2010年 08月 03日
かすれと余白 |
「かな古筆美の研究」第七巻 総論「ほんとうのかな」からご紹介します。
かすれとはどんなことか、ということを考えてみて下さい。それを言葉でいえますか。どういうことになったのを、かすれたというのでしょうか。筆の毛が働きにくくなったというのは結果です。その書いた地紙が、点画の中に表れたところを、かすれと言います。点画の中に地紙が表れないところは濃いところです。そこには墨がたっぷりついている。ですから、同一の墨色であってかすれが出てくるということは、地紙が出てくるということである。これは非常に簡単なことですけれども、重要なことなのです。他にもうひとつ、濃淡の意味がある。それはどういうことかと申しますと、水分の多少によって濃淡が出てくる。「水分が多ければ薄く、水分が少なければ濃いわけです。
これをうまく使ったのが画家です。画家の用いる濃淡というのは、水分の多少を言うのです。もちろんかすれというものも用いていますけれども、多くは水分の多少によって表れるものです。いずれにしても、墨を薄くするといっても、薄くなると結局は地紙の色がよく出てくることになる。結果は同じことですけれど、表れ方が違ってくるわけなのです。
かすれが出てくるということは、もうひとつの見方をすれば墨の量が減ってきて、だんだん消滅に近づいていくということです。つまり紙面にのる墨の分量が、なくなっていく方に近づいていくということです。墨がなくなってくると薄くなって、地紙が出てくる。地紙は、我々の芸術の表現の場でありますけれども、地紙というものは、我々の表現のどの部分に入っているかということを考えてみて下さい。これが空白、余白の問題です。余白というのはそこにあるはずです。かすれてくるということ、墨が薄くなっていくということは、余白に近づいていくということなのです。こういうふうな考え方を、はっきりしておかなければ、墨を美に表現することはできないのです。
かすれとか薄いとかいうことは、点画の中の余白に近づいていく箇所である。濃いところは、独立の現象の集まっているところです。つまりそこのところで、墨色というものがはっきりするのです。薄いところはそうでなく、消滅しようとするところです。そこに当然強弱というものが、自ら付随してくるわけです。強弱というものが先にたつのではなくて、そういう表れの中に強弱が含まれている、ということになるわけです。裏を返して言えば、強弱を表現しようと思えば、墨量によって表現できる。たくさんつければ強く感じるでしょう。かすれたところは弱くなる。ですから、弱く表現しようと思う場合には、かすれがでてくればよいし、強く表現する時には、濃いところができてくればよい、ということになります。
そこで我々が書きますところのかなというものは、一行というものが構成の単位である。いかに一行を構成するかということが、かなのまず最初、研究しなければならない問題である。それから次に進んで、その出来上がった一行と右の行、左の行との関係が、そこにでてくるわけであります。そこに調和というものが表れる。調和をするためには、性質の異なるものをもってこなければ、調和というものは成立しないのです。調和は必ず性質の違うものがあって、初めて調和という現象がおこるので、同一のものを並べてもそこに調和はありません。そこで、点画の調和ということは、第一に先に申しましたところの、気色の濃淡による強弱の機会ということを考えなければなりません。強く出てきたところのその左右に、強いものを持ってきたのでは具合が悪いから、弱いものを持ってくるということで、調和が保てる。強と弱との性質の違うものをそこに持ってきて、うまく調和した時に美が生じるわけですから、墨継ぎということは、どこで継いでもよいのではないということになってくるわけです。ちょうど都合の良い、調和を保てるところの墨色にしていかなければならないというところに、表現の技があるのです。
参照1:言葉では表わせぬ+α
参照2:曖昧なままの・・・me?
参照3:間について
参照4:センタリング呼吸法
参照5:経絡指圧の理論と実際
参照6:経絡体操
自分の体を診れていないもよろしく!
かすれとはどんなことか、ということを考えてみて下さい。それを言葉でいえますか。どういうことになったのを、かすれたというのでしょうか。筆の毛が働きにくくなったというのは結果です。その書いた地紙が、点画の中に表れたところを、かすれと言います。点画の中に地紙が表れないところは濃いところです。そこには墨がたっぷりついている。ですから、同一の墨色であってかすれが出てくるということは、地紙が出てくるということである。これは非常に簡単なことですけれども、重要なことなのです。他にもうひとつ、濃淡の意味がある。それはどういうことかと申しますと、水分の多少によって濃淡が出てくる。「水分が多ければ薄く、水分が少なければ濃いわけです。
これをうまく使ったのが画家です。画家の用いる濃淡というのは、水分の多少を言うのです。もちろんかすれというものも用いていますけれども、多くは水分の多少によって表れるものです。いずれにしても、墨を薄くするといっても、薄くなると結局は地紙の色がよく出てくることになる。結果は同じことですけれど、表れ方が違ってくるわけなのです。
かすれが出てくるということは、もうひとつの見方をすれば墨の量が減ってきて、だんだん消滅に近づいていくということです。つまり紙面にのる墨の分量が、なくなっていく方に近づいていくということです。墨がなくなってくると薄くなって、地紙が出てくる。地紙は、我々の芸術の表現の場でありますけれども、地紙というものは、我々の表現のどの部分に入っているかということを考えてみて下さい。これが空白、余白の問題です。余白というのはそこにあるはずです。かすれてくるということ、墨が薄くなっていくということは、余白に近づいていくということなのです。こういうふうな考え方を、はっきりしておかなければ、墨を美に表現することはできないのです。
かすれとか薄いとかいうことは、点画の中の余白に近づいていく箇所である。濃いところは、独立の現象の集まっているところです。つまりそこのところで、墨色というものがはっきりするのです。薄いところはそうでなく、消滅しようとするところです。そこに当然強弱というものが、自ら付随してくるわけです。強弱というものが先にたつのではなくて、そういう表れの中に強弱が含まれている、ということになるわけです。裏を返して言えば、強弱を表現しようと思えば、墨量によって表現できる。たくさんつければ強く感じるでしょう。かすれたところは弱くなる。ですから、弱く表現しようと思う場合には、かすれがでてくればよいし、強く表現する時には、濃いところができてくればよい、ということになります。
そこで我々が書きますところのかなというものは、一行というものが構成の単位である。いかに一行を構成するかということが、かなのまず最初、研究しなければならない問題である。それから次に進んで、その出来上がった一行と右の行、左の行との関係が、そこにでてくるわけであります。そこに調和というものが表れる。調和をするためには、性質の異なるものをもってこなければ、調和というものは成立しないのです。調和は必ず性質の違うものがあって、初めて調和という現象がおこるので、同一のものを並べてもそこに調和はありません。そこで、点画の調和ということは、第一に先に申しましたところの、気色の濃淡による強弱の機会ということを考えなければなりません。強く出てきたところのその左右に、強いものを持ってきたのでは具合が悪いから、弱いものを持ってくるということで、調和が保てる。強と弱との性質の違うものをそこに持ってきて、うまく調和した時に美が生じるわけですから、墨継ぎということは、どこで継いでもよいのではないということになってくるわけです。ちょうど都合の良い、調和を保てるところの墨色にしていかなければならないというところに、表現の技があるのです。
参照1:言葉では表わせぬ+α
参照2:曖昧なままの・・・me?
参照3:間について
参照4:センタリング呼吸法
参照5:経絡指圧の理論と実際
参照6:経絡体操
自分の体を診れていないもよろしく!
by centeringkokyu
| 2010-08-03 00:01
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