2014年 03月 20日
馴染んでいくような変容 |
▼TMさんからのメール
今日は、ありがとうございました。
私的には、バルーンにいっぱい入ったエネルギーを、抜く事なく、なじませる技が、とても勉強になりました。
あと、49%負けても、51%で勝てばいい…と言うお話しも、納得します。
本当にありがとうございました。
4回目は、それまでの施術の後の体感とは、違うんです。
身体が楽になった…という感じは、それまでの3回程はなく、時間が経過する中で、身体が消化して、馴染んでいくような不思議な変容があるんです…。
そして、感覚が目覚めます。
臭いであったり、肌の感触であったり、エネルギーの感度であったり。
本当に不思議ですね。
ますます、興味が湧きます。
これからもよろしくお願いいたします。
☆リンク先で更新された記事
◆3/16東雲館稽古
世話役です。
いつも元気に通って頂いて、参加者の皆様には感謝しています。
今回は、歩法をするときに、帯に朴木のすり棒を短刀のように差して頂きました。
腹の極りと、鼠径部の感覚に違いが出るのを感じて頂けたかなと思います。
参照1:経絡体操
やりにくい姿勢やスジのツレ、筋肉のコワバリ、不愉快な症状、身体の重い感じなどというのは、東洋医学では「実」といいます。実とはり(ウカンムリ)の家の中に、貫(もの)がいっぱいつまっている、という意味で、このため重く動きが悪いのです。実は瀉すといって、これを写(うつす)→移すことが必要なのです。どうすれば、その実が移って、気の流れがよくなるかといえば「気を変える」ことなのです。よく「気分を変えて」というように全く違った方向に気をもっていくと、気のつまり、こだわりがとれやすいのですが、つい私達は症状のあるところ、気になるところにとらわれて、そこにこだわりやすいのです。気にするな、といわれればいわれるほど、つい意識がそこにいってしまうわけです。「できなければムリしなくてもよい」といわれても、「できないものをそのままにしておくと、気がかりで、落着けない」のが人情です。(中略)
意識しない、とは意識のない所へ気をもっていくことです。そのない所を「実」に対して「虚」というのです。虚とは見えないもので、手にとれないものです。そこに気がないから、気が移っていけるわけです。どうも最近の東洋医学では、虚実補瀉ということを口にしながら、この虚が本当にわかっていないようです。虚を補う、ところに東洋医学の本質があり、その効果の神秘さもここから生まれます。これは実地に、自分でつかんでみないと、これが虚だ、と言葉で教えることができにくいのですが、一応その概略をのべておきます。
参照2:砂時計の動きをつなげる
兵法の身なりの事
【訳】体のかまえは、顔はうつむかず、あおむかず、曲げず、目をきょろきょろさせず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさぬよう、またたきをしない気持で、目をややすぼめるようにする。
おだやかな顔つきで鼻すじはまっすぐに、やや、おとがいを出すつもり、くびはうしろの筋をまっすぐ保ち、うなじに力を入れ、肩から全身には力の入れ方を同じようにする。双方の肩を下げ、背筋はまっすぐに、尻を出さず、ひざから足先までに力を入れ、腰がかがまぬように腹をはる。
くさびをしめるといって、脇差のさやに腹をくっつけ、帯がゆるまぬようにせよといわれている。すべて武芸にあっては、平常の際の体のもち方を戦闘の際のようにし、戦闘の場合にも平常と同じ体のもち方でたたかうことが大切である。よくよく検討せねばならぬ。
今日は、ありがとうございました。
私的には、バルーンにいっぱい入ったエネルギーを、抜く事なく、なじませる技が、とても勉強になりました。
あと、49%負けても、51%で勝てばいい…と言うお話しも、納得します。
本当にありがとうございました。
4回目は、それまでの施術の後の体感とは、違うんです。
身体が楽になった…という感じは、それまでの3回程はなく、時間が経過する中で、身体が消化して、馴染んでいくような不思議な変容があるんです…。
そして、感覚が目覚めます。
臭いであったり、肌の感触であったり、エネルギーの感度であったり。
本当に不思議ですね。
ますます、興味が湧きます。
これからもよろしくお願いいたします。
☆リンク先で更新された記事
◆3/16東雲館稽古
世話役です。
いつも元気に通って頂いて、参加者の皆様には感謝しています。
今回は、歩法をするときに、帯に朴木のすり棒を短刀のように差して頂きました。
腹の極りと、鼠径部の感覚に違いが出るのを感じて頂けたかなと思います。
参照1:経絡体操
やりにくい姿勢やスジのツレ、筋肉のコワバリ、不愉快な症状、身体の重い感じなどというのは、東洋医学では「実」といいます。実とはり(ウカンムリ)の家の中に、貫(もの)がいっぱいつまっている、という意味で、このため重く動きが悪いのです。実は瀉すといって、これを写(うつす)→移すことが必要なのです。どうすれば、その実が移って、気の流れがよくなるかといえば「気を変える」ことなのです。よく「気分を変えて」というように全く違った方向に気をもっていくと、気のつまり、こだわりがとれやすいのですが、つい私達は症状のあるところ、気になるところにとらわれて、そこにこだわりやすいのです。気にするな、といわれればいわれるほど、つい意識がそこにいってしまうわけです。「できなければムリしなくてもよい」といわれても、「できないものをそのままにしておくと、気がかりで、落着けない」のが人情です。(中略)
意識しない、とは意識のない所へ気をもっていくことです。そのない所を「実」に対して「虚」というのです。虚とは見えないもので、手にとれないものです。そこに気がないから、気が移っていけるわけです。どうも最近の東洋医学では、虚実補瀉ということを口にしながら、この虚が本当にわかっていないようです。虚を補う、ところに東洋医学の本質があり、その効果の神秘さもここから生まれます。これは実地に、自分でつかんでみないと、これが虚だ、と言葉で教えることができにくいのですが、一応その概略をのべておきます。
参照2:砂時計の動きをつなげる
兵法の身なりの事
【訳】体のかまえは、顔はうつむかず、あおむかず、曲げず、目をきょろきょろさせず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさぬよう、またたきをしない気持で、目をややすぼめるようにする。
おだやかな顔つきで鼻すじはまっすぐに、やや、おとがいを出すつもり、くびはうしろの筋をまっすぐ保ち、うなじに力を入れ、肩から全身には力の入れ方を同じようにする。双方の肩を下げ、背筋はまっすぐに、尻を出さず、ひざから足先までに力を入れ、腰がかがまぬように腹をはる。
くさびをしめるといって、脇差のさやに腹をくっつけ、帯がゆるまぬようにせよといわれている。すべて武芸にあっては、平常の際の体のもち方を戦闘の際のようにし、戦闘の場合にも平常と同じ体のもち方でたたかうことが大切である。よくよく検討せねばならぬ。
by centeringkokyu
| 2014-03-20 00:18
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