2011年 05月 16日
自然に任せれば荒廃する |
「二宮翁夜話―人生を豊にする智慧の言葉」からご紹介します。
▼芋種と木札
家僕(家の雑事に使われる男)が芋種を土の中に埋めて、その上に「芋種」と書いた木札を立てた。これを見て、先生がおっしゃった。
皆が、大道というものは文字の上にあるものと思い、書物の文字だけを研究して、それが学問だと思い込んでいるのは、間違いである。文字は道を伝える道具であって、道そのものではない。それなのに、書物を読んで、それを道だと思うのは間違いではないか。
道は、書物の中にあるのではなく、行いの中にある。先ほど家僕が立てた木札を見るがよい。この札の文字によって、芋種を掘り出して、それを畑に植えてつくればこそ、食物になるのだ。道もこれと同じで、目印の書物によって、道を求め、それを実行してはじめて道を実現させることができるのである。そうでなければ、学問というべきではない。それは、単なる「読書」にすぎない。
▼譲道あるからこそ
先生はおっしゃった。
どの国も、そのはじめには、人類はいなかった。幾千年もの後にはじめて人があらわれ、人道ができ上がった。
禽獣は欲しい物を見たら、すぐにそれを取って食う。取れるだけの物を遠慮なく取って、譲るということを知らない。草木もまた、そうだ。根が張れるだけ、土の中をどこまでも張っていく。これが禽獣・草木の生き方だが、人がこのような生き方をすれば、すなわち盗賊である。
人は、禽獣・草木と違って、米が欲しければ田をつくって取り、豆腐が欲しければお金を出して買う。禽獣が欲しいと思ったら、すぐに取るのとは異なる。人道は天道とは違い、譲道によって成り立つものなのである。
「譲」とは、今年の物を来年に譲り、親は子のために譲るということから成り立つ道である。天道には、譲道はない。人道というのは、人の便宜をはかって立てられたものだから、譲心を忘れると奪心が生じてしまう。
禽獣は間違っても、譲心が生じることはない。これが人と禽獣の違いである。田畑は一年間耕さなければ、荒地になる。荒地は、百年たっても自然に田畑になることはないのと同じである。
人道は、〝自然〝ではなく、〝作為〝が働くから、人が使う物は必ずつくった物である。だから、人道は、物をつくることに勤めることを〝善〝とし、破壊することを〝悪〝とする。
あらゆることを自然に任せれば、すべて荒廃する。これを荒廃しないように勤めることを、人道とするのである。人が着る衣類、家屋に用いる柱や板の類、その他白米、麦、味噌、醤油の類が自然に田畑や山林でできるものではない。だから、人道は勤めてつくることを尊び、自然に任せて荒廃していくことを憎むのである。
虎や豹はもちろん、熊や猪のような獣は、木を倒し、根を掘り、その力が強力であることはいうまでもない。その労力もいうまでもない。しかし、一生その労力を使っても、〝安堵の地〝が得られないのは、譲ることを知らず、生涯自分のためにだけ尽くすから、その努力は報われないのである。
だから、たとえ人であっても、譲道を知らず、勤労しなければ、禽獣同様〝安堵の地〝は得られないのである。したがって、人たる者は、智恵はなく、力は弱くても、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、他に譲る道を知って、それをよく実行すれば、その努力は必ず報われるのである。
その上にまた、恩に報いるという心がけがある。これまた知らなければならない、勤めなければならない道である。
#楽隠居です
『道は、書物の中にあるのではなく、行いの中にある。』
『あらゆることを自然に任せれば、すべて荒廃する。これを荒廃しないように勤めることを、人道とするのである。』
体内操作も、解説に答えがあるのではなく、答えは自分の中にしか無いし、レベルはどんどん変化するものだと思っています。
外から見た動きでも、自然に見える動きを真似したつもりで動いても、ただ自然に動いているだけでは、自然に見えないことが良くあります。
「習い・稽古・工夫」を怠らず、検証し続けることが大切です。
参照1:自得して忘れず
『誠の道は学ばずしておのづから知り 習はずしておのづから覚え
書籍もなく記録もなく師匠もなく 人々自得して忘れず
これぞまことの道の本体なる
渇して飲み 飢えて食ふ 皆此類なり
古歌に
水鳥のゆくもかへるもあとたえて されどもみちは忘れさりけり』
【二宮尊徳「二宮翁夜話」巻之一 福住正兄筆記】
参照2:日本文化の身体的な基礎
参照3:日本人と違う中国人の思考回路
☆リンク先で更新された記事
・膨らまさない
・学習内容03
・感想文55
・呼吸と肋骨の締り
・ボールの入れる位置と空気の量
▼芋種と木札
家僕(家の雑事に使われる男)が芋種を土の中に埋めて、その上に「芋種」と書いた木札を立てた。これを見て、先生がおっしゃった。
皆が、大道というものは文字の上にあるものと思い、書物の文字だけを研究して、それが学問だと思い込んでいるのは、間違いである。文字は道を伝える道具であって、道そのものではない。それなのに、書物を読んで、それを道だと思うのは間違いではないか。
道は、書物の中にあるのではなく、行いの中にある。先ほど家僕が立てた木札を見るがよい。この札の文字によって、芋種を掘り出して、それを畑に植えてつくればこそ、食物になるのだ。道もこれと同じで、目印の書物によって、道を求め、それを実行してはじめて道を実現させることができるのである。そうでなければ、学問というべきではない。それは、単なる「読書」にすぎない。
▼譲道あるからこそ
先生はおっしゃった。
どの国も、そのはじめには、人類はいなかった。幾千年もの後にはじめて人があらわれ、人道ができ上がった。
禽獣は欲しい物を見たら、すぐにそれを取って食う。取れるだけの物を遠慮なく取って、譲るということを知らない。草木もまた、そうだ。根が張れるだけ、土の中をどこまでも張っていく。これが禽獣・草木の生き方だが、人がこのような生き方をすれば、すなわち盗賊である。
人は、禽獣・草木と違って、米が欲しければ田をつくって取り、豆腐が欲しければお金を出して買う。禽獣が欲しいと思ったら、すぐに取るのとは異なる。人道は天道とは違い、譲道によって成り立つものなのである。
「譲」とは、今年の物を来年に譲り、親は子のために譲るということから成り立つ道である。天道には、譲道はない。人道というのは、人の便宜をはかって立てられたものだから、譲心を忘れると奪心が生じてしまう。
禽獣は間違っても、譲心が生じることはない。これが人と禽獣の違いである。田畑は一年間耕さなければ、荒地になる。荒地は、百年たっても自然に田畑になることはないのと同じである。
人道は、〝自然〝ではなく、〝作為〝が働くから、人が使う物は必ずつくった物である。だから、人道は、物をつくることに勤めることを〝善〝とし、破壊することを〝悪〝とする。
あらゆることを自然に任せれば、すべて荒廃する。これを荒廃しないように勤めることを、人道とするのである。人が着る衣類、家屋に用いる柱や板の類、その他白米、麦、味噌、醤油の類が自然に田畑や山林でできるものではない。だから、人道は勤めてつくることを尊び、自然に任せて荒廃していくことを憎むのである。
虎や豹はもちろん、熊や猪のような獣は、木を倒し、根を掘り、その力が強力であることはいうまでもない。その労力もいうまでもない。しかし、一生その労力を使っても、〝安堵の地〝が得られないのは、譲ることを知らず、生涯自分のためにだけ尽くすから、その努力は報われないのである。
だから、たとえ人であっても、譲道を知らず、勤労しなければ、禽獣同様〝安堵の地〝は得られないのである。したがって、人たる者は、智恵はなく、力は弱くても、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、他に譲る道を知って、それをよく実行すれば、その努力は必ず報われるのである。
その上にまた、恩に報いるという心がけがある。これまた知らなければならない、勤めなければならない道である。
#楽隠居です
『道は、書物の中にあるのではなく、行いの中にある。』
『あらゆることを自然に任せれば、すべて荒廃する。これを荒廃しないように勤めることを、人道とするのである。』
体内操作も、解説に答えがあるのではなく、答えは自分の中にしか無いし、レベルはどんどん変化するものだと思っています。
外から見た動きでも、自然に見える動きを真似したつもりで動いても、ただ自然に動いているだけでは、自然に見えないことが良くあります。
「習い・稽古・工夫」を怠らず、検証し続けることが大切です。
参照1:自得して忘れず
『誠の道は学ばずしておのづから知り 習はずしておのづから覚え
書籍もなく記録もなく師匠もなく 人々自得して忘れず
これぞまことの道の本体なる
渇して飲み 飢えて食ふ 皆此類なり
古歌に
水鳥のゆくもかへるもあとたえて されどもみちは忘れさりけり』
【二宮尊徳「二宮翁夜話」巻之一 福住正兄筆記】
参照2:日本文化の身体的な基礎
参照3:日本人と違う中国人の思考回路
☆リンク先で更新された記事
・膨らまさない
・学習内容03
・感想文55
・呼吸と肋骨の締り
・ボールの入れる位置と空気の量
by centeringkokyu
| 2011-05-16 00:01
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