2005年 04月 01日
指圧事始め |
増永静人著「経絡と指圧」から、抜粋します。興味のある方は、是非共原本をお読みください。私には、増永氏と浪越徳治郎氏との関係が、何となく植芝盛平翁と藤平光一氏との関係とダブってしまうのです。日本の文化を外国人に伝えようとした事や、師匠と違った方法になってしまった事も共通しているのです。では、ご紹介します。
世界的に指圧の広まった現在、指圧をこれほど有名にした力は、直接間接に浪越徳治郎氏に負うところが大きい、ということも疑えない事実である。これを可能にしたのは浪越氏の指圧の実力とそのタレントぶりにあるのだが、これに手を貸したのは戦後急激に増大したマスコミの影響力である。
昭和五年の秋、北海道で指圧治療所を開いていた浪越氏は、石丸悟平氏を助けたことでその指に十万円の傷害保険をかけてもらい、この記事がマスコミにのって、東京進出のチャンスを掴んだとその著「三分間指圧」の中で書いておられる。これは戦後マリリン・モンローの指圧によって再び波に乗ったのと同じようなケースで、浪越氏に衆目を集める事件であり、それによって指圧への関心を高める効果の大きかったことも確かだ。
昭和初年に開業したときは、圧迫法という名でやっていたのだから、たまたま指圧という名称を聞き、これはよい名だと思い「それ以後指圧を名のってきた」とこれは本人が公開の席で話されたことで、もう二十年近くも前のことだから御本人も忘れておられるだろうが、私はだから浪越式と名づけられたのは当然だとその時なっとくした覚えがある。
大黒氏は指圧の名称が生まれたのは大正九年以後のことだと断定されている。その根拠はこの年まではマッサージの名で「あん摩でない手技療法」が無免許で行えたので、格別な名前を必要としなかった。ところがあん摩についで、この年にマッサージも又取締規則でしばられるようになった。
ちょうどその頃アメリカからマッサージとは異る近代用手療法(オステオパシー・カイロプラクテック、スポンジロテラピー等)が次々と舶来されてきたのでこの理論や手技を借用してその後盾とした、無免許で行う手技療法が続出したのである。外国名をそのまゝ用いたものもあったが、これに日本的な新しい名称をつけてやり出すものも多かった。その種類三百余、療術は種類が多くて規制の仕方がないと厄介視された各種治療法の中で、手技療術も多種あったが、これを療術五種、即ち光線・温熱・電気・刺激・指圧に分類して昭和五年に療術行為を取締る規則ができた。手技を指圧としたのは、あん摩・マッサージも手技治療であり、これと混同させないため、代表的な指圧の名称を採用したわけである。
「玉井天碧氏が指圧療法を提唱し、治療や講習を始めたのは大正初期であったと思ってよい。指圧療法創始者玉井天碧著とその本の扉にある通り、おそらく“指圧療法”という名称を用い始めたのは玉井氏であったらしい。この頃以前には指圧療法という名称は無かったようだ」という大黒氏の証言が最も正鵠を得ていると思う(以上の引用は全て全療新聞から)。
私は昭和十六年頃やはり母に連れられてそうした手技療術の一つである生気療法の講習と治療を受けたことがある。この療法の創始者が石井常治(石井常造?)という陸軍中将であったため、私が習ったのはその弟子の杉山少将という退役軍人だった。この人も当時七十才を越え、室に入ってくる人を一目見て「お前は婦人科が悪いな、足の小指が曲っているだろう」と大声で云われ、事実その通りなので驚いてしまった。また遠隔診断といって一米以上離れた所から患者の方に手を向けて、「お前の右耳が悪い、左脚が痛んでいる」といって実際に的中することも学んだ。治療は両手を使って経絡の二点を押さえて病源を探っていって治すのと自己運動をやらせることで、それほど素晴しいとは思わなかったが、診断には全く驚嘆したし、そのことが将来私の経絡指圧診断法を形造ってゆく根底になったと思う。「いくら修行したからといってあの人に出来るのなら、私もまた必ず出来るに違いない。いつかはそれがわかるようになる」という信念のようなものが私にあった。事実を目のあたり見るということ、これが最近になって騒がれている実感教育であって、学校教育ではなかなか与えにくいもので、東洋古来の一子相伝とか塾教育の真価がここにあると気付き、今でも私はそのことを有難く思っている。
生気療法は退役軍人が中心になっていたので、治療も講習も奉仕的なものだった。母が町内の配属将校の娘さんの指圧を頼まれていたとき、その杉山少将も見えたのが縁で丹定に出入できるようになったので、早速兄と私も連れてゆき、子供にも教えてほしいと頼んだ。
杉山少将に「この治療は誰にでも出来るというもんではない。それに若い女の体にも触れんならんのだから若いもんには駄目だ」と一喝されたが、母は即座に「私の子供は3才から合掌させておりますし、異性に対してもみだらな思いをもつようには育てておりません」ときっばり答えた。それが気に入られたようで、私たちの入門がゆるされて一年近くも杉山少将の出張日には丹定に通って習ったものである。
参照1:感応法
参照2:神経の訓練法
世界的に指圧の広まった現在、指圧をこれほど有名にした力は、直接間接に浪越徳治郎氏に負うところが大きい、ということも疑えない事実である。これを可能にしたのは浪越氏の指圧の実力とそのタレントぶりにあるのだが、これに手を貸したのは戦後急激に増大したマスコミの影響力である。
昭和五年の秋、北海道で指圧治療所を開いていた浪越氏は、石丸悟平氏を助けたことでその指に十万円の傷害保険をかけてもらい、この記事がマスコミにのって、東京進出のチャンスを掴んだとその著「三分間指圧」の中で書いておられる。これは戦後マリリン・モンローの指圧によって再び波に乗ったのと同じようなケースで、浪越氏に衆目を集める事件であり、それによって指圧への関心を高める効果の大きかったことも確かだ。
昭和初年に開業したときは、圧迫法という名でやっていたのだから、たまたま指圧という名称を聞き、これはよい名だと思い「それ以後指圧を名のってきた」とこれは本人が公開の席で話されたことで、もう二十年近くも前のことだから御本人も忘れておられるだろうが、私はだから浪越式と名づけられたのは当然だとその時なっとくした覚えがある。
大黒氏は指圧の名称が生まれたのは大正九年以後のことだと断定されている。その根拠はこの年まではマッサージの名で「あん摩でない手技療法」が無免許で行えたので、格別な名前を必要としなかった。ところがあん摩についで、この年にマッサージも又取締規則でしばられるようになった。
ちょうどその頃アメリカからマッサージとは異る近代用手療法(オステオパシー・カイロプラクテック、スポンジロテラピー等)が次々と舶来されてきたのでこの理論や手技を借用してその後盾とした、無免許で行う手技療法が続出したのである。外国名をそのまゝ用いたものもあったが、これに日本的な新しい名称をつけてやり出すものも多かった。その種類三百余、療術は種類が多くて規制の仕方がないと厄介視された各種治療法の中で、手技療術も多種あったが、これを療術五種、即ち光線・温熱・電気・刺激・指圧に分類して昭和五年に療術行為を取締る規則ができた。手技を指圧としたのは、あん摩・マッサージも手技治療であり、これと混同させないため、代表的な指圧の名称を採用したわけである。
「玉井天碧氏が指圧療法を提唱し、治療や講習を始めたのは大正初期であったと思ってよい。指圧療法創始者玉井天碧著とその本の扉にある通り、おそらく“指圧療法”という名称を用い始めたのは玉井氏であったらしい。この頃以前には指圧療法という名称は無かったようだ」という大黒氏の証言が最も正鵠を得ていると思う(以上の引用は全て全療新聞から)。
私は昭和十六年頃やはり母に連れられてそうした手技療術の一つである生気療法の講習と治療を受けたことがある。この療法の創始者が石井常治(石井常造?)という陸軍中将であったため、私が習ったのはその弟子の杉山少将という退役軍人だった。この人も当時七十才を越え、室に入ってくる人を一目見て「お前は婦人科が悪いな、足の小指が曲っているだろう」と大声で云われ、事実その通りなので驚いてしまった。また遠隔診断といって一米以上離れた所から患者の方に手を向けて、「お前の右耳が悪い、左脚が痛んでいる」といって実際に的中することも学んだ。治療は両手を使って経絡の二点を押さえて病源を探っていって治すのと自己運動をやらせることで、それほど素晴しいとは思わなかったが、診断には全く驚嘆したし、そのことが将来私の経絡指圧診断法を形造ってゆく根底になったと思う。「いくら修行したからといってあの人に出来るのなら、私もまた必ず出来るに違いない。いつかはそれがわかるようになる」という信念のようなものが私にあった。事実を目のあたり見るということ、これが最近になって騒がれている実感教育であって、学校教育ではなかなか与えにくいもので、東洋古来の一子相伝とか塾教育の真価がここにあると気付き、今でも私はそのことを有難く思っている。
生気療法は退役軍人が中心になっていたので、治療も講習も奉仕的なものだった。母が町内の配属将校の娘さんの指圧を頼まれていたとき、その杉山少将も見えたのが縁で丹定に出入できるようになったので、早速兄と私も連れてゆき、子供にも教えてほしいと頼んだ。
杉山少将に「この治療は誰にでも出来るというもんではない。それに若い女の体にも触れんならんのだから若いもんには駄目だ」と一喝されたが、母は即座に「私の子供は3才から合掌させておりますし、異性に対してもみだらな思いをもつようには育てておりません」ときっばり答えた。それが気に入られたようで、私たちの入門がゆるされて一年近くも杉山少将の出張日には丹定に通って習ったものである。
参照1:感応法
参照2:神経の訓練法
by centeringkokyu
| 2005-04-01 21:26
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