2005年 08月 10日
ねこの徒然 8/10 |
腰腹同量
このお題については、既にK野さんが平田先生の記事等で簡潔明瞭に記事にされているので、ここではその余談について少し書いてみます。
最近、「大腰筋」と言う筋肉がやたらと注目されている訳ですが、実はこの筋肉は「腰方形筋」と言う筋肉が連携・連動しないとその真価を発揮出来ない事は余り知られていません。
何故なら、この2つの筋肉は「解剖学上、拮抗する関係ではない」からです。
但し、生きた全身の筋肉の「連動」と言う観点から「機能的なバランス」をイメージして捉えると「解剖学」にはない関係(死体からは分からない)から身体の繋がりが浮き出て来ます。
「腰方形筋」?・・・観照塾の各位には、取り敢えず、体操の「ペンギン」を思い出
して下さい。
手を鉤手にして両腰の後ろに当てますね。その丁度、命門の両脇に相当する「骨の無い」部分の筋肉が「腰方形筋」です。
この「大腰筋と腰方形筋」のロッキングチェアが重要だったりする訳です。
最近、周囲を見ていると、「命門を出す」とか「お尻を丸める」等の「要領」を誤解し 、この「腰方形筋」が固まって筋膜がすっかり癒着してしまってる方が多く見られます。
皆さんは如何ですか?
この連動を比較的簡単に感じる方法をお話します。
両手を拳にし、その甲の部分で「腰方形筋」を前方に少し押さえます。それに対し
て身体を「保持する」意識でお腹に負荷を掛け、手の甲を背中で後ろへ押し付けます。
後はその両方の圧を身体の中心に向かって一定にし「爪先立ち」になったり「船漕
ぎ」してみたり、はたまた正座で「居合い腰」してみて下さい。
平田先生の仰る事やペンギン、居合腰等がまた良く分かると思います(多分、12時をお臍側とした骨盤時計の6時が時計の枠からはみ出しているはずです)。
イメージの仕方は色々ですが、唯一その部分が背骨を取り巻く骨がない部分ですの
で、 その二つで「コルセット」になっていると思って頂いても良いし、K野さんが冬に「袴」を履く事を勧められた理由等も・・・色々イメージ、検証してみて下さい。
後、「褌(骨盤底)」と「襷(肋骨の位置)」、「鉢巻き(頭の位置)」があったらもっと面白いですね。
自然な動きと幽顕
「手を使う時、指先を止めるのですよ」・・・初学の頃その様なご指摘を良く頂きま
した。
ただ、今となって思うのは、指は止めるのでなく、自然と「止まる」と言う事・・・
如何せん、言葉で表現出来る事は限られているし、どんなに正確を期したところで、所
詮、口から出た途端、結果であったのだろうと思います。
でも、その続きを敢えて文字でお話してみます。
例えば、「骨盤時計」をする時、勿論、仙骨は動いていますが「尾骨」は一点に止
まっていますか?また、仙骨と尾骨の役割をしっかり意識しておられますか?
これは私の主観ですが・・・仙骨は船のコンパスの様に常に身体の「芯出し」をしますが、その際、重力方向を常に指し示す「振り子」になっているのが「尾骨」です。
従って、この「尾骨」の使い方一つ違うだけで全て「作ったの動き」になります。
実際、その辺を意識してみると先述の「大腰筋と腰方形筋」の連携も「会陰の引き
締め」も「頸の吊り」も・・・色々な現象が「作らず、自然に浮き出て」来ます。
かねがね、動物達は自分に備わった能力を自然に活用し、素晴らしい生き様を見せてくれる事に感動していますが、我々の中にも沢山そう言うものがある様に思います。
また、正しい尾骨の連動表現の先に・・・指先が尾骨、手の平が仙骨の「顕(あら
わ)れ」となる「指先が固定された動き」が出現します。
そして、多分、そう「知った・気付いた」だけで動きは途端に変わるのだとも思います。
こう観ますと、何が自分にとっての「幽顕」か?を思い巡らせる事となるでしょう。
そして、自分の悩みや愁訴も・・・。
自分は自分を知っている
最近、K野さんやY本先生のアシストをさせて頂いたり、色々な方と交流を通じて分かったのが、どの方に限らず「ご自身の身体はご自身を知っている」と言う事でした。
この事については、「センタリング呼吸法」でK野さんの誘導を受けたり、逆に、私が何方かを誘導させて頂く形で「他人の中に自分を写した」事で、それをはっきり感
じ、 掴める様になったと言うのが本音です。
多分、自分自身や他人の「変化」を「俯瞰」でき、自分の余計な「欲求」や「意識」等に惑わされず、シンプルに状況を観察出来るからなのでしょう。
とにかく、誘導していて面白いのは、身体には個性があっても、それに従い「待っ
たり」 ・「ノックしたり」、「介添え」したりして「コミュニケーション」を図ると「自分の正しい基準と有り様」にすっと戻って行くのです。
逆に、こちらの誘導がおかしいと「イヤ!」とその場を動かなかったり、「指示」まで出してくれます(笑)。
「本当に知らぬは自分ばかりなり」です。
また、その歪み方や固まり方を見ていると、往々にして、その言動の裏側にある「意識や心」の「思い癖や歪み」が映し出されます。
加えて、ご自身が置かれた状況が「事故」の様な「突発的」で「急性」である場合でも、最近、そう言うものが「偶然でなく必然」で「ご自身が引き付けたもの」の様に見えます。
実際、私は何時もそう気付いて反省ばかりしています。
このお題については、既にK野さんが平田先生の記事等で簡潔明瞭に記事にされているので、ここではその余談について少し書いてみます。
最近、「大腰筋」と言う筋肉がやたらと注目されている訳ですが、実はこの筋肉は「腰方形筋」と言う筋肉が連携・連動しないとその真価を発揮出来ない事は余り知られていません。
何故なら、この2つの筋肉は「解剖学上、拮抗する関係ではない」からです。
但し、生きた全身の筋肉の「連動」と言う観点から「機能的なバランス」をイメージして捉えると「解剖学」にはない関係(死体からは分からない)から身体の繋がりが浮き出て来ます。
「腰方形筋」?・・・観照塾の各位には、取り敢えず、体操の「ペンギン」を思い出
して下さい。
手を鉤手にして両腰の後ろに当てますね。その丁度、命門の両脇に相当する「骨の無い」部分の筋肉が「腰方形筋」です。
この「大腰筋と腰方形筋」のロッキングチェアが重要だったりする訳です。
最近、周囲を見ていると、「命門を出す」とか「お尻を丸める」等の「要領」を誤解し 、この「腰方形筋」が固まって筋膜がすっかり癒着してしまってる方が多く見られます。
皆さんは如何ですか?
この連動を比較的簡単に感じる方法をお話します。
両手を拳にし、その甲の部分で「腰方形筋」を前方に少し押さえます。それに対し
て身体を「保持する」意識でお腹に負荷を掛け、手の甲を背中で後ろへ押し付けます。
後はその両方の圧を身体の中心に向かって一定にし「爪先立ち」になったり「船漕
ぎ」してみたり、はたまた正座で「居合い腰」してみて下さい。
平田先生の仰る事やペンギン、居合腰等がまた良く分かると思います(多分、12時をお臍側とした骨盤時計の6時が時計の枠からはみ出しているはずです)。
イメージの仕方は色々ですが、唯一その部分が背骨を取り巻く骨がない部分ですの
で、 その二つで「コルセット」になっていると思って頂いても良いし、K野さんが冬に「袴」を履く事を勧められた理由等も・・・色々イメージ、検証してみて下さい。
後、「褌(骨盤底)」と「襷(肋骨の位置)」、「鉢巻き(頭の位置)」があったらもっと面白いですね。
自然な動きと幽顕
「手を使う時、指先を止めるのですよ」・・・初学の頃その様なご指摘を良く頂きま
した。
ただ、今となって思うのは、指は止めるのでなく、自然と「止まる」と言う事・・・
如何せん、言葉で表現出来る事は限られているし、どんなに正確を期したところで、所
詮、口から出た途端、結果であったのだろうと思います。
でも、その続きを敢えて文字でお話してみます。
例えば、「骨盤時計」をする時、勿論、仙骨は動いていますが「尾骨」は一点に止
まっていますか?また、仙骨と尾骨の役割をしっかり意識しておられますか?
これは私の主観ですが・・・仙骨は船のコンパスの様に常に身体の「芯出し」をしますが、その際、重力方向を常に指し示す「振り子」になっているのが「尾骨」です。
従って、この「尾骨」の使い方一つ違うだけで全て「作ったの動き」になります。
実際、その辺を意識してみると先述の「大腰筋と腰方形筋」の連携も「会陰の引き
締め」も「頸の吊り」も・・・色々な現象が「作らず、自然に浮き出て」来ます。
かねがね、動物達は自分に備わった能力を自然に活用し、素晴らしい生き様を見せてくれる事に感動していますが、我々の中にも沢山そう言うものがある様に思います。
また、正しい尾骨の連動表現の先に・・・指先が尾骨、手の平が仙骨の「顕(あら
わ)れ」となる「指先が固定された動き」が出現します。
そして、多分、そう「知った・気付いた」だけで動きは途端に変わるのだとも思います。
こう観ますと、何が自分にとっての「幽顕」か?を思い巡らせる事となるでしょう。
そして、自分の悩みや愁訴も・・・。
自分は自分を知っている
最近、K野さんやY本先生のアシストをさせて頂いたり、色々な方と交流を通じて分かったのが、どの方に限らず「ご自身の身体はご自身を知っている」と言う事でした。
この事については、「センタリング呼吸法」でK野さんの誘導を受けたり、逆に、私が何方かを誘導させて頂く形で「他人の中に自分を写した」事で、それをはっきり感
じ、 掴める様になったと言うのが本音です。
多分、自分自身や他人の「変化」を「俯瞰」でき、自分の余計な「欲求」や「意識」等に惑わされず、シンプルに状況を観察出来るからなのでしょう。
とにかく、誘導していて面白いのは、身体には個性があっても、それに従い「待っ
たり」 ・「ノックしたり」、「介添え」したりして「コミュニケーション」を図ると「自分の正しい基準と有り様」にすっと戻って行くのです。
逆に、こちらの誘導がおかしいと「イヤ!」とその場を動かなかったり、「指示」まで出してくれます(笑)。
「本当に知らぬは自分ばかりなり」です。
また、その歪み方や固まり方を見ていると、往々にして、その言動の裏側にある「意識や心」の「思い癖や歪み」が映し出されます。
加えて、ご自身が置かれた状況が「事故」の様な「突発的」で「急性」である場合でも、最近、そう言うものが「偶然でなく必然」で「ご自身が引き付けたもの」の様に見えます。
実際、私は何時もそう気付いて反省ばかりしています。
by centeringkokyu
| 2005-08-10 23:34
| ネコ殿