2005年 07月 27日
不貞寝抄 最終回 |
調和・・・五分五分の変化
先週末土曜日もK野さんに身体の歪みを施術して頂いたのですが・・・「センタリング呼吸法」を学びながらも「歪体のモデル」(正体でなく)にしかなれず、自分は自らの何も「観えない」事に流石にとことん落ち込みました。
ただ、「歪みは可能性」と思い、昨日、何とか気を取り直しました。
そんな中、ふと、今まで表現出来かねた事に気付きました。
人は常に「全く相反する双方向性を持ちながら、一体性があり、釣り合い、調和する存在」と言えるのではないか?と思ったのです。
例えば、その内的な動きを称して「陰陽」であるとか、その構成要素を「重力・浮
力」等と称する訳ですが、これらは、短絡的に、「コインの裏表」の様に一方がその存在を表す時にもう一方が隠れてしまう、あるいは犠牲になってしまう様な関係ではありません。
現に、我々は天体の相対性の影響を受けており、重力(引力)で地球に押さえられていると同時に、地球の自転により宇宙へ「投げ出されている」訳です。
仮に、その変化や循環のバランスが「コインの裏表」の様に変化し「五分五分に変化しない」とすると・・・どの様な事になるか容易にご想像頂けるかと思います。
但し、この辺の事柄は余りに身近過ぎて逆に実感し難く、私は、ついつい自分やそれを取り巻く状況を「コインの裏表」に思い、それを元に行動し、道を誤ります。
多分、我が身の心身の歪みや愁訴はこう言う事の延長なのだと感じています。自分自身の「本来性」と「相対性」の認識に「バグ」がある訳です。
更に、バグをする「考え方や感じ方」が変わらない以上、同じ路線で物事を検証しますから、一向に状況も見えませんし、変わりません。
総じて「私の知覚の仕方が私の心身を作り上げて来た」結果と言えましょう。
では、今後、私はどう歩めば良いのだろうか?・・・「これから私の知覚の仕方が私
の心身を作り上げて行く」のだからそれはどう言う姿勢か?・・・つらつら思い、要は、「五分五分の変化」をするには「常に双方が生かされる」必要があると気付きました。
従って、例え、どんなにある側面が成長や発達過程にあるとは言え、それに伴うものが「不自由」や「苦しみ」を伴うものであればそれは「強制(矯正)」であって「調和(協調)」ではないと気付いたのです。
操体法の橋本先生の「気持ち良い方向に動く」とはそう言う事だったのだなと思いました。
そう考えますと、「センタリング呼吸法的武道表現」も全く変わってきます。要は「相手を制する・殺す」発想ではありないのです。
例えば、相手が自分の手首を押さえて来た時、一般的発想で相手を「崩し」たり
「スポイル」せず、逆に「自分を保ちつつ、相手も保たせてあげる」・・・そうすると相手と自分は「五分五部の関係」になります。
「後出しじゃんけん」で相手の出方に従い、自分が相手を保たせてあげている訳ですから、この「一体性バランス」のイニシアティブを取っているのはこちらで、相手としては自分の身体や意識のはずなのに、その保持をこちらの「意識や身体」に支えられているので心身をコントロール出来なくなるのです。
だから、こちらは「バランスを変化させている」だけで「投げていない」し、相手も転んだ所で「心身のバランスを崩された訳でない」ので、思わず「笑ってしまう」精神状況になれるのだと思います。
だから、上手い人は相手を投げずに「ゆっくり降ろして上げれる」のでしょう。
その原理を利用し、相手の「心身のバランスを回復」させて上げると「治療やカウンセリング」になり、相手と一緒にバランスを取りながら何かを表現すると「ダンス」、自らの呼吸を用い、「心身を生かすセンタリングバランス」を自己調整する「センタリング呼吸法」となるのでは?と思います。
等々・・・応用は「無限」ではないでしょうか?
と言う事で、「不貞寝」をしていられなくなったので、「不貞寝抄」としては最終回とさせて頂きます。
今後、どの様な形の題で再開するかは不明です。寧ろ、今まで投稿された事の無い方々からの投稿を切に希望致します。
私の個人的、反省の原稿にお付き合い頂きありがとうございました。
先週末土曜日もK野さんに身体の歪みを施術して頂いたのですが・・・「センタリング呼吸法」を学びながらも「歪体のモデル」(正体でなく)にしかなれず、自分は自らの何も「観えない」事に流石にとことん落ち込みました。
ただ、「歪みは可能性」と思い、昨日、何とか気を取り直しました。
そんな中、ふと、今まで表現出来かねた事に気付きました。
人は常に「全く相反する双方向性を持ちながら、一体性があり、釣り合い、調和する存在」と言えるのではないか?と思ったのです。
例えば、その内的な動きを称して「陰陽」であるとか、その構成要素を「重力・浮
力」等と称する訳ですが、これらは、短絡的に、「コインの裏表」の様に一方がその存在を表す時にもう一方が隠れてしまう、あるいは犠牲になってしまう様な関係ではありません。
現に、我々は天体の相対性の影響を受けており、重力(引力)で地球に押さえられていると同時に、地球の自転により宇宙へ「投げ出されている」訳です。
仮に、その変化や循環のバランスが「コインの裏表」の様に変化し「五分五分に変化しない」とすると・・・どの様な事になるか容易にご想像頂けるかと思います。
但し、この辺の事柄は余りに身近過ぎて逆に実感し難く、私は、ついつい自分やそれを取り巻く状況を「コインの裏表」に思い、それを元に行動し、道を誤ります。
多分、我が身の心身の歪みや愁訴はこう言う事の延長なのだと感じています。自分自身の「本来性」と「相対性」の認識に「バグ」がある訳です。
更に、バグをする「考え方や感じ方」が変わらない以上、同じ路線で物事を検証しますから、一向に状況も見えませんし、変わりません。
総じて「私の知覚の仕方が私の心身を作り上げて来た」結果と言えましょう。
では、今後、私はどう歩めば良いのだろうか?・・・「これから私の知覚の仕方が私
の心身を作り上げて行く」のだからそれはどう言う姿勢か?・・・つらつら思い、要は、「五分五分の変化」をするには「常に双方が生かされる」必要があると気付きました。
従って、例え、どんなにある側面が成長や発達過程にあるとは言え、それに伴うものが「不自由」や「苦しみ」を伴うものであればそれは「強制(矯正)」であって「調和(協調)」ではないと気付いたのです。
操体法の橋本先生の「気持ち良い方向に動く」とはそう言う事だったのだなと思いました。
そう考えますと、「センタリング呼吸法的武道表現」も全く変わってきます。要は「相手を制する・殺す」発想ではありないのです。
例えば、相手が自分の手首を押さえて来た時、一般的発想で相手を「崩し」たり
「スポイル」せず、逆に「自分を保ちつつ、相手も保たせてあげる」・・・そうすると相手と自分は「五分五部の関係」になります。
「後出しじゃんけん」で相手の出方に従い、自分が相手を保たせてあげている訳ですから、この「一体性バランス」のイニシアティブを取っているのはこちらで、相手としては自分の身体や意識のはずなのに、その保持をこちらの「意識や身体」に支えられているので心身をコントロール出来なくなるのです。
だから、こちらは「バランスを変化させている」だけで「投げていない」し、相手も転んだ所で「心身のバランスを崩された訳でない」ので、思わず「笑ってしまう」精神状況になれるのだと思います。
だから、上手い人は相手を投げずに「ゆっくり降ろして上げれる」のでしょう。
その原理を利用し、相手の「心身のバランスを回復」させて上げると「治療やカウンセリング」になり、相手と一緒にバランスを取りながら何かを表現すると「ダンス」、自らの呼吸を用い、「心身を生かすセンタリングバランス」を自己調整する「センタリング呼吸法」となるのでは?と思います。
等々・・・応用は「無限」ではないでしょうか?
と言う事で、「不貞寝」をしていられなくなったので、「不貞寝抄」としては最終回とさせて頂きます。
今後、どの様な形の題で再開するかは不明です。寧ろ、今まで投稿された事の無い方々からの投稿を切に希望致します。
私の個人的、反省の原稿にお付き合い頂きありがとうございました。
by centeringkokyu
| 2005-07-27 20:35
| ネコ殿