2012年 03月 11日
「自分にも責任がある」という自覚 |
「心療内科を訪ねて――心が痛み、心が治す」夏樹静子著からご紹介します。
▼症例の数だけ人生がある
簡単にいえば「心の問題で起きる身体の病の総称」とされる心身症は、その現われ方が実に多様である。ここではとくに症例の多い、いわば代表的な心身症を主に取り上げさせていただいた。
一方、100パーセント心因性ではなく、身体的要因が関与している症例も少なくない。その中では、身体的治療と並行して、心身医学的治療を行なうことによって、治癒への効果が目に見えて高まったケースを選んだ。
さらに、よく知られた病気や難病指定の重大な疾患であっても、心身医学の治療によって大きく改善したケースなどを紹介した。
それにしても、さまざまな心身症の中で、どういう人にどんな症状が発生しやすいのであろう?
「なぜ私は胃潰瘍でなくて腰痛になったのですか」と、私は主治医に尋ねたものだった。
「胃潰瘍だったらもっと素直に心因性を認めたのに」
同じようなストレスに直面しても、病気が出現する器官や症状が異なることを「器官選択」と呼ぶそうで、この理由はまだ完全には解明されていないといわれる。思春期、青春期には心身症の中でも機能的障害の頻度が高く、成人期から老年期へ移行するにつれて、器質的障害の頻度が増加すると書かれた本もある。前者は過敏性腸症候群など、後者は胃や腸の潰瘍などがわかりやすい例である。
身体症状には心理的、あるいは象徴的意味があるとも考えられてきた。
腰痛が激しい頃、私は座ることも、立っていることもできなかった。無理して少し外を歩いてみても、赤信号で立ち止まって待つことがつらい。何か買物をすると、包装してもらうわずかの間も立っているのが苦痛だった。
それは実にシンボリックな症状だと、主治医はいった。
「絶えず走り続けることによって自分を支えてきたあなたは、立ち止まることがすなわち心身の不安定に直結してしまうのです」
器官選択については、現在は遺伝的要因による部分が大きいと見られているという。私は両親も兄も、親戚の誰一人、腰痛の話は聞いたこともなかったが。
心身症になりやすい性格傾向や行動パターンというものもある。自分も指摘されたし、私がお会いした患者さんの中には、いくつかの共通点が見出される気がした。
頑張り屋の優等生。自分はどんなに無理をしても与えられた条件に適応し、周囲の期待に応えようとする。
いいたいことをいわずに、のみこんで我慢する。
完全主義もよくない。逆に、まあ、いいか、といったファジーな姿勢が病気を遠ざける。
物事へのとらわれが発症を誘い、症状へのこだわりがいよいよ状態を深刻にする。
しかも本人は自分のそうした性格や行動にほとんど気付いていない場合が多い。
そこに強いストレスが加わったり、忙しすぎて疲れきっているのに、本人はそのことも充分自覚していない。
自分の無理や我慢や頑張りが限界に達しかけていても、本人にはわからないというのはおそろしいことである。
病気になってやっと、どこかがまちがっていたらしいと感じ始める。「倒れてのち病む」と、私は主治医に何度いわれたことだろう。
一方で、心身症はどんな人にも発生する。明るい性格の持ち主が、恵まれた環境で生活していても、発症の条件が知らぬまに蓄積されている場合もある。そのことは、この本でも一端を理解していただけたのではないだろうか。
適切な治療を受け、回復する前には、何らかの転機が訪れる。多くの場合、患者は「気付き」を得るのである。自分の性格について、ライフスタイルについて、あるいは物事への対処の仕方についてなどで、まさに池見教授の「自分にも責任がある」という自覚である。
それを出発点にして、治癒が始まる。
私は、幸運にも完治して以来、真面目に反省して、自分を改善しようと努力してきた。心掛け一つでなんとでもなると、甘く見ていた節もあった。
だが、およそ性格を変えるということほど、至難のことがあろうか。七年経った今では、痛切にそれを悟らされている。だからこそ、芥川龍之介も「悲劇は性格にあり」といったのだろう。
もしかしたら私はほとんど元の木阿弥になりつつあるのかもしれない。
しかしながら、一度は「気付いた」という事実には変わりはない。その気付きが、自分の内部で何か名状しがたい働きをしてくれていることを、はっきりと感じる時がある。やはり私はどこかで変わっていたのだ。
心身症はつらくて長い旅だと思う。しかも不幸にして、容易に治らない方もある。
でも、ともかくも通過したあとでは、思いもかけない自分と出会う。そしていつか、あれは幸せな経験だったと思える日がくる。どちらかといえば、あれは患ったほうがよかった病気だったのだと。
心のケアに対する社会の理解は高まったと、先に書いた。しかしまだまだ知られていない部分もたくさん残っているだろう。
参照1:相手と心理的な交流が発生する
参照2:転ぶ度に人の能力は伸びるし増える
参照3:生命における体験の記憶はその身体の細胞内に記録される
参照4:「感化力」はすべて「心の誘導」によって起きている
参照5:影と実体
参照6:ストレスを記憶するからだ
参照7:姥桜 さくらと気づく 人も無し
参照8:ソフトボールと卵
参照9:自分に見えるものをありのまま信用する
参照10:骨盤の動きと鼠径部の関係
参照11:画像診断の意味するもの
☆リンク先で更新された記事
・お言葉
・色彩差異
・見えないけど見えるもの
・「剣の基礎を纏めて行く」
・「感じ、洞察、比較する」
▼症例の数だけ人生がある
簡単にいえば「心の問題で起きる身体の病の総称」とされる心身症は、その現われ方が実に多様である。ここではとくに症例の多い、いわば代表的な心身症を主に取り上げさせていただいた。
一方、100パーセント心因性ではなく、身体的要因が関与している症例も少なくない。その中では、身体的治療と並行して、心身医学的治療を行なうことによって、治癒への効果が目に見えて高まったケースを選んだ。
さらに、よく知られた病気や難病指定の重大な疾患であっても、心身医学の治療によって大きく改善したケースなどを紹介した。
それにしても、さまざまな心身症の中で、どういう人にどんな症状が発生しやすいのであろう?
「なぜ私は胃潰瘍でなくて腰痛になったのですか」と、私は主治医に尋ねたものだった。
「胃潰瘍だったらもっと素直に心因性を認めたのに」
同じようなストレスに直面しても、病気が出現する器官や症状が異なることを「器官選択」と呼ぶそうで、この理由はまだ完全には解明されていないといわれる。思春期、青春期には心身症の中でも機能的障害の頻度が高く、成人期から老年期へ移行するにつれて、器質的障害の頻度が増加すると書かれた本もある。前者は過敏性腸症候群など、後者は胃や腸の潰瘍などがわかりやすい例である。
身体症状には心理的、あるいは象徴的意味があるとも考えられてきた。
腰痛が激しい頃、私は座ることも、立っていることもできなかった。無理して少し外を歩いてみても、赤信号で立ち止まって待つことがつらい。何か買物をすると、包装してもらうわずかの間も立っているのが苦痛だった。
それは実にシンボリックな症状だと、主治医はいった。
「絶えず走り続けることによって自分を支えてきたあなたは、立ち止まることがすなわち心身の不安定に直結してしまうのです」
器官選択については、現在は遺伝的要因による部分が大きいと見られているという。私は両親も兄も、親戚の誰一人、腰痛の話は聞いたこともなかったが。
心身症になりやすい性格傾向や行動パターンというものもある。自分も指摘されたし、私がお会いした患者さんの中には、いくつかの共通点が見出される気がした。
頑張り屋の優等生。自分はどんなに無理をしても与えられた条件に適応し、周囲の期待に応えようとする。
いいたいことをいわずに、のみこんで我慢する。
完全主義もよくない。逆に、まあ、いいか、といったファジーな姿勢が病気を遠ざける。
物事へのとらわれが発症を誘い、症状へのこだわりがいよいよ状態を深刻にする。
しかも本人は自分のそうした性格や行動にほとんど気付いていない場合が多い。
そこに強いストレスが加わったり、忙しすぎて疲れきっているのに、本人はそのことも充分自覚していない。
自分の無理や我慢や頑張りが限界に達しかけていても、本人にはわからないというのはおそろしいことである。
病気になってやっと、どこかがまちがっていたらしいと感じ始める。「倒れてのち病む」と、私は主治医に何度いわれたことだろう。
一方で、心身症はどんな人にも発生する。明るい性格の持ち主が、恵まれた環境で生活していても、発症の条件が知らぬまに蓄積されている場合もある。そのことは、この本でも一端を理解していただけたのではないだろうか。
適切な治療を受け、回復する前には、何らかの転機が訪れる。多くの場合、患者は「気付き」を得るのである。自分の性格について、ライフスタイルについて、あるいは物事への対処の仕方についてなどで、まさに池見教授の「自分にも責任がある」という自覚である。
それを出発点にして、治癒が始まる。
私は、幸運にも完治して以来、真面目に反省して、自分を改善しようと努力してきた。心掛け一つでなんとでもなると、甘く見ていた節もあった。
だが、およそ性格を変えるということほど、至難のことがあろうか。七年経った今では、痛切にそれを悟らされている。だからこそ、芥川龍之介も「悲劇は性格にあり」といったのだろう。
もしかしたら私はほとんど元の木阿弥になりつつあるのかもしれない。
しかしながら、一度は「気付いた」という事実には変わりはない。その気付きが、自分の内部で何か名状しがたい働きをしてくれていることを、はっきりと感じる時がある。やはり私はどこかで変わっていたのだ。
心身症はつらくて長い旅だと思う。しかも不幸にして、容易に治らない方もある。
でも、ともかくも通過したあとでは、思いもかけない自分と出会う。そしていつか、あれは幸せな経験だったと思える日がくる。どちらかといえば、あれは患ったほうがよかった病気だったのだと。
心のケアに対する社会の理解は高まったと、先に書いた。しかしまだまだ知られていない部分もたくさん残っているだろう。
参照1:相手と心理的な交流が発生する
参照2:転ぶ度に人の能力は伸びるし増える
参照3:生命における体験の記憶はその身体の細胞内に記録される
参照4:「感化力」はすべて「心の誘導」によって起きている
参照5:影と実体
参照6:ストレスを記憶するからだ
参照7:姥桜 さくらと気づく 人も無し
参照8:ソフトボールと卵
参照9:自分に見えるものをありのまま信用する
参照10:骨盤の動きと鼠径部の関係
参照11:画像診断の意味するもの
☆リンク先で更新された記事
・お言葉
・色彩差異
・見えないけど見えるもの
・「剣の基礎を纏めて行く」
・「感じ、洞察、比較する」
by centeringkokyu
| 2012-03-11 11:05
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