2005年 07月 21日
S多さんの資料の感想文 |
I川さんからの投稿をご紹介します。
S多さんの文章、拝見しました。あらためて見ると膨大な量ですが、大変興味深く、一気に読むことができました。
K野さんはいつも、合気の定義は人それぞれ違っていて当然である、と言っておられます。私は今回の2つの資料を、『S多さんが、自分にとって「合気」とは何かを模索し気付いていく、過程と成長の記録』として位置づけてみました。この資料は、K野さん本人も忘れてしまっているような、技術的な経過を記録する資料として大変貴重なだけでなく、一人の人間の試行錯誤と成長の記録としても大変興味深いものだと思います。自分なりの「合気」とは何かを模索する全ての人にとって、いろんな面で参考になるのは間違いないと思います。
さて、2つの資料の感想を書こうと思ったのですが、内容が膨大すぎて、私などにはとてもまとめきれません。そこで「私にとって合気とは何か」ということから考えてみることにしました。
こうして合気についてあらためて考えてみると、自分が合気について、あまりにも漠然とした考えしか持っていなかったことに気付き、愕然としてしまいます。それどころか合気ということを意識したことさえ、今までほとんどありませんでした。これではどうしようもないので、彫刻のように「合気らしきもの」を彫りだしていく作業からはじめようと思います。
まず、私は合気を技術だとは考えていません。少なくとも合気という特別な技術で相手を倒すものだとは、捉えていません。なので「合気を身につける」という発想は、私にはないようです。また、結果として相手が倒れることは当たり前のことであり、そこにはなんらの特別な技術も要素も介在していないと考えています。
私は、観照塾は自分の身体のことをよりよく知るために稽古する、気付きの場だと思っています。自分の身体の可能性を劈(ひら)くことで、今までと違う新しい動きに気付く、あるいは今までの自分の動きを反省し、精度を高めるためのきっかけを得ることができる場所だと思っています。
あら、これはそのまま合気の定義に使えるかな。「己の身体の可能性を劈(ひら)き、今までと違う新しい身体の使い方に気付くための営みを合気という」。なんか、いかにもそれっぽくて、かっこいいですね。
それはともかく、呼吸について。呼吸は、呼吸だけしていても意味がありません。呼吸に連動して起こる一連の身体の動き。その微小な変化に注目し、観察することではじめて意味をもってきます。体操やその他の練習方法は、呼吸に連動して起こる身体の変化に気付きやすくするためにあると言っても、過言ではないと考えています。ヘタレとか仙骨・後頭骨の連動等は、呼吸に伴って自然にそういう風になるのが本当だと思います。最初はその連動を意識することは必要だと思いますが、そのうちそれが当たり前になり、意識する必要もなくなってくる。そんなもんだと思っています。
言葉で表現することについて。言葉で表現した瞬間、イメージは変容し、発信者から離れて一人歩きします。身体は言葉よりも雄弁です。感じ取る力のない人ほど、言葉に頼る傾向が強いように思います。合気における言葉の役割は、新しい発見ではなくて、追体験だと思います。自分の中にある言葉にならない感覚が、ある言葉に触れることによって「そう、それ」となる。だから、K野さんがよく言われるように、わかる人には「ね」だけで通じるのです。
そんな気持ちで資料を読み返していたら「061野口体操からだに貞く」というのがありました。少しだけ引用してみます。
『自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる』
『私は、人間にとって、努力することのできる能力よりも「興味をもつことのできる能力」が大切だと考えている』
『イメージはコトバにこだわった時には死んでしまう。他人のイメージをコトバで表現したものにこだわらないで、自分に適切なイメージが、自分の中から生まれてくるのを待った方がよいと思う』まさにその通りだと思います。やっぱり野口三千三さんはすごいなあ。
ところで、理論をつくることと、仮説をたてることは、まったく別物だと考えます。理論をつくることは「答え」を求めることであり、仮説をたてることは「気付き」を求めることのような気がします。もっとも、私はもともと、理論的に考えるのはあまり得意ではないので、そこらへんのことはよくわかってないのですが。
さて、何事にも総論と各論があります。合気の場合で言うと、総論は「合気とは何か」であり、各論は様々な練習方法だと思います。当たり前のことですが、各論の集合体=総論ではありません。総論はつねに各論の集まり以上の何かを含んでいます。練習方法をいくら集めてみても、まったく意味はありません。それよりも1つの動きの中からどれだけのことに気付くことができるかの方がはるかに大切です。だから十分に深い気付きを得られるのであれば、野口先生がおっしゃるように「たった一つの動き」でも良いのです。
今回のS多さんの資料は一見、各論の百科事典のように見えますが、それぞれの項目に総論の断片が含まれているので、全体としてみると、総論(=S多さんにとっての合気とは何か)が浮かび上がってくるようになっています。さすがだなあって、正直、感動しました。
こうして考えてみると、合気にとって「実感」と「気付き」が決定的に重要なようです。しかし、ここに落とし穴があります。それは自分が「気付いた」「合気がわかった」と思った瞬間に、成長が止まってしまうということです。気付いたことを意識化し、言語化することで、それが先入観になって以後の気付きの邪魔をするというのは、とても皮肉なことです。この落とし穴に落ちないための唯一の方法は、気付いた瞬間にそれを忘れることのような気がします。
ここで見逃してはならないのは、K野さんはつねに変わり続けているということ。変わらないけど変わり続けている。そのことを忘れると、この落とし穴に落ちてしまいます。
長くなったので、そろそろまとめ。キーワードは「実感」と「気付き」と「感覚・印象の変化」。つねに変化していく自分の身体感覚が合気そのもののような気がします。または「動けば技になる」ような自然な身体の動き。それが合気なのかもしれません。結論。「う〜ん、よくわからん」。
※管理人です
S多さんの寄稿を配付資料にするにあたり、I川さんに無理を言って感想文を書いて頂きました。非常に感謝しています。
皆さんも是非感想を書いて、投稿して頂きたいと思います。
S多さんの文章、拝見しました。あらためて見ると膨大な量ですが、大変興味深く、一気に読むことができました。
K野さんはいつも、合気の定義は人それぞれ違っていて当然である、と言っておられます。私は今回の2つの資料を、『S多さんが、自分にとって「合気」とは何かを模索し気付いていく、過程と成長の記録』として位置づけてみました。この資料は、K野さん本人も忘れてしまっているような、技術的な経過を記録する資料として大変貴重なだけでなく、一人の人間の試行錯誤と成長の記録としても大変興味深いものだと思います。自分なりの「合気」とは何かを模索する全ての人にとって、いろんな面で参考になるのは間違いないと思います。
さて、2つの資料の感想を書こうと思ったのですが、内容が膨大すぎて、私などにはとてもまとめきれません。そこで「私にとって合気とは何か」ということから考えてみることにしました。
こうして合気についてあらためて考えてみると、自分が合気について、あまりにも漠然とした考えしか持っていなかったことに気付き、愕然としてしまいます。それどころか合気ということを意識したことさえ、今までほとんどありませんでした。これではどうしようもないので、彫刻のように「合気らしきもの」を彫りだしていく作業からはじめようと思います。
まず、私は合気を技術だとは考えていません。少なくとも合気という特別な技術で相手を倒すものだとは、捉えていません。なので「合気を身につける」という発想は、私にはないようです。また、結果として相手が倒れることは当たり前のことであり、そこにはなんらの特別な技術も要素も介在していないと考えています。
私は、観照塾は自分の身体のことをよりよく知るために稽古する、気付きの場だと思っています。自分の身体の可能性を劈(ひら)くことで、今までと違う新しい動きに気付く、あるいは今までの自分の動きを反省し、精度を高めるためのきっかけを得ることができる場所だと思っています。
あら、これはそのまま合気の定義に使えるかな。「己の身体の可能性を劈(ひら)き、今までと違う新しい身体の使い方に気付くための営みを合気という」。なんか、いかにもそれっぽくて、かっこいいですね。
それはともかく、呼吸について。呼吸は、呼吸だけしていても意味がありません。呼吸に連動して起こる一連の身体の動き。その微小な変化に注目し、観察することではじめて意味をもってきます。体操やその他の練習方法は、呼吸に連動して起こる身体の変化に気付きやすくするためにあると言っても、過言ではないと考えています。ヘタレとか仙骨・後頭骨の連動等は、呼吸に伴って自然にそういう風になるのが本当だと思います。最初はその連動を意識することは必要だと思いますが、そのうちそれが当たり前になり、意識する必要もなくなってくる。そんなもんだと思っています。
言葉で表現することについて。言葉で表現した瞬間、イメージは変容し、発信者から離れて一人歩きします。身体は言葉よりも雄弁です。感じ取る力のない人ほど、言葉に頼る傾向が強いように思います。合気における言葉の役割は、新しい発見ではなくて、追体験だと思います。自分の中にある言葉にならない感覚が、ある言葉に触れることによって「そう、それ」となる。だから、K野さんがよく言われるように、わかる人には「ね」だけで通じるのです。
そんな気持ちで資料を読み返していたら「061野口体操からだに貞く」というのがありました。少しだけ引用してみます。
『自然の神(原理)を無視し逆らったあり方は、自然の存在である人間にとってよいはずはなく、やがて無理の限界にきた時に、必ず挫折が訪れることになる』
『私は、人間にとって、努力することのできる能力よりも「興味をもつことのできる能力」が大切だと考えている』
『イメージはコトバにこだわった時には死んでしまう。他人のイメージをコトバで表現したものにこだわらないで、自分に適切なイメージが、自分の中から生まれてくるのを待った方がよいと思う』まさにその通りだと思います。やっぱり野口三千三さんはすごいなあ。
ところで、理論をつくることと、仮説をたてることは、まったく別物だと考えます。理論をつくることは「答え」を求めることであり、仮説をたてることは「気付き」を求めることのような気がします。もっとも、私はもともと、理論的に考えるのはあまり得意ではないので、そこらへんのことはよくわかってないのですが。
さて、何事にも総論と各論があります。合気の場合で言うと、総論は「合気とは何か」であり、各論は様々な練習方法だと思います。当たり前のことですが、各論の集合体=総論ではありません。総論はつねに各論の集まり以上の何かを含んでいます。練習方法をいくら集めてみても、まったく意味はありません。それよりも1つの動きの中からどれだけのことに気付くことができるかの方がはるかに大切です。だから十分に深い気付きを得られるのであれば、野口先生がおっしゃるように「たった一つの動き」でも良いのです。
今回のS多さんの資料は一見、各論の百科事典のように見えますが、それぞれの項目に総論の断片が含まれているので、全体としてみると、総論(=S多さんにとっての合気とは何か)が浮かび上がってくるようになっています。さすがだなあって、正直、感動しました。
こうして考えてみると、合気にとって「実感」と「気付き」が決定的に重要なようです。しかし、ここに落とし穴があります。それは自分が「気付いた」「合気がわかった」と思った瞬間に、成長が止まってしまうということです。気付いたことを意識化し、言語化することで、それが先入観になって以後の気付きの邪魔をするというのは、とても皮肉なことです。この落とし穴に落ちないための唯一の方法は、気付いた瞬間にそれを忘れることのような気がします。
ここで見逃してはならないのは、K野さんはつねに変わり続けているということ。変わらないけど変わり続けている。そのことを忘れると、この落とし穴に落ちてしまいます。
長くなったので、そろそろまとめ。キーワードは「実感」と「気付き」と「感覚・印象の変化」。つねに変化していく自分の身体感覚が合気そのもののような気がします。または「動けば技になる」ような自然な身体の動き。それが合気なのかもしれません。結論。「う〜ん、よくわからん」。
※管理人です
S多さんの寄稿を配付資料にするにあたり、I川さんに無理を言って感想文を書いて頂きました。非常に感謝しています。
皆さんも是非感想を書いて、投稿して頂きたいと思います。
by centeringkokyu
| 2005-07-21 20:42
| S多関連