2005年 03月 24日
全体を見ること |
再び、「花の姿」 華道家元四十四世 池坊専威著 から引用させて頂きます。といっても「不動智神妙録」の解説という事になっています。
澤庵禅師が、柳生但馬守のために書き送られたと伝へられてゐる、有名な「不動智神妙録」といふ書物の中に、次のやうなことがかゝれてある。
「千手観音とて、手が千御入り候は、弓をとる手に心が止まらば、九百九十九は、みな用に立ち申す間敷候。一所に心を止めぬにより手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに有るべく候。不動智が開け候へば、身に手が千ありても、皆用に立つといふことを、人に示さんがために作りたる容(かたち)にて候。
たとへば、一本の木に向うて、その内の赤き葉一つを見て居れば、残りの葉は見えぬなり。一葉一つに目をかけずして、一本の木に何心なく打ち向ひ候へば、数多の葉のこらず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の棄はみな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候」
これは柳生流の源をなしてゐる程の教へであって、柳生流の極意は、この不動智神妙録一巻であるとさへ言はれてゐる。
実に味ひ深い一文であって、一瓶の座に坐すものも、右の澤庵禅師の教へを常に心の中に反芻して、花をとゝのへていったならば必ず、調和のとれた立派な花が得られること疑ひのないことである。一ところに心をうばはれる勿れ、常に全体を見よ、といふのであるが、この全体も、瓶華全体の枝葉を見てゐるのではなく、全体の、どこにも目をつけずして、それでゐて全体のどこへにも目のつくやうな——さういふ全体の見方なのである。つまり「一本の木に何心なく打ち向ひ候へば、数多の葉のこらず目に見え候」といふのが、そのまゝ花をいける場合の極意でゞもあるのである。
これも剣道のはうの極意になってゐることで、「水月の矩(のり)」といふ教へがある。さきの禅師の木の葉の教へと同じく、一つの波に映った月影に心をとられてをれば、他の百千の月影は判らないが、しかしどの月影にも心をとめずに置けば瞬時にして全部の波に映った月影のどれにでも注意をむけることが出来ることを教へてゐるのである。この場合の月影とは千変萬化と打ちおろされてくる敵の刀のことをさして言ってゐるのであらう。味ふべき教へではなからうか。
しかし、このことも平常極く自然に行はれなくてはならぬのであって一瓶の座から離れてみて「何心なく一瓶に打ち向ひ」とか、「一ところに目を配らず全体に」——とか言った風に、殊更らに、さういふことを意識の中に置いて花をとゝのへてゐたのでは、こんどは花に対する「感度」といふものがにぶって了ふ。それであるから、「全体をみる」とか「何心なく打眺める」とかいふことも修業をつんだ上に立っての話であって、最初から、そのやうなことをしてみても、いたづらに、判らなくなって了ふばかりである。
むかでといふ虫は、百足とも書かれる文字通り足の多い虫であるが、あれでも、歩くときには、第何番目の足と何番目の足は一緒に出て、その次は何番目の足か出る、といふやうに、ちゃんと決った足の順番があるのに違いない。しかし、それは造化の神様だけが知ってのことで、むかで自身はしらずに歩いてゐるのである。もしも、むかでが何かの拍子に、自分の夥しい足の、歩く順番を教えへられて「はて、この次は三番目だったか二十五番目だったかな?」と考へ出したら、とても歩けなくなるのに相違ない。しまひにはむかでは神経衰弱になるであらう。
むかでは自然に会得した複雑なあの足の操作法に依って、極く自然に歩くことが出来るのであって、殊更らに、それを教へ込まれたならば動きがとれなくなって了ふやうに、一瓶の花をとゝのへるに際しても、右の禅師の言葉や水月の矩の教へを殊更らに実践するのではなく、極く自然に動きの中に移してゐる——修業が大切なのである。
要する一瓶の花をとゝのへるに際して、全体の調和を見定める極意は次の一言に定まるのである。
「気を奪はれることなく心を瓶華に向け、心を瓶華に向けつゝ気を失はず」 観世音菩薩のやうに「観自在」にこれをみることが出来れば大したものである。自在にこれを観るのである。この観るは、肉眼で見るのではなく、心の眼で観るのである。心眼に近い眼で自在に、花の姿を観察し全体の姿を調整することである。所謂、千手千眼の人となって、はじめて花の姿全体が判るのである。
※管理人です
下の写真は、ムカデの目貫です。ムカデは毘沙門天のお使いとも言われています。
ムカデは「百足」と書くように足が多い。つまり「おあし(お金)が多い」、それにあやかりたいという事のようです。
でも、お使いに行く時には、草鞋を履くのに手間取りすぎて、なかなか出発できないという小話もあります。
参照:こちらもどうぞ!
澤庵禅師が、柳生但馬守のために書き送られたと伝へられてゐる、有名な「不動智神妙録」といふ書物の中に、次のやうなことがかゝれてある。
「千手観音とて、手が千御入り候は、弓をとる手に心が止まらば、九百九十九は、みな用に立ち申す間敷候。一所に心を止めぬにより手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに有るべく候。不動智が開け候へば、身に手が千ありても、皆用に立つといふことを、人に示さんがために作りたる容(かたち)にて候。
たとへば、一本の木に向うて、その内の赤き葉一つを見て居れば、残りの葉は見えぬなり。一葉一つに目をかけずして、一本の木に何心なく打ち向ひ候へば、数多の葉のこらず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の棄はみな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候」
これは柳生流の源をなしてゐる程の教へであって、柳生流の極意は、この不動智神妙録一巻であるとさへ言はれてゐる。
実に味ひ深い一文であって、一瓶の座に坐すものも、右の澤庵禅師の教へを常に心の中に反芻して、花をとゝのへていったならば必ず、調和のとれた立派な花が得られること疑ひのないことである。一ところに心をうばはれる勿れ、常に全体を見よ、といふのであるが、この全体も、瓶華全体の枝葉を見てゐるのではなく、全体の、どこにも目をつけずして、それでゐて全体のどこへにも目のつくやうな——さういふ全体の見方なのである。つまり「一本の木に何心なく打ち向ひ候へば、数多の葉のこらず目に見え候」といふのが、そのまゝ花をいける場合の極意でゞもあるのである。
これも剣道のはうの極意になってゐることで、「水月の矩(のり)」といふ教へがある。さきの禅師の木の葉の教へと同じく、一つの波に映った月影に心をとられてをれば、他の百千の月影は判らないが、しかしどの月影にも心をとめずに置けば瞬時にして全部の波に映った月影のどれにでも注意をむけることが出来ることを教へてゐるのである。この場合の月影とは千変萬化と打ちおろされてくる敵の刀のことをさして言ってゐるのであらう。味ふべき教へではなからうか。
しかし、このことも平常極く自然に行はれなくてはならぬのであって一瓶の座から離れてみて「何心なく一瓶に打ち向ひ」とか、「一ところに目を配らず全体に」——とか言った風に、殊更らに、さういふことを意識の中に置いて花をとゝのへてゐたのでは、こんどは花に対する「感度」といふものがにぶって了ふ。それであるから、「全体をみる」とか「何心なく打眺める」とかいふことも修業をつんだ上に立っての話であって、最初から、そのやうなことをしてみても、いたづらに、判らなくなって了ふばかりである。
むかでといふ虫は、百足とも書かれる文字通り足の多い虫であるが、あれでも、歩くときには、第何番目の足と何番目の足は一緒に出て、その次は何番目の足か出る、といふやうに、ちゃんと決った足の順番があるのに違いない。しかし、それは造化の神様だけが知ってのことで、むかで自身はしらずに歩いてゐるのである。もしも、むかでが何かの拍子に、自分の夥しい足の、歩く順番を教えへられて「はて、この次は三番目だったか二十五番目だったかな?」と考へ出したら、とても歩けなくなるのに相違ない。しまひにはむかでは神経衰弱になるであらう。
むかでは自然に会得した複雑なあの足の操作法に依って、極く自然に歩くことが出来るのであって、殊更らに、それを教へ込まれたならば動きがとれなくなって了ふやうに、一瓶の花をとゝのへるに際しても、右の禅師の言葉や水月の矩の教へを殊更らに実践するのではなく、極く自然に動きの中に移してゐる——修業が大切なのである。
要する一瓶の花をとゝのへるに際して、全体の調和を見定める極意は次の一言に定まるのである。
「気を奪はれることなく心を瓶華に向け、心を瓶華に向けつゝ気を失はず」 観世音菩薩のやうに「観自在」にこれをみることが出来れば大したものである。自在にこれを観るのである。この観るは、肉眼で見るのではなく、心の眼で観るのである。心眼に近い眼で自在に、花の姿を観察し全体の姿を調整することである。所謂、千手千眼の人となって、はじめて花の姿全体が判るのである。
※管理人です
下の写真は、ムカデの目貫です。ムカデは毘沙門天のお使いとも言われています。
ムカデは「百足」と書くように足が多い。つまり「おあし(お金)が多い」、それにあやかりたいという事のようです。
でも、お使いに行く時には、草鞋を履くのに手間取りすぎて、なかなか出発できないという小話もあります。
参照:こちらもどうぞ!
by centeringkokyu
| 2005-03-24 21:02
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