに対しての重力に全然対応していない事が解ったので、『骨が床に落ちてしまえば良い。』と言う心持ちで力を抜くと本当に骨が床に落ちて行くんです。
余り、意識を広げすぎるとばらけそうな気がしたので、骨盤と股関節の力をひたすら抜きながら、全身の反応を薄らぼんやり感じる事にしました。
すると、今まで何度もお決まりの様に使っていた合気用語が全て形を追いかけていたと思えた途端に、活元運動?が始まったので重さに訊く事だけ集中していると、上がる所は上がって、床に付く所は着く、段々骨盤腔が真空状態?になり体中に真空が行き届く感覚を感じ得ました。
私は、今まで『活元運動には再現性が無い』と言う言葉に縛られてしまい、どこか活元運動に頼ってはいけないと言う思想が頭にへばり付いて頭の動きと共に身体の動きを止めていた様です。
師匠の活元誘導?をして頂いた感覚とリンクしたお蔭で、活元運動?に学ぶ事ができ、『活元運動には再現性が無い』と言う事が身体の本質を意味していると認識が変わりました。
修正部分が多々ありますが、何か腑に落ちたので検証を止め記事にする事にしました。
明日から、また新しい気持ちで検証をスタートします。
◆仙骨周辺が硬い
◎施術では
○相手の手を取る時に腰が柔らかく動いていくれる
○身体が動きやすいせいか迷わない
○活元誘導風調整が良い感じ
#くぼけんです。
骨盤周りで仙骨周辺が特に硬い事が解り、なぜ長座が苦手なのかが解りました。
そして、重さに訊く事で反作用が自然に使える事も解ったので良しとしておきます。
参照1:観念法と呼吸法と触手療法
・霊動が肉眼で見えるのを顕動と云い、肉眼で全く見る事の出来ない微動を潜動と云うのである。
要するに顕動は一つには、初学者の為に霊動とは、どんなものであるかを示す為であり、一つには潜動に導く手段である。諸病治療には専ら潜動に依らねばならぬ。
霊動の起こって居る手を患部に按手する時は、電気にでもかかってる如く、其の振動を感じ、且つ此の振動が細かい為に、患部の最深部に迄充分伝わり、神秘的な力によって、病細胞を破壊し、如何なる難病をも易々治療する事が出来るのである。此れ即ち中脳を経て植物性神経を刺激し、其の配下にある不随意筋を微動するが故に、効果偉大且つ的確なのである。
此れに反し顕動は振動が粗い為に、身体の部まで到達せず表面で消えてしまう為に、治療効果も極めて少ない。而して顕動は終脳より動物性神経を刺激して、随意筋を働かすのである。
参照2:見えない糸
十階の窓の障子が仄明るい。昨夜より少しましだが、まだまだ痛む。
痛いのが気になって、活元運動も出て来ない。しかし痛い以上、体内では活元運動が行われている筈だ。ふと“内観”という言葉が浮かんだ。
内観といっても仏教のそれでなく、自己流に漠然と目を瞑って体内の呼吸を見ていると、呼吸と一緒に張弛する気の動きが見えて来た。
それはまるで遊んでいるかのように、上がったり下がったり、螺旋状になったり、8の字になったり、首から左腕へ行ったり、全く自由自在で、この“気遊”とでも言いたいような気に先導されて、欠伸や涙が出てくる、汗ばんでくる。同時に微妙な全身の活元運動になって行った。
それは、今までの訓練による活元運動とは全く異なっていた。これなら車の中でも、何処でも出来る。外からは余り見えないような細やかな動きだからだ、丁度、野の花がいつ咲いたか分からないような、そんな何でもない自然さと快さがあった。
参照3:無意識に全身全霊で
活元大会はやるけれど、活元会に出ることを考えられないのは、一人一人を見ると、その体の状態を知っていますから、「彼はこういう運動が出るべきなのに、こんな運動をしている」と思う。そうすると手を出したくなるのです。何十人、何百人と並んでやられると全部わからない。その中の何人かをみる、そうなると不公平ができます。そして見ている自分の方が忙しくて仕方ない、プロはいつでもそのように見ていますから、無意識にそのように見てしまう力を持っています。
参照4:相手からやり方を見付ける
胸椎何番を押えろと云うのは素人へのおどかしで、そうすればそこに注意を集めるからそうやるので、問題は何番を覚えるのでなくて、その急処に心を集め、そこに有る異常を感じとろうとする、そういう気の集中が根本であって、そういうような愉気だけで、技術なんていうものは殆んど充分なものなのです。
参照5:自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也
我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也
我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也
所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
参照6:野口晴哉著作全集
参照7:錐体外路系
◆野口整体と均整法
『話は外れるが均整法では、錐体外路系を使うことは、いろいろ不思議なことがあるが害があるので、これを使うことを禁止しているのである。もちろん外路系運動と良い点もあるのであるから、その原理をわきまえて使うならば良いが、多くは興味本位に使って害が多いから、使ってはいけないと言っているのである。』
ここで言っている錐体外路というのは、野口晴哉先生が「整体法の基礎・全生社刊」の「人間における知識以前の働き」のなかで 『人間の運動系には錐体路と言う経路があります。ところがそれ以外に、錐体外路系といって、錐体路系によらない運動の様式があるのです。その錐体外路の働きを訓練するのが活元運動であります。・・・したがって、人間が生きているという面において一番大事なことは、知識以前の問題、技術以前の問題、あるいは自然にある本能といいますか、そういう力、そういうはたらきの問題であります。それを知識や技術に求めてみても得られないのではないだろうかということに至りまして、体運動の中で無意識的に働いてしまう外路系の働き自体を敏感にするにはどうすればよいか、そこで外路系の働きそのものを使って訓練する方法を活元運動と名づけて、五十年ほど前から行ってきたのであります。その誘導は愉気によって行います。・・・愉気をしていますと、柱のように硬張ってしまった人以外は、みんなひとりで動きだしてきます。』と述べられています。
この錐体外路はわれわれ治療家にとって、とても重要な意味を持つ概念だと思いますが、野口整体と均整法が分かれるきっかけとなったのは、この「錐体外路系」をめぐる考え方の違いからだと思います。
亀井先生の説明を借りて錐体外路を説明しますと、先生は「刺激の基礎原理」(昭和46年2月・機関誌26号)の中で、「骨格筋は生理学的には随意筋といわれているが、この名称は錯覚を起こしやすい」と述べて興味深く解説されています。以下は私の解釈を要約します。
参照8:感応法
○眼光感應法
人若し訓練を重ぬる時は、敢て指掌を用ゆるの必要なく、単に其の眼を用ふれば可なり。
元来生気は、身体の各部より放射するものにして、指頭手掌を用ふるは、唯最も便なるに因る。然るに眼は鋭敏にして放射力強く、単に凝視するのみを以て、十分なる感應を與ふることを得べし。而して感應せしむべき部廣ければ、之を移動するを要す。
今他人の自己運動を変換するか、若しくは他の部に運動を起さしめんとするに当たり、眼光に依る感應法を用ふる時は、全く指掌感應法を以てすると、同一の結果を来すべし。宜しく実験して之が訓練を為し置くべし。
☆おまけ
・9条教は町内の迷惑&言霊信仰の安全保障&トルコの恩返し&靖国“爆発音”事件って何だ! 「カツヤマサヒコSHOW」より
by centeringkokyu
| 2016-02-23 00:03
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