2010年 07月 13日
埋められない日韓「精神」文化の隔たり 続 |
「私を劇的に変えた 日本の美風」呉善花著からご紹介します。
▼なぜ食事の礼議作法が正反対
日本人と韓国人は共にジャポニカ種のお米を食べるし、ご飯の炊き方も一緒だし、多くの外国人が敬遠する味噌汁を好むことでも同じである。しかし、行儀作法の面でほとんど正反対。日本ではご飯茶碗を手で持って食べるのが行儀のよい食べ方だけれども、韓国では手で持って食べるのはとても行儀の悪いことである。日本人は味噌汁のお椀を手で口に運んで飲むけれど、これは韓国人からすれば、とてもはしたない飲み方である。スプーンですくつて口に運ぶのが正しい飲み方である。また、韓国では「美味しく食べていますよ」ということを示す礼儀として、少々噛み音をたてながら食べるのがよい。これは日本ではとてもはしたない食べ方となる。
韓国にも日本にも鍋料理がたくさんあり、鍋を囲んでみんなでつつくのが大好きだ。でもつつき方が違っている。韓国では取り皿というものがない。鍋から直接スプーンで具をすくつてそのまま自分の口に運び、再び鍋にスプーンを持っていく。しかもスプーンで鍋を混ぜるのである。箸も「じか箸」である。これでみんなで食べている気持ちになれるのだ。日本では取り箸を使い、一人一人が自分の取り皿に運んで食べる。韓国人からすれば、とても冷たく感じられてしまうのだ。
日本人からすれば、クチャクチャ音をたてて食べたり、混ぜながら食べたり、「じか箸」「じかスプーン」の直接性は、たまらなく嫌なことである。インド人がご飯を手で食べたり、西洋人が最後にスープをズルズルツと音をたてて吸ったりしても、これは文化の違いだからと嫌な気分にはならない。それなのに、日本人と韓国人だとちょっとした違いが、「おかしな食べ方」「気持ち悪い食べ方」になってしまうところがある。
文化習慣の違いにすぎないのに、なぜ「変だ」と感じることになるのだろうか。外見だけでは日本人と韓国人の区別は誰にもつけられない。だから相手も自分と同じことをするはずだと錯覚してしまう。つまり我々は、無意識のうちの身内感覚に陥ってしまい、相手が外国人であることをつい忘れがちな間柄なのである。
▼朝鮮の民芸への日本人の美意識
柳宗悦(やなぎむねよし)は朝鮮の民芸をこよなく愛した。そのお弟子筋にあたると思われる民芸家尾久彰三氏は、李朝十五~十六世紀につくられた愛用の粉引の盃について次のように書いている。
「盃には、粉引の見所である雨漏りのような斑点が少し浮かんでおり、何となく貧くさいところに、似たもの同士の親しみを感ずる。このような粉引は、釉はげが出たり、ぽつぽつ穴が出て、そこから食品が浸み込んで、使う程に汚れていく。この汚れを美しいと見たのが日本の茶人で、朝鮮の人には我慢のならない所であった。その証拠にこの技法は早々にすたれている」 (尾久彰三 「李朝のもの」 『Yu-raku』一九九五年五月号)
文中の 「似たもの同士」の「似たもの」とは、同時代につくられた三島手の油を入れる小瓶なのだが、尾久氏はこれを徳利として使っている。
盃にしろ油瓶にしろ、掲載された写真から見ていかにも貧相なものだ。名もなき職人の手になる、使い古された庶民の生活雑器である。尾久氏は、「日本独特の美意識を知るには格好の盃と思って」常用している、「飲む程に美しく見えてくる」という。
この品を見て、たいていの韓国人は何の関心も示さないだろうし、たいていの日本人は「これはいい」と思わず惚れ込んでしまうに違いないと思える。私のように来日数年で、前者から後者への変身を遂げた者はそれほど多くはないと思う。
このような品は、本家本元の朝鮮では「犬の食器」のようだと卑しまれ、とうてい美しものではあり得なかった。庶民から貴族に至るまで、絶頂期の高麗青磁や李朝白磁に象徴される、どこまでも妥協なく磨き抜かれたようにつやつやしい肌の輝き、繊細なまでに薄い器体、完壁なまでに歪みなく整えられた形、その気品に溢れた優雅な美しさに憧れた。この美意識は現代韓国人でも変わりはない。
器体が歪み、釉がはげ、小穴が空き、汚れが浸み込み……そこがなんともいえなくいいという美意識は日本独特のものである。他のどの国にもそんな美意識の広がりはない。ただ、庶民が日常的に使ってきた歴史と骨董趣味があるだけである。
▼かくも異なる日・韓のビジネス・マインド(抜粋)
日本に来てまもないころ、はじめてアルバイトをした小さな貿易会社では、社長自らが荷物の梱包について、あれこれと細かい指示を出したりするので驚いたことがある。なぜ社長が、下の者にまかせておけばいい細かいところにまで気を使うのか、それでよく経営ができるなと思ったものである。
中国人でも韓国人でも、「人の上に立つべき者」と「人の下に立つべき者」との役割が、最初からはっきりと区別されている。下の者は細々としたことをやり、上の者は大きなことをやる。そこでは、細々としたこととは現場的なことや技術的なことであり、大きなこととは統括・管理・運営にかかわることである。
ようするに、中国人や韓国人の理想的な職業イメージを形づくつているのは、伝統的なゼネラリストとしての文官なのである。けっして武官ではなく、専門技術者でもない。
それに対して、日本人の理想的な職業イメージははっきりしない。ただ、多くの人たちが、小さなことをコツコツと積み上げていけば、必ず立派なものになるということを、どこかで信じていると思える。自覚的にそうするというよりは、とにかく何かに向き合えば、自ずとそうしてしまうものだ、そうやって何かをものにしていくことになるものだ、人間にはそういう自然な資質のようなものがある、ということが多くの日本人には強く信じられていると感じるのである。
テレビの放送大学の放映で知ったのだが、バレーボールの球にモザイク様の表皮を張りつけるのはいまだに手作業で、日本人の熟練工が一日にこなす量はタイの熟練工が一日にこなす量の何倍かになるという。しかも、日本の場合は何個つくつても給料は変わらないが、タイではつくる個数と賃金をリンクさせた能力給で行なわれている。それなのに、なぜタイの労働者は日本人の労働者よりも作業が遅いのか。日本人の現場監督者によれば、「タイの労働者は小さなムダが多く、自分なりに工夫してムダをなくしていこうとする努力が感じられない」とのことだった。
やはり、物事に向き合う姿勢が違う。細部への関心のもち方が違う。書名を失念してしまったのだが、今西錦司博士の本のなかに、「(自然科学を研究するには)細かい方法を使って、細かいことをやるというのではなくて、じかに体当たりして、皮膚で受け止めていくというやり方がある」という意味の言葉があった。まさにこれだ、と思った。
仕事に向き合っていると、いつしかそのように身体で覚えていこうとするのではないか、身体化していこうとするのではないか。対象を客観的に細かく分析するのではなく、対象と一体化していこうとするのだといえば、手で磨くことでどんなコンピュータ制御の工作機械で磨くよりも精密な水平率を出すという、日本人のあの神業ともいえる手先の身体技術にぴったりだと思える。
日本人の、そうした身体で覚えていこうとする姿勢は、技術職だけではなく、事務職から管理職まで、また今西博士のように学問研究においても、かなり根強くいきわたっていると感じられる。そこから生まれてくるのが、「物事への細やかな視線」といわれるものではないのだろうか。
これは、いいかえれば、「対象を外側から眺めるだけではなく、対象の内側へ入っていこうとする意識の働きの強さ」、あるいは「対象との同化意識の強さ」といえる。これが日本人に特有な資質としてあり、それが他の国にはない「日本の強さ」となって、さまざまな面に現れている、ということができるだろう。
ただ、この資質の発揮は、あらゆる舞台で有効な作用をもたらすとはいえない。逆に大きなマイナス作用を生み出すこともあり得る。私はそれを政治の分野、とくに外交の舞台に感じないではいられない。
日本の外交姿勢は、私の目から見ると、かなりの自己犠牲を最初から受け入れようとしているものと映る。日本の外交姿勢は、よくも悪くも日本人一般の「他者への思いやり」のあり方、資質としての「対象への同化意識の強さ」を、そのまま発揮しているのではないか、との印象を強く受ける。
ほんとうは自分はこうしたいのだけれども、相手がそう思っているならばそうしてあげよう、といったことは、個人と個人の問では必要なことも多い。また、ほんとうは自分はこうしたいのだけれども、まわりが納得しないから、仕方なくこうしよう、ということも社会的な調和を重んじる姿勢からは必要な場合もあるだろう。しかし、それをそのまま国家間の関係に延長することはできない。
国際法上はすでに解決ずみの問題だけれども、相手が謝れというならば、謝る必要はないと思うものの、謝ってあげよう……。核実験をしないことを条件にお金を貸してあげたのだけれども、相手の事情もあることだから、少しの猶予期間をおいて、また貸してあげよう……。自主的に金利を決めたいのだけれども、アメリカの事情もあるので、常にアメリカよりは低くしておこう……。憲法上は自衛隊の海外派兵はできないのだけれども、まわりが納得しないから、最低限の形だけはなんとかとっておこう……。
ほんとうに、こんなふうに考えているのかどうかはわからないが、そう見えるのである。それは私だけではなく、諸外国の人々に聞いてみても、たいていはそう見えるという。しかし、実際に見えるのは結果だけで、日本の真意は堆測するしかない。とすれば、どうしてもそう見えてくる、ということなのである。
日本の真意とは国家意志である。さらにいえば国家の理念である。日本には、日本の理念・理想を声高らかに掲げ、それを押し立てて国際的な外交舞台で打々発止(ちょうちょうはっし)とやり合ってほしい。いや、やっている、といわれる方もあるかもしれない。だとすれば、それはやり方が悪いというしかない。
実際、「日本とはこういう理念・理想をもった国だ」という国際的な通用性が存在しているとはいえないからだ。
私は、日本は官民協力のもとに、本格的な外交専門家の養成機関をつくることが急務ではないかと思っている。アメリカには外交問題評議会(CFR) があるが、これは民間組織であるため、結果的には財界主導型で国際戦略エリートたちを官界へ送りこむことになっている。日本は、現在では基本的に官界主導型といえるが、そこに民の力を加えていくことがぜひとも望まれる。
日本や韓国のように同質性の強い社会では、求心力や分散力の働きが弱まれば、組織は必ず硬直していく。日本人の場合は、そこに「対象との同化意識の強さ」が悪く働いてしまう。そうならないためには、常に異質なものを内部に発生させたり、外部から導入したりしながら、内部の多様性を保持していかなくてはならない。いまや、あちこちで対抗関係すら生み出されている官と民。この異化結合が現在、重要なテーマとなっているのではないだろうか。
参照1:日本は国連のスポンサーだ!
参照2:【日韓歴史研究】「共同研究は不毛」
参照3:歴史教科書
参照4:日本のアニメをパクリまくる韓国
参照5:韓国の反日についてですが、どうしても理解出来ません。
参照6:武寧王はなぜ日本で生まれたのか
▼なぜ食事の礼議作法が正反対
日本人と韓国人は共にジャポニカ種のお米を食べるし、ご飯の炊き方も一緒だし、多くの外国人が敬遠する味噌汁を好むことでも同じである。しかし、行儀作法の面でほとんど正反対。日本ではご飯茶碗を手で持って食べるのが行儀のよい食べ方だけれども、韓国では手で持って食べるのはとても行儀の悪いことである。日本人は味噌汁のお椀を手で口に運んで飲むけれど、これは韓国人からすれば、とてもはしたない飲み方である。スプーンですくつて口に運ぶのが正しい飲み方である。また、韓国では「美味しく食べていますよ」ということを示す礼儀として、少々噛み音をたてながら食べるのがよい。これは日本ではとてもはしたない食べ方となる。
韓国にも日本にも鍋料理がたくさんあり、鍋を囲んでみんなでつつくのが大好きだ。でもつつき方が違っている。韓国では取り皿というものがない。鍋から直接スプーンで具をすくつてそのまま自分の口に運び、再び鍋にスプーンを持っていく。しかもスプーンで鍋を混ぜるのである。箸も「じか箸」である。これでみんなで食べている気持ちになれるのだ。日本では取り箸を使い、一人一人が自分の取り皿に運んで食べる。韓国人からすれば、とても冷たく感じられてしまうのだ。
日本人からすれば、クチャクチャ音をたてて食べたり、混ぜながら食べたり、「じか箸」「じかスプーン」の直接性は、たまらなく嫌なことである。インド人がご飯を手で食べたり、西洋人が最後にスープをズルズルツと音をたてて吸ったりしても、これは文化の違いだからと嫌な気分にはならない。それなのに、日本人と韓国人だとちょっとした違いが、「おかしな食べ方」「気持ち悪い食べ方」になってしまうところがある。
文化習慣の違いにすぎないのに、なぜ「変だ」と感じることになるのだろうか。外見だけでは日本人と韓国人の区別は誰にもつけられない。だから相手も自分と同じことをするはずだと錯覚してしまう。つまり我々は、無意識のうちの身内感覚に陥ってしまい、相手が外国人であることをつい忘れがちな間柄なのである。
▼朝鮮の民芸への日本人の美意識
柳宗悦(やなぎむねよし)は朝鮮の民芸をこよなく愛した。そのお弟子筋にあたると思われる民芸家尾久彰三氏は、李朝十五~十六世紀につくられた愛用の粉引の盃について次のように書いている。
「盃には、粉引の見所である雨漏りのような斑点が少し浮かんでおり、何となく貧くさいところに、似たもの同士の親しみを感ずる。このような粉引は、釉はげが出たり、ぽつぽつ穴が出て、そこから食品が浸み込んで、使う程に汚れていく。この汚れを美しいと見たのが日本の茶人で、朝鮮の人には我慢のならない所であった。その証拠にこの技法は早々にすたれている」 (尾久彰三 「李朝のもの」 『Yu-raku』一九九五年五月号)
文中の 「似たもの同士」の「似たもの」とは、同時代につくられた三島手の油を入れる小瓶なのだが、尾久氏はこれを徳利として使っている。
盃にしろ油瓶にしろ、掲載された写真から見ていかにも貧相なものだ。名もなき職人の手になる、使い古された庶民の生活雑器である。尾久氏は、「日本独特の美意識を知るには格好の盃と思って」常用している、「飲む程に美しく見えてくる」という。
この品を見て、たいていの韓国人は何の関心も示さないだろうし、たいていの日本人は「これはいい」と思わず惚れ込んでしまうに違いないと思える。私のように来日数年で、前者から後者への変身を遂げた者はそれほど多くはないと思う。
このような品は、本家本元の朝鮮では「犬の食器」のようだと卑しまれ、とうてい美しものではあり得なかった。庶民から貴族に至るまで、絶頂期の高麗青磁や李朝白磁に象徴される、どこまでも妥協なく磨き抜かれたようにつやつやしい肌の輝き、繊細なまでに薄い器体、完壁なまでに歪みなく整えられた形、その気品に溢れた優雅な美しさに憧れた。この美意識は現代韓国人でも変わりはない。
器体が歪み、釉がはげ、小穴が空き、汚れが浸み込み……そこがなんともいえなくいいという美意識は日本独特のものである。他のどの国にもそんな美意識の広がりはない。ただ、庶民が日常的に使ってきた歴史と骨董趣味があるだけである。
▼かくも異なる日・韓のビジネス・マインド(抜粋)
日本に来てまもないころ、はじめてアルバイトをした小さな貿易会社では、社長自らが荷物の梱包について、あれこれと細かい指示を出したりするので驚いたことがある。なぜ社長が、下の者にまかせておけばいい細かいところにまで気を使うのか、それでよく経営ができるなと思ったものである。
中国人でも韓国人でも、「人の上に立つべき者」と「人の下に立つべき者」との役割が、最初からはっきりと区別されている。下の者は細々としたことをやり、上の者は大きなことをやる。そこでは、細々としたこととは現場的なことや技術的なことであり、大きなこととは統括・管理・運営にかかわることである。
ようするに、中国人や韓国人の理想的な職業イメージを形づくつているのは、伝統的なゼネラリストとしての文官なのである。けっして武官ではなく、専門技術者でもない。
それに対して、日本人の理想的な職業イメージははっきりしない。ただ、多くの人たちが、小さなことをコツコツと積み上げていけば、必ず立派なものになるということを、どこかで信じていると思える。自覚的にそうするというよりは、とにかく何かに向き合えば、自ずとそうしてしまうものだ、そうやって何かをものにしていくことになるものだ、人間にはそういう自然な資質のようなものがある、ということが多くの日本人には強く信じられていると感じるのである。
テレビの放送大学の放映で知ったのだが、バレーボールの球にモザイク様の表皮を張りつけるのはいまだに手作業で、日本人の熟練工が一日にこなす量はタイの熟練工が一日にこなす量の何倍かになるという。しかも、日本の場合は何個つくつても給料は変わらないが、タイではつくる個数と賃金をリンクさせた能力給で行なわれている。それなのに、なぜタイの労働者は日本人の労働者よりも作業が遅いのか。日本人の現場監督者によれば、「タイの労働者は小さなムダが多く、自分なりに工夫してムダをなくしていこうとする努力が感じられない」とのことだった。
やはり、物事に向き合う姿勢が違う。細部への関心のもち方が違う。書名を失念してしまったのだが、今西錦司博士の本のなかに、「(自然科学を研究するには)細かい方法を使って、細かいことをやるというのではなくて、じかに体当たりして、皮膚で受け止めていくというやり方がある」という意味の言葉があった。まさにこれだ、と思った。
仕事に向き合っていると、いつしかそのように身体で覚えていこうとするのではないか、身体化していこうとするのではないか。対象を客観的に細かく分析するのではなく、対象と一体化していこうとするのだといえば、手で磨くことでどんなコンピュータ制御の工作機械で磨くよりも精密な水平率を出すという、日本人のあの神業ともいえる手先の身体技術にぴったりだと思える。
日本人の、そうした身体で覚えていこうとする姿勢は、技術職だけではなく、事務職から管理職まで、また今西博士のように学問研究においても、かなり根強くいきわたっていると感じられる。そこから生まれてくるのが、「物事への細やかな視線」といわれるものではないのだろうか。
これは、いいかえれば、「対象を外側から眺めるだけではなく、対象の内側へ入っていこうとする意識の働きの強さ」、あるいは「対象との同化意識の強さ」といえる。これが日本人に特有な資質としてあり、それが他の国にはない「日本の強さ」となって、さまざまな面に現れている、ということができるだろう。
ただ、この資質の発揮は、あらゆる舞台で有効な作用をもたらすとはいえない。逆に大きなマイナス作用を生み出すこともあり得る。私はそれを政治の分野、とくに外交の舞台に感じないではいられない。
日本の外交姿勢は、私の目から見ると、かなりの自己犠牲を最初から受け入れようとしているものと映る。日本の外交姿勢は、よくも悪くも日本人一般の「他者への思いやり」のあり方、資質としての「対象への同化意識の強さ」を、そのまま発揮しているのではないか、との印象を強く受ける。
ほんとうは自分はこうしたいのだけれども、相手がそう思っているならばそうしてあげよう、といったことは、個人と個人の問では必要なことも多い。また、ほんとうは自分はこうしたいのだけれども、まわりが納得しないから、仕方なくこうしよう、ということも社会的な調和を重んじる姿勢からは必要な場合もあるだろう。しかし、それをそのまま国家間の関係に延長することはできない。
国際法上はすでに解決ずみの問題だけれども、相手が謝れというならば、謝る必要はないと思うものの、謝ってあげよう……。核実験をしないことを条件にお金を貸してあげたのだけれども、相手の事情もあることだから、少しの猶予期間をおいて、また貸してあげよう……。自主的に金利を決めたいのだけれども、アメリカの事情もあるので、常にアメリカよりは低くしておこう……。憲法上は自衛隊の海外派兵はできないのだけれども、まわりが納得しないから、最低限の形だけはなんとかとっておこう……。
ほんとうに、こんなふうに考えているのかどうかはわからないが、そう見えるのである。それは私だけではなく、諸外国の人々に聞いてみても、たいていはそう見えるという。しかし、実際に見えるのは結果だけで、日本の真意は堆測するしかない。とすれば、どうしてもそう見えてくる、ということなのである。
日本の真意とは国家意志である。さらにいえば国家の理念である。日本には、日本の理念・理想を声高らかに掲げ、それを押し立てて国際的な外交舞台で打々発止(ちょうちょうはっし)とやり合ってほしい。いや、やっている、といわれる方もあるかもしれない。だとすれば、それはやり方が悪いというしかない。
実際、「日本とはこういう理念・理想をもった国だ」という国際的な通用性が存在しているとはいえないからだ。
私は、日本は官民協力のもとに、本格的な外交専門家の養成機関をつくることが急務ではないかと思っている。アメリカには外交問題評議会(CFR) があるが、これは民間組織であるため、結果的には財界主導型で国際戦略エリートたちを官界へ送りこむことになっている。日本は、現在では基本的に官界主導型といえるが、そこに民の力を加えていくことがぜひとも望まれる。
日本や韓国のように同質性の強い社会では、求心力や分散力の働きが弱まれば、組織は必ず硬直していく。日本人の場合は、そこに「対象との同化意識の強さ」が悪く働いてしまう。そうならないためには、常に異質なものを内部に発生させたり、外部から導入したりしながら、内部の多様性を保持していかなくてはならない。いまや、あちこちで対抗関係すら生み出されている官と民。この異化結合が現在、重要なテーマとなっているのではないだろうか。
参照1:日本は国連のスポンサーだ!
参照2:【日韓歴史研究】「共同研究は不毛」
参照3:歴史教科書
参照4:日本のアニメをパクリまくる韓国
参照5:韓国の反日についてですが、どうしても理解出来ません。
参照6:武寧王はなぜ日本で生まれたのか
by centeringkokyu
| 2010-07-13 00:01
| 本などの紹介