2005年 06月 14日
水 |
甲野善紀氏の著作から、願立剣術物語の中で主に「水」に関する記述を纏めてご紹介します。
願立剣術物語
1. 此の伝は 流るる水の如く 少しの時も止むことなき剣術ぞ。たとえば 光陰の移り行くが如く、草の萌え出るが如く 須臾(しゅゆ)も止まることなし。敵ひしと打つに合わんとする手留まる気なり。また留まるまじきと思うも 其に心留まるなり。ただほろほろと玉の形也と云えり。
2. 心は満々たる水の如く、水もと動かず心もと動かず、縁に随いてひききえ、水の行く形也。たとえば敵は水を防ぐ楯也。この楯に少しも穴あれば水ひとり洩れ入るぞ。敵の構えに穴なければ、水は満々として行き渡らん処もなく湛えたる也。此の水を敵かき退きかき退かんとすれども、湛えたる水なれば、去れども水押し退かんとすれども水の如く也。
3. 伝と云うは別の儀にあらず。我総体の病 筋骨の滞り 曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き 思うところを絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となるなり。他人の病をよく知り、なずむところ恐るところを我が身の如くあらわし、師その病を改める事。師も本此の病を愁い我にあるところをもって人を直し申す儀。
7. 五体は天地の釣り物也。片つりになきように心得べし。頭の俯くも一物仰ぐも一物腰をひねり腹を出し、肩を指し足をつかい、或いは大股に行き或いは踏ん張る。是皆片つり也。物に取りつき其止まる所に閉じられ氷となり、水の自由なる理を知らず。水の自由を知らんとならば 先五体の病を去り、そのままの身の規矩(かね)を定め、それを本の定木(定規?)として手の上げ下げ身の内滞りなく、左右前後の道をよく骨肉に覚え知るべし。火の熱きを身にふれ、耳味(滋味?)を口にいれて知る如く也。理にかかわらず、詞に述べず、唯一向に教えの道に入らば理は跡より来るぞ。
11. 身の備え、太刀構えは器物に水を入れ敬って持つ心持ち也。
40. 迷たる眼をたのみ、敵の打を見てそれに合わんと計るは雲に印の如く也。稽古の道をよく尽くし、かゆきに手の及ぶ如く五体流通して心と身と眼と等しく離れず自由なれば、覚えず知らず自然の勝ちあるべし。其時に随うて敵の像を積もりよき程と俄に計る事愚の至極なり。
42. 手の内身構え敵に合うなどよき程と心に思うは皆非なり。吉もなし。悪もなし。我が心に落ち、理に落ち、合点に及ぶは本理と言う物にてはなし。私の理なるべし。古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝ちは在て知るべからず。」
50. 動きの討ちと云う事 真の討ちと云う事有り。総身手の内 縮或いはたるみ、或いは強み或いは弱く打つは 皆動きの討ち也。其動きの処へ そのまま水を流しかくる程に 押し砕かずと云う事なし。真の討ちと云うは たるみも縮みもなく 地よりはえ通りたる如くなる物を そのまま打つ程に 敵押し留めんとすれども 水の洩れるが如し。また静かにさわらんとすれども、灯火の先を にぎらんとする如く也。
51. 四方に心を置くと云う事、魚を取る大網を引き回すごとし。ここも網 かしこも網なり。網は兵法の道なり。心物に一杯の事ぞ。この網を 早く引き回すは 水浪立て魚かからざるなり。魚は敵なり。ある程の魚 少しも残らず 皆引き込み取るなり。軍の帚(ほうき)とも云うべし。悪を破り、善をすくう心ぞ。もっとも正直を諍(あらそう)の故なり。
52. 身の科(とが)は大も小も身を破る事は一なり。身の内 少しもたるみなく 一杯に性の続きたるを 生き物と云うぞ。少しにてもたるみ有りて、継ぎ目の科有るは死身と云う也。其死身の少なきより敵水流入りて総てのよき処まで皆打ち敗るる也。たとえば弓鉄砲などにも 少しの疵あれば 其より裂け入りて 残りのよき処まで役に立たざるが如し。
59. そのままの道と云うは天性そのままの身也。敵と面向の時 不動不変にして 敵そのまま討つ事 飛び火の来る如く、其の飛び火の来る内に像を転じ、心を及ぼす事は神妙も及ばず。敵そのまま討つ時 我そのままにして当たらぬを一の道と言う。此の一の道を あくまでも続けたる物ぞ。敵よりまた二と変じて討つは敵の変動なり。其の変動の処へは 我そのままの道を行くは、ひききえ水のさくるが如し。敵また過半延び上がり過半下て討つは敵の角外の動き也。その動きを取りひしぐ事なお以て自由自在なり。
配付資料018・019・043などもご一読ください。
そして、『自分自身を隅々まで自覚することで、外の対象も自分の中を見る如くに感じる事ができ、その結果、こうと思った時には、同時に所作が完了するという、神速の動きが生まれるというのである。ここに至り、運動には腕力・脚力といった物理的な力は、求められなくなり、いかに鮮明な思いを描けるかという、心理的な力を問われることになる。このような心的描写力がどこまでも細かく、遠くまで及ぶ状態を指して「神力徹眼心」と呼んだのではないだろうか。』という考え方も可能であることを覚えておいて頂きたいと思います。
そうすると、何故流派名を、「無双巌流」ではなく「夢想願立」という名称にしたかを想像して楽しんで頂けるのではないでしょうか。
さて、このブログも、皆さんのご協力のお陰で135回も続けることができました。ほぼ5ヶ月で、私が過去10年間に気付いたことの殆ど全てを紹介することが出来ました。そして、自分の考えている事が、蚊取り線香のようにグルグル回っているのを再確認しました。
「合気ってなに?」「治るってどう?」「右翼と左翼はどう違う?」などという素朴な疑問に、とりあえずの纏めが出来たように思っています。特に、この3年間は、発想が自由になりましたので、本当に楽しく稽古が出来ました。しかし、戸惑われた方々には、心からお詫び申し上げます。
これ以上は、何を書いても蚊取り線香状態になりますし、あまり文章が増えすぎても収拾がつかなくなりますので、私自身が定期的に紹介するのは、このあたりで一応お終いに致します。必要な項目は、各自で保存しておいて参考にして頂ければ幸いです。ただ、携帯電話から閲覧できるミラーサイトをM井さんが作って下さいましたので、安心しています。
これからは、皆さんの投稿やメールなどを掲載して、ぼちぼち更新することに致しますので、宜しくお願い致します。
願立剣術物語
1. 此の伝は 流るる水の如く 少しの時も止むことなき剣術ぞ。たとえば 光陰の移り行くが如く、草の萌え出るが如く 須臾(しゅゆ)も止まることなし。敵ひしと打つに合わんとする手留まる気なり。また留まるまじきと思うも 其に心留まるなり。ただほろほろと玉の形也と云えり。
2. 心は満々たる水の如く、水もと動かず心もと動かず、縁に随いてひききえ、水の行く形也。たとえば敵は水を防ぐ楯也。この楯に少しも穴あれば水ひとり洩れ入るぞ。敵の構えに穴なければ、水は満々として行き渡らん処もなく湛えたる也。此の水を敵かき退きかき退かんとすれども、湛えたる水なれば、去れども水押し退かんとすれども水の如く也。
3. 伝と云うは別の儀にあらず。我総体の病 筋骨の滞り 曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き 思うところを絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となるなり。他人の病をよく知り、なずむところ恐るところを我が身の如くあらわし、師その病を改める事。師も本此の病を愁い我にあるところをもって人を直し申す儀。
7. 五体は天地の釣り物也。片つりになきように心得べし。頭の俯くも一物仰ぐも一物腰をひねり腹を出し、肩を指し足をつかい、或いは大股に行き或いは踏ん張る。是皆片つり也。物に取りつき其止まる所に閉じられ氷となり、水の自由なる理を知らず。水の自由を知らんとならば 先五体の病を去り、そのままの身の規矩(かね)を定め、それを本の定木(定規?)として手の上げ下げ身の内滞りなく、左右前後の道をよく骨肉に覚え知るべし。火の熱きを身にふれ、耳味(滋味?)を口にいれて知る如く也。理にかかわらず、詞に述べず、唯一向に教えの道に入らば理は跡より来るぞ。
11. 身の備え、太刀構えは器物に水を入れ敬って持つ心持ち也。
40. 迷たる眼をたのみ、敵の打を見てそれに合わんと計るは雲に印の如く也。稽古の道をよく尽くし、かゆきに手の及ぶ如く五体流通して心と身と眼と等しく離れず自由なれば、覚えず知らず自然の勝ちあるべし。其時に随うて敵の像を積もりよき程と俄に計る事愚の至極なり。
42. 手の内身構え敵に合うなどよき程と心に思うは皆非なり。吉もなし。悪もなし。我が心に落ち、理に落ち、合点に及ぶは本理と言う物にてはなし。私の理なるべし。古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝ちは在て知るべからず。」
50. 動きの討ちと云う事 真の討ちと云う事有り。総身手の内 縮或いはたるみ、或いは強み或いは弱く打つは 皆動きの討ち也。其動きの処へ そのまま水を流しかくる程に 押し砕かずと云う事なし。真の討ちと云うは たるみも縮みもなく 地よりはえ通りたる如くなる物を そのまま打つ程に 敵押し留めんとすれども 水の洩れるが如し。また静かにさわらんとすれども、灯火の先を にぎらんとする如く也。
51. 四方に心を置くと云う事、魚を取る大網を引き回すごとし。ここも網 かしこも網なり。網は兵法の道なり。心物に一杯の事ぞ。この網を 早く引き回すは 水浪立て魚かからざるなり。魚は敵なり。ある程の魚 少しも残らず 皆引き込み取るなり。軍の帚(ほうき)とも云うべし。悪を破り、善をすくう心ぞ。もっとも正直を諍(あらそう)の故なり。
52. 身の科(とが)は大も小も身を破る事は一なり。身の内 少しもたるみなく 一杯に性の続きたるを 生き物と云うぞ。少しにてもたるみ有りて、継ぎ目の科有るは死身と云う也。其死身の少なきより敵水流入りて総てのよき処まで皆打ち敗るる也。たとえば弓鉄砲などにも 少しの疵あれば 其より裂け入りて 残りのよき処まで役に立たざるが如し。
59. そのままの道と云うは天性そのままの身也。敵と面向の時 不動不変にして 敵そのまま討つ事 飛び火の来る如く、其の飛び火の来る内に像を転じ、心を及ぼす事は神妙も及ばず。敵そのまま討つ時 我そのままにして当たらぬを一の道と言う。此の一の道を あくまでも続けたる物ぞ。敵よりまた二と変じて討つは敵の変動なり。其の変動の処へは 我そのままの道を行くは、ひききえ水のさくるが如し。敵また過半延び上がり過半下て討つは敵の角外の動き也。その動きを取りひしぐ事なお以て自由自在なり。
配付資料018・019・043などもご一読ください。
そして、『自分自身を隅々まで自覚することで、外の対象も自分の中を見る如くに感じる事ができ、その結果、こうと思った時には、同時に所作が完了するという、神速の動きが生まれるというのである。ここに至り、運動には腕力・脚力といった物理的な力は、求められなくなり、いかに鮮明な思いを描けるかという、心理的な力を問われることになる。このような心的描写力がどこまでも細かく、遠くまで及ぶ状態を指して「神力徹眼心」と呼んだのではないだろうか。』という考え方も可能であることを覚えておいて頂きたいと思います。
そうすると、何故流派名を、「無双巌流」ではなく「夢想願立」という名称にしたかを想像して楽しんで頂けるのではないでしょうか。
さて、このブログも、皆さんのご協力のお陰で135回も続けることができました。ほぼ5ヶ月で、私が過去10年間に気付いたことの殆ど全てを紹介することが出来ました。そして、自分の考えている事が、蚊取り線香のようにグルグル回っているのを再確認しました。
「合気ってなに?」「治るってどう?」「右翼と左翼はどう違う?」などという素朴な疑問に、とりあえずの纏めが出来たように思っています。特に、この3年間は、発想が自由になりましたので、本当に楽しく稽古が出来ました。しかし、戸惑われた方々には、心からお詫び申し上げます。
これ以上は、何を書いても蚊取り線香状態になりますし、あまり文章が増えすぎても収拾がつかなくなりますので、私自身が定期的に紹介するのは、このあたりで一応お終いに致します。必要な項目は、各自で保存しておいて参考にして頂ければ幸いです。ただ、携帯電話から閲覧できるミラーサイトをM井さんが作って下さいましたので、安心しています。
これからは、皆さんの投稿やメールなどを掲載して、ぼちぼち更新することに致しますので、宜しくお願い致します。
by centeringkokyu
| 2005-06-14 21:36
| 合気観照塾