2012年 01月 08日
創始者の真意は伝えられるのか? |
「たった4つの健康体操 股関節のチカラ」 社団法人真向法協会監修
▼豪商が半身不随に
長井は大倉組で修行を始めると、みるみるうちに頭角を現し、30歳のときに呉支店長に抜擢されます。長井もまた、大倉のように機を見るに敏で、商売の才覚があったのでしょう。
自信を持った長井は大倉組を退社して独立。事業で成功しましたが、事業というのはいいときもあれば悪いときもあるもので、山あり谷ありの日々だったようです。長井は身を粉にして働きました。
ところが42歳のとき、長井の身にとんでもないことが起こりました。
脳溢血で倒れて半身不随となってしまったのです。
「まさか、この俺が…」
いくら不摂生をしてきたとはいえ、バリバリ仕事をしてきた長井にとっては思いもよらない脳溢血。奈落の底に突き落とされる思いです。
半身不随となった長井は途端に生活に困窮しました。
現在のように労災という社会保障制度はありません。仕事ができなくなった長井は家族をどうやって養っていくかもわかりません。2年あまりの闘病生活を送ると、長井家の蓄えはすっかり消えうせてしまいました。そのような追いつめられた状況の中で、長井は死を考えるようになっていきました。
▼お辞儀ってなに?
ある日のことです。死を考えていた長井はふと思いました。
「半身不随のまま、このまま悩んで死を待つのか。たかが左半身が自由にならないだけの話ではないか。何か救われる方法はないものか。そうだ、お釈迦さまの教えを学べば心が救われるのではないか」
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、生家の浄土真宗・勝鬘(しょうまん)寺で小さい頃から慣れ親しんできた仏教の教えが頭に浮かんできました。
勝鬘寺には 「勝鬘経」というお経があります。
「勝鬘経」は仏教の大乗経典の一つで、釈尊の弟子で舎衛国波斯匿王(しゃえいこくはしのくおう)の王女・勝鬘夫人が教えに触れた喜びを書かれたものです。仏道を説く経典として知られています。
聖徳太子も、この経典の注釈書である 「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」を書いているほどです。
読経百篇といいますが、長井は、この勝鬘経を毎日毎日、何度も何度も丹念に読みとっていきました。
すると本文に入るための序説が終わろうとしたところで、ある一節に目がとまりました。
「勝鬘及一家眷属(けんぞく)頭面接足礼……(勝鬘および眷属、頭面をもって御足に接して礼し、ことごとく清浄心をもって、仏の実の功徳を嘆じたてまつりにき)」
勝鬘夫人とその親族が、釈迦の教えを聞くとき、必ずお釈迦さまの前で、頭面接足礼という形の礼(お辞儀)をしたというものです。
「勝鬘及一家眷属頭面接足礼」は、本編へ進む前の一区切りとしての感謝の思いを込めた礼という意味です。長井は本編へ進む前に、この言葉に立ち止まります。
「お釈迦さまの教えを学ぶということは心からお釈迦さまを信頼し、心を豊かに保つと同時に、その感謝の気持ちを礼をもって表すということなんだ。しかし、頭面接足礼とはどういうお辞儀なんだろう」
救いを求めているのですから、本来ならばどんどん先を読み進めたい。お辞儀をしたというところに引っかかっている場合ではありません。しかし、長井はここで立ち止まりました。
これが、のちの真向法創始のきっかけとなるのです。
▼からだがもとに戻った
長井はこのお辞儀について、さまざまな文献をひも解き、さらに学者や宗教家に尋ね歩きました。
どうやら座礼に間違いがないことがわかると、楽座への挑戟を始めます。もちろん、簡単にできるわけがありません。なにしろ半身不随の身なのです。動かない左足はゆかに着くどころか、高く持ち上がってしまいます。腰も硬くなっていて前傾どころの話ではありません。特に長井のからだは非常に硬く、一筋縄ではいきませんでした。
しかし、長井は一途でした。
「俺は心ばかりか身もこんなに硬くなってしまっていたのか。しかし、この礼ができなければ本編に進めない!」
長井は自らのからだと格闘しながら、懸命に練習を続けました。こうして、一年が経ち、二年が経つと、長井のからだはいつの間にかすっかりと柔らかくなり、お辞儀ができるようになっていました。
長井はさらに浄土真宗の「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」の教えにある「五体投地礼(ごたいとうちれい)」 の修得を始めます。立礼です。この頃には、辛うじて立つことができるようになってはいましたが、左足の安定性が悪いので立礼はできません。
そこで、長井は足を前に投げ出して腰を二つに折り、深くお辞儀をする練習を始めました。柱を背にして上半身をできるだけ垂直にして屈伸運動をするわけです。とにかく、ひたすらこの練習に打ち込みました。
これが現在の真向法第二体操です。
こうして長井は、徐々にお辞儀ができるようになっていったのです。始めた頃に硬くて動かなかった腰は曲がるようになり、持ち上がっていた左ヒザはゆかに着くようになっていました。そして、半身不随だったからだは、もとに戻っていたのです。
倒れてから5年目、昭和8(1933)年5月には、長井のからだはすっかり良くなり、いつの間にか一人でどこへでも、歩いて行けるようになっていました。
▼金儲けより命儲け
ひたすらお辞儀に取り組みながら、健康なからだを取り戻した長井にとって、その感動は口では言い表せないものでした。
「俺のからだはもとに戻った。病気になったおかげで金儲けよりも命儲けの道を教えてもらえた。これからの残された俺の人生は、病気を抱えた人や健康なからだを持ちたいと願っている人にこの体操を広めることだ」
長井は持ち前の行動力で普及に乗り出しました。
勝鬘経や大無量寿経がきっかけだったので仏の意味合いから「念仏体操」と名づけました。
しかし、お金にもならない健康体操の普及活動を始めた長井を、親戚たちは「頭がおかしくなったんじゃないか」と奇異な目でしか見ません。
長井は気にせず、街頭に出て体操の宣伝を開始します。
▼真向法という名での出発
このように少しずつ普及していった「念仏体操」は、心とからだを健やかにするというイメージを強く打ち出すため、「心身柔和法」と改称します。その後、時勢とともに「礼拝体操」 「健民体操」と変わり、終戦を迎えた昭和20(1945)年には「中正柔和法」としました。名前を変えるうち、第三体操、第四体操が加わり、体操はより充実していきました。
終戦直後、長井は空襲の焼け跡の中で「お国の再起に役立つのはいまだ」と銀座、渋谷や新宿、兜町の街頭に立って体操を宣伝しました。
体操を実演するための筵を道端に敷いての辻説法です。
こうして、戦火をくぐり抜けた体操は、「真向法」という名称となります。昭和21(1946)年1月15日のことです。
真向法という名前は、長井があるとき詠んだ和歌から生まれました。
真澄空(ますみぞら) ただみ一つの御光を 真向仰げ四方のとも人
終戦の中、体操で国民に力を与えたい、希望を与えたいと願った素直な歌です。この歌の中で詠まれた真向という言葉こそ、この体操にふさわしいと考えたのでした。
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by centeringkokyu
| 2012-01-08 22:25
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