2005年 05月 08日
東洋医学の革命児 |
こちらは、以前からの蔵書で、N松さんにお願いして購入して頂きました。ご紹介する時期を待っていたのですが、良い段取りになったものだと、一人喜んでいます。
「東洋医学の革命児 平田内蔵吉の生涯と思想・詩」 久米建寿著から抜粋します。
中心運動法!
平田氏はさらに、以上を、より強健術ないし鍛練法の目的に合致させるために「中心運動法」を創案し(弁証法教典)、それについて、
「中心運動法の中心目的は、勿論心身の中心を得る事にあるが、それ自身として八つの間接目的を有する。それは一、関節の自由、二、動作の敏活、三、気合の充実、四、姿勢の整正、五、内臓の強健、六、精神の統一、七、全体の均衡、八、感覚の覚醒、である。これらの目的を達するために、中心運動法は、人体に於ける十二の反応線の、一つ一つを鍛練し、全部で十二の運動形式よりなる。その形式は、今迄のあらゆる運動法を弁証法的に整正したものである。…」
「……これに要する時間は五分。器械は不用。場所は一坪。時間は食前食後一時間を除けば何時でも宜しい。回数は一日一回、且つ男女共通である。しかし効果は如何なる運動法にも優ることを断言し得るのである。現代の西洋式の体操や、強健術や運動法の根本的欠陥を一言で言えば弁証的で無いことである。一方に偏するか、或いは時間、場所、その他の制限がある。この中心運動法は、武術の要義に合し、生理、解剖の原則に背かず、心身一如の活動を鍛練する上に於て絶好無比の方法である。而して吾々は疾病の回復に止らずして、更に積極的鍛練に進むことが出来るのである。平常は、腰に力を入れる時間と腹に力を入れる時間をなるべく平等に行くように注意し、且時々気合を入れる練習と眼をもって空間を射通す練習をすれば宜しい。全て身体を伸ばした時には身体の平均が力学的に得られるように、身体を屈した時は、気合が腰にこもるように練習鍛練すれば良いのである。…」
心身の中心——バランス
「……治病の根本原理は、疾病によって失われた身体の平衡を回復することである。元来疾病と云うことが、身体内部の器官と外部の運動器官との平衡が失われたことである。内外の器官が調和平衡して、身心の中心がしっかり定まっておれば疾病は断じて起らないのである。身体は様々なる方法で、どこから見ても中心を保ち得るように出来上った器官である。この中心が色々な原因で破れて疾病にかかった場合には、それを個々別々に分析的に診断して治療するよりは、中心がどういう風に乱れたかと云うことをよく観察して、その中心の回復法を講ずることが一番である。しかし私らの云う中心は身体だけの中心ではない。心身の中心である。……」
「吾々は吾々の中心生活法の第一段階として、先ず自己の身心をつかまねばならないのである。生活の中心は金でもなく家でもない。生命である。そして今の日本人で真の健康者は数える程しかないのである。吾々は国家のためにどこ迄も中心健康術の真義を徹底したいと思う。」
「生命中心を得れば、続いて家も、経済も、国家も、世界も中心を得て来るのである。吾々は、中心生活を知るためには何うしても先ず中心健康術の道に入らねばならない。」(「中心」S七・九)
いまから五〇数年前に発行された平田氏の代表者作「弁証法教典−中心生活法」は、いまもって、難解の書、一種不思議な奇書として残されているが、このB5判五百頁の更に二倍の分量をもつ「大東真易」が、その一年余り後には殆んど書き上げられ、予約を募ったが、三百名の申込みをもって出版予定のところ、百名しか集まらなかったため発行を中止、爾来、決定版をなす筈であったこの平田氏快心の著作は、ついに陽の目をみることなく原稿は雲散霧消してしまった様子である。いくら熱心な読者や当時の平田ファンも、重厚難解な「弁証法教典」だけでも持て余し気味で、それ以上にわかには、ついてゆけそうもない心境だったのであろうことが察しられる。
※管理人です
不思議なもので、長い間探していた「弁証法教典 中心生活法」を5月5日に見つけました。まだ部分的にしか読んでいないのですが、昭和初期に医薬分業の事を書いていたので、驚きました。弁証法を少し読んでみて、ああっ仮説実験授業の考え方だと思いました。さらに、増永氏の十二経絡や経絡体操、そして占いの分野にまで、ほぼ共通の探究の仕方があったので感激しました。配付資料116もご一読ください。
下の写真は、治病強健術に掲載されていた「中心の定め方」です。
「東洋医学の革命児 平田内蔵吉の生涯と思想・詩」 久米建寿著から抜粋します。
中心運動法!
平田氏はさらに、以上を、より強健術ないし鍛練法の目的に合致させるために「中心運動法」を創案し(弁証法教典)、それについて、
「中心運動法の中心目的は、勿論心身の中心を得る事にあるが、それ自身として八つの間接目的を有する。それは一、関節の自由、二、動作の敏活、三、気合の充実、四、姿勢の整正、五、内臓の強健、六、精神の統一、七、全体の均衡、八、感覚の覚醒、である。これらの目的を達するために、中心運動法は、人体に於ける十二の反応線の、一つ一つを鍛練し、全部で十二の運動形式よりなる。その形式は、今迄のあらゆる運動法を弁証法的に整正したものである。…」
「……これに要する時間は五分。器械は不用。場所は一坪。時間は食前食後一時間を除けば何時でも宜しい。回数は一日一回、且つ男女共通である。しかし効果は如何なる運動法にも優ることを断言し得るのである。現代の西洋式の体操や、強健術や運動法の根本的欠陥を一言で言えば弁証的で無いことである。一方に偏するか、或いは時間、場所、その他の制限がある。この中心運動法は、武術の要義に合し、生理、解剖の原則に背かず、心身一如の活動を鍛練する上に於て絶好無比の方法である。而して吾々は疾病の回復に止らずして、更に積極的鍛練に進むことが出来るのである。平常は、腰に力を入れる時間と腹に力を入れる時間をなるべく平等に行くように注意し、且時々気合を入れる練習と眼をもって空間を射通す練習をすれば宜しい。全て身体を伸ばした時には身体の平均が力学的に得られるように、身体を屈した時は、気合が腰にこもるように練習鍛練すれば良いのである。…」
心身の中心——バランス
「……治病の根本原理は、疾病によって失われた身体の平衡を回復することである。元来疾病と云うことが、身体内部の器官と外部の運動器官との平衡が失われたことである。内外の器官が調和平衡して、身心の中心がしっかり定まっておれば疾病は断じて起らないのである。身体は様々なる方法で、どこから見ても中心を保ち得るように出来上った器官である。この中心が色々な原因で破れて疾病にかかった場合には、それを個々別々に分析的に診断して治療するよりは、中心がどういう風に乱れたかと云うことをよく観察して、その中心の回復法を講ずることが一番である。しかし私らの云う中心は身体だけの中心ではない。心身の中心である。……」
「吾々は吾々の中心生活法の第一段階として、先ず自己の身心をつかまねばならないのである。生活の中心は金でもなく家でもない。生命である。そして今の日本人で真の健康者は数える程しかないのである。吾々は国家のためにどこ迄も中心健康術の真義を徹底したいと思う。」
「生命中心を得れば、続いて家も、経済も、国家も、世界も中心を得て来るのである。吾々は、中心生活を知るためには何うしても先ず中心健康術の道に入らねばならない。」(「中心」S七・九)
いまから五〇数年前に発行された平田氏の代表者作「弁証法教典−中心生活法」は、いまもって、難解の書、一種不思議な奇書として残されているが、このB5判五百頁の更に二倍の分量をもつ「大東真易」が、その一年余り後には殆んど書き上げられ、予約を募ったが、三百名の申込みをもって出版予定のところ、百名しか集まらなかったため発行を中止、爾来、決定版をなす筈であったこの平田氏快心の著作は、ついに陽の目をみることなく原稿は雲散霧消してしまった様子である。いくら熱心な読者や当時の平田ファンも、重厚難解な「弁証法教典」だけでも持て余し気味で、それ以上にわかには、ついてゆけそうもない心境だったのであろうことが察しられる。
※管理人です
不思議なもので、長い間探していた「弁証法教典 中心生活法」を5月5日に見つけました。まだ部分的にしか読んでいないのですが、昭和初期に医薬分業の事を書いていたので、驚きました。弁証法を少し読んでみて、ああっ仮説実験授業の考え方だと思いました。さらに、増永氏の十二経絡や経絡体操、そして占いの分野にまで、ほぼ共通の探究の仕方があったので感激しました。配付資料116もご一読ください。
下の写真は、治病強健術に掲載されていた「中心の定め方」です。
by centeringkokyu
| 2005-05-08 00:06
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