2011年 04月 27日
対象を知ることによって自己を知る |
「二重言語国家・日本」石川九楊著青灯社刊からご紹介します。
P20
もう少し正確にこの文体というものをぼくなりに定義すると、これは言葉を引き出していく力であり、言葉を支えている力であると言えます。もやもやといろんなことがある。しかし何か手掛かりがあって、手本があって、それに合わせてものを言っていくというかたちでないと言葉にならない。つまり文体はそれらを生む力であると同時に、「体」ですから言葉を支えるのですね。
言語学で語彙と文体と言います。語彙というのは単語です。たとえば「山」と言ったら「綺麗な山だなあ」と言う意味もそこには入っていることにもなるわけですが、「山」だけではなく、「綺麗な山」と言えばもう少し細かくていねいに正確にいい表すことができる。そういうときの「山」「綺麗」、これが語彙ですが、これを繋ぎ、この順番を繋ぎ止めているこのスタイル、そが文体=スタイルです。そこまでぼくは拡張して文体というものを考えたいと思っています。
P148
「むめのか をそてに/う つし てとめたら/はるは すくと/もかたみなら ま/し」と書かれています。
これは、昨年の夏お越しいただいた小松英雄先生が一貫していっておられることですが、日本の国文学研究の最大の悪弊は、書字の問題にまで遡っていないということです。活字で研究しているわけです。活字で研究していると、たとえば一番ひどい場合は、今の学生諸君なんかになりますと、要するに、濁点の加わったもので解釈していくわけです。それはもう、とんでもないことで、和歌には濁点なんかないのですね、清音ですべて書かれている。なおかつ、文字と文字とのあいだが繋がっていたり、離れていたりする。あるいはもっといえば、大きかったり、小さかったりする。さらには墨継ぎがあったり、墨継ぎがなかったりすると。そういうところにまで遡っていかないと、その歌の本当の姿にまでたどり着けないのです。少なくとも濁音を入れては駄目だし、平仮名で書かれているものを漢字に換えてしまったら駄目なのですね、これは全然別のものになります。
たとえば「はる」と書いているのを、意味をとって「春」という漢字に宛てているものを一所懸命勉強しても、「はる」というのは「張る」というニュアンスも中に含んでいるわけです。楓の木の芽が中から赤く色づいて張ってきているのです。そういうものが「はる」という言葉の中にはあるわけです。それを活字に換えて、なおかつ「春」と漢字一字に宛ててしまうと、「張る」ということが見えなくなってしまいます。
P206
書というのは作者が手にした筆記具の尖端の筆尖が対象つまり紙に対してはたらきかけ、それに対して対象から返答を返していくという相互の力が演じる劇(ドラマ)です。さらさら、すらすら、ざらざらというような表面をなぞり、表面を流れていくような、そういうほのかな対象との関係ではなく、作者が対象に対してギュッと時間を止めて、奥にグッと力を向けていくような深い関係を取り結ぶようになります。作者が対象の存在をまさぐるわけです。
喩えて言えば、今までの書は、人が町の中を歩いているときに人と軽くすれ違いながら進んでいくという姿であったものが、いわばドンとぶつかる。ドンとぶつかるということは、「おっ」、というふうに相手を知る。相手を知ると、相手が「このやろう」と言うのか、「すみません」と言うのか知りませんが、そこで新たな関係が生じる。つまり対象を知ることよって自己を知ることになります。対象と自己というものが姿を鮮明にしてくるわけです。
#楽隠居です
剣術でこじつけてみると、「単語が体内操作なら、文体は型」だと言えるかもしれませんなぁ~
また、「構え」が漢字的なイメージだとすると、「位」は平仮名的かな?
剣が筆だとすれば、一刀流の「水に字を書く」という表現につながります。
治療との関係で言えば、筆が指先だとすると、紙は皮膚なんでしょうねぇ~
『対象に対してはたらきかけ、それに対して対象から返答を返していくという相互の力が演じる劇(ドラマ)』これは、武術や治療と共通なのかも・・・
『対象を知ることによって自己を知る』
映る・移るということとも関係あるのかなぁ~
参照1:水に書く
参照2:ネコ殿 デリカシー日記 2/22
参照3:移るから映るへ
参照4:これまで身につけたいろいろな過去の蓄積を生かす
参照5:いろいろの「みる」
参照6:選択肢の豊かさ
☆リンク先で更新された記事
・筆遣い
・受けと攻め
・検証していく
・山科セミナー始動
・「ひとつひとつ乗り越える」
・本の紹介13
P20
もう少し正確にこの文体というものをぼくなりに定義すると、これは言葉を引き出していく力であり、言葉を支えている力であると言えます。もやもやといろんなことがある。しかし何か手掛かりがあって、手本があって、それに合わせてものを言っていくというかたちでないと言葉にならない。つまり文体はそれらを生む力であると同時に、「体」ですから言葉を支えるのですね。
言語学で語彙と文体と言います。語彙というのは単語です。たとえば「山」と言ったら「綺麗な山だなあ」と言う意味もそこには入っていることにもなるわけですが、「山」だけではなく、「綺麗な山」と言えばもう少し細かくていねいに正確にいい表すことができる。そういうときの「山」「綺麗」、これが語彙ですが、これを繋ぎ、この順番を繋ぎ止めているこのスタイル、そが文体=スタイルです。そこまでぼくは拡張して文体というものを考えたいと思っています。
P148
「むめのか をそてに/う つし てとめたら/はるは すくと/もかたみなら ま/し」と書かれています。
これは、昨年の夏お越しいただいた小松英雄先生が一貫していっておられることですが、日本の国文学研究の最大の悪弊は、書字の問題にまで遡っていないということです。活字で研究しているわけです。活字で研究していると、たとえば一番ひどい場合は、今の学生諸君なんかになりますと、要するに、濁点の加わったもので解釈していくわけです。それはもう、とんでもないことで、和歌には濁点なんかないのですね、清音ですべて書かれている。なおかつ、文字と文字とのあいだが繋がっていたり、離れていたりする。あるいはもっといえば、大きかったり、小さかったりする。さらには墨継ぎがあったり、墨継ぎがなかったりすると。そういうところにまで遡っていかないと、その歌の本当の姿にまでたどり着けないのです。少なくとも濁音を入れては駄目だし、平仮名で書かれているものを漢字に換えてしまったら駄目なのですね、これは全然別のものになります。
たとえば「はる」と書いているのを、意味をとって「春」という漢字に宛てているものを一所懸命勉強しても、「はる」というのは「張る」というニュアンスも中に含んでいるわけです。楓の木の芽が中から赤く色づいて張ってきているのです。そういうものが「はる」という言葉の中にはあるわけです。それを活字に換えて、なおかつ「春」と漢字一字に宛ててしまうと、「張る」ということが見えなくなってしまいます。
P206
書というのは作者が手にした筆記具の尖端の筆尖が対象つまり紙に対してはたらきかけ、それに対して対象から返答を返していくという相互の力が演じる劇(ドラマ)です。さらさら、すらすら、ざらざらというような表面をなぞり、表面を流れていくような、そういうほのかな対象との関係ではなく、作者が対象に対してギュッと時間を止めて、奥にグッと力を向けていくような深い関係を取り結ぶようになります。作者が対象の存在をまさぐるわけです。
喩えて言えば、今までの書は、人が町の中を歩いているときに人と軽くすれ違いながら進んでいくという姿であったものが、いわばドンとぶつかる。ドンとぶつかるということは、「おっ」、というふうに相手を知る。相手を知ると、相手が「このやろう」と言うのか、「すみません」と言うのか知りませんが、そこで新たな関係が生じる。つまり対象を知ることよって自己を知ることになります。対象と自己というものが姿を鮮明にしてくるわけです。
#楽隠居です
剣術でこじつけてみると、「単語が体内操作なら、文体は型」だと言えるかもしれませんなぁ~
また、「構え」が漢字的なイメージだとすると、「位」は平仮名的かな?
剣が筆だとすれば、一刀流の「水に字を書く」という表現につながります。
治療との関係で言えば、筆が指先だとすると、紙は皮膚なんでしょうねぇ~
『対象に対してはたらきかけ、それに対して対象から返答を返していくという相互の力が演じる劇(ドラマ)』これは、武術や治療と共通なのかも・・・
『対象を知ることによって自己を知る』
映る・移るということとも関係あるのかなぁ~
参照1:水に書く
参照2:ネコ殿 デリカシー日記 2/22
参照3:移るから映るへ
参照4:これまで身につけたいろいろな過去の蓄積を生かす
参照5:いろいろの「みる」
参照6:選択肢の豊かさ
☆リンク先で更新された記事
・筆遣い
・受けと攻め
・検証していく
・山科セミナー始動
・「ひとつひとつ乗り越える」
・本の紹介13
by centeringkokyu
| 2011-04-27 21:50
| 書き方関連