2009年 08月 14日
祈りより感謝 |
根本仏教講義ホームの祈りより感謝から抜粋してご紹介します。
▼A・スマナサーラ長老の講義より
今日は「感謝」について考えてみたいと思います。まず感謝する対象とは誰なのでしょうか。たとえばあなたがお母さんのお金を使って車を買ったとします。そのとき、あなたがまったくの他人に向かって「私は新車を買いました。本当にありがとうございました」と言っても何の意味もありませんよね。自分のお母さんのお金を使ったのであればお母さんに感謝すべきである、というのが仏教の考え方です。基本はとても単純なことです。恩を受けたその相手に対して感謝の気持を持つということで、誰だか知らない人に感謝しても仕方がありません。
親に感謝する、教えてくれる先生に感謝する、目上の人に感謝する、知識人に感謝する、自分より道徳的に高い人に感謝する。仏教で祈る対象というのは、要は恩を受けた「他の人たち」です。
お釈迦様は、自分を少しでも助けてくれる人があったら一生その人の恩は忘れるな、恩を忘れるのは人間らしくないとまでおっしゃっています。
仏法僧に礼をするのも真実を教えてくれた先生だからであって、やみくもにただ感謝せよというのではありません。私がときどきおかしく思うのは、正しい生き方や人の心を清らかにする方法を教えてくれたお釈迦様に手を合わせるのを恥ずかしがる人が、コマ犬や獅子などに手を合わせる姿を見かけることなのです。師としてのお釈迦様に手を合わせることは、恥ずかしい「盲信」でもなんでもありません。ごくあたりまえの人間としての道徳だと思われませんか。その程度の文化的な心がなければ到底悟りなど開けません。
テーラワーダ仏教で仏法僧の3つに感謝するのは、仏法僧でなければこの教えをもらえないからに他なりません。得体の知れない他人に感謝しているのではなく、教えをもらった師に対しての礼なのです。その師は我々からいえば乗り越えられないほど偉い、大きなものなのです。自分の両親への恩というのは、いくらがんばっても返せないものなのだそうです。両親が自分にしてくれたこと、育ててくれたことにたいしてはいくらお金を払っても払いきれない、ですから感謝しなくてはいけないといいます。同じく仏法僧から教わる、心清らかにする教えというのは両親にも教えることができないものなのです。だから礼をするのであって、依存しているのでも盲信しているのでもありません。
重い心持ちでやることでもありません。気持ちよく、先生おはようございます!という感じで楽しくやることです。仏法僧に帰依するということは、先生といつも一緒にいるということなんですね。自分の面倒をよく見てくれる、自分の過ちをよく正してくれる、偉大なる先生といつも一緒にいるということが、三宝に帰依して活動することなのです。
なぜ、慈悲の冥想をするのだと思われますか?あの「天にまします我々の神様、ありがとうございます」というあいまいとした概念、正月だけ神社や寺に行って知らない神や仏に感謝するような意味のない思考、それを正すためなんです。なぜかというと、我々はすべての生命のお蔭で生きているからです。たとえば、私の着ている衣ひとつとってみてもどれほどの人の手を経てできたものかわかりません。糸、色、織り、またその機械を作った人やシステム開発した人など、何十人、何百人もの人間の協力でできあがったものです。何げなく手にするこの衣の裏に、どれほどの人が介在しているのでしょう。紅茶はもともとは東洋のものだけれど、缶を作るシステムや畑で量産する現代のシステムはヨーロッパ人が考えたものもあり、今口にする紅茶には東も西も全部入っていますよね。ですからその紅茶を飲むときには日本風に「いただきます」「ありがとうございます」と飲むことは正しいと思います。紅茶一杯飲めることも、ひとつの幸福です。それができたのはすべて多くの「人」のお蔭です。皆のおかげでできあがったわけですから誰かわからない相手に感謝するのではなくてやっぱり「生きとし生けるものが幸福でありますように」ではないでしょうか。
一杯の紅茶を飲んで幸福だと感じるならその幸福をくれた相手、つまり「生きとし生けるもの」の幸福をお祈りする義務がついてくるのです。それをしなければそれは借りになります。おいしい紅茶を飲んで「神様ありがとうございました」と言ったところで借りは返せないんです。お釈迦様ははっきりとおっしゃってます。生きとし生けるものは幸せでありますようにと心から祈ることで、自分の借りは全部消えるのだと。
ですから仏教では、誰かに向かってお祈りするというような唯一の相手はないのです。生きとし生けるものに対して慈しみの心を作ってください。そうすることであなたが得た幸福の借りを返したことになります。生きとし生けるものとは人間だけじゃないんですよ。人間は、他の生命もなければ存在しません。動物もみんな対象になります。さらに目に見える生命ばかりではなくて目に見えない生命もいっぱいある。その生命も、たとえ我々にわからなくても我々の生存と何か関係があるはずなのです。そんなすべての、限りない生命に対して慈悲の心を作ることです。
とは言え人は弱いものですから、どうしても誰かを仰ぎたいと思うとすれば、その相手は仏法僧しかありません。なぜなら仏法僧は偉大なる師だからです。輪廻解脱する方法を教えることのできる師は他にないからです。つまり「先生」としてということです。仏法僧の立場から見ると、ありがとうと感謝されたいと思っているのではないのですが、おはようございます、というような明るい気持ちで感謝の礼をすればよいと思います。毎朝お釈迦様の仏像の前で感謝の礼をすることは、人間としての立派な行為といえるのではないでしょうか。
そんなことが、「宗教じみてる」とか「盲信」だとか言う人にはあえて説明しようと思いませんが、そういう人は自由にすればいいと思うし、また個人的な信仰を持っているならそれもなさっていいのです。すべては個人の自由だからです。誰がどう考えようと私たちの答えはひとつです。すべての生命に慈悲の心を作ること…。そうすることではじめて、いただいている恩恵に感謝したことになるということです。神というひとつのエネルギーに支えられて生きているわけではなくて、我々みんなひとり一人が力を出し合って相互に依存しあってやっと、社会は成り立つのだということです。ただそれだけのことです。
そして我々は誰ひとり偉くはないのです。みんな同じです。
話を戻しますが、神様のような存在を作りそれに向かってお祈りしたがる人はカルマ論を否定している人です。カルマというのは、我々は自分の行動によって幸福にもなり不幸にもなる、心の持ち方次第で人生は決まるという考え方です。そうではなく神様のおかげで人間の運命が決められるのだとしたら、その神様という人はひどい人なのではありませんか。地球を見てもお腹いっぱいご飯を食べられる人より食べられない人の方が多いし、最新の医学の恩恵を受けられる人よりちょっとした痛気で死んでしまう人の数の方が多いわけですから、それなら人間を造った神様ほど悪い人はないのではありませんか。
カルマ論では、あなたが何かすると何か結果が生まれると言います。とても具体的でわかりやすい話ではないでしょうか。
#楽隠居です
地震や洪水で、お盆休みどころではなくなった方達もおられますが、私の方は、日々気楽に過ごさせていただいています。ありがたいことです。
それでも、パソコン(Mac)の調子が良くないので、予備のパソコン(Win)を使えるようにしようと、悪戦苦闘?を楽しんでいます。
水曜日は、中心塾難波教室がありましたし、木曜日は実家で両親の調整と毎日いろいろな予定がありましたので、今日は部屋の片付けをしないと、家から追い出されかねません!
ところで、この時期になると両親から「お前は、お墓参りも行かないバチアタリだ!」と罵られます。私は、「毎日必ず神仏やご先祖様に手を合わせて感謝してるから・・・」と言い訳?を繰り返すことになります。宗派が違うから仕方ないんでしょうねぇ〜
ところで、私が感謝できるご先祖様の基準は、「お年玉やお小遣いをくれたかどうか!」ということになっておりますので、その他のご先祖様には、悪しからずご了承いただきたいと祈っております・・・?
参照1:中国儒教文化で発展した大乗仏教
参照2:スマナサーラ長老の講習会
参照3:ブッダは最高の治療をする
参照4:ブタのふところ
参照5:知るための訓練 スローモーション
参照6:般若心経は間違い?
参照7:法句経
参照8:悟りながら生きる
参照9:悟りながら生きる 続
参照10:悟りながら生きる 続々
参照11:「あなたはいい人間か、悪い人間か」と問われたら
参照12:修行はあらゆる瞬間に
参照13:呼吸による癒し
参照14:センタリング呼吸法について教えてください
参照15:水だし紅茶の作り方
参照16:韓国では病院に併設、その施設とは?
▼A・スマナサーラ長老の講義より
今日は「感謝」について考えてみたいと思います。まず感謝する対象とは誰なのでしょうか。たとえばあなたがお母さんのお金を使って車を買ったとします。そのとき、あなたがまったくの他人に向かって「私は新車を買いました。本当にありがとうございました」と言っても何の意味もありませんよね。自分のお母さんのお金を使ったのであればお母さんに感謝すべきである、というのが仏教の考え方です。基本はとても単純なことです。恩を受けたその相手に対して感謝の気持を持つということで、誰だか知らない人に感謝しても仕方がありません。
親に感謝する、教えてくれる先生に感謝する、目上の人に感謝する、知識人に感謝する、自分より道徳的に高い人に感謝する。仏教で祈る対象というのは、要は恩を受けた「他の人たち」です。
お釈迦様は、自分を少しでも助けてくれる人があったら一生その人の恩は忘れるな、恩を忘れるのは人間らしくないとまでおっしゃっています。
仏法僧に礼をするのも真実を教えてくれた先生だからであって、やみくもにただ感謝せよというのではありません。私がときどきおかしく思うのは、正しい生き方や人の心を清らかにする方法を教えてくれたお釈迦様に手を合わせるのを恥ずかしがる人が、コマ犬や獅子などに手を合わせる姿を見かけることなのです。師としてのお釈迦様に手を合わせることは、恥ずかしい「盲信」でもなんでもありません。ごくあたりまえの人間としての道徳だと思われませんか。その程度の文化的な心がなければ到底悟りなど開けません。
テーラワーダ仏教で仏法僧の3つに感謝するのは、仏法僧でなければこの教えをもらえないからに他なりません。得体の知れない他人に感謝しているのではなく、教えをもらった師に対しての礼なのです。その師は我々からいえば乗り越えられないほど偉い、大きなものなのです。自分の両親への恩というのは、いくらがんばっても返せないものなのだそうです。両親が自分にしてくれたこと、育ててくれたことにたいしてはいくらお金を払っても払いきれない、ですから感謝しなくてはいけないといいます。同じく仏法僧から教わる、心清らかにする教えというのは両親にも教えることができないものなのです。だから礼をするのであって、依存しているのでも盲信しているのでもありません。
重い心持ちでやることでもありません。気持ちよく、先生おはようございます!という感じで楽しくやることです。仏法僧に帰依するということは、先生といつも一緒にいるということなんですね。自分の面倒をよく見てくれる、自分の過ちをよく正してくれる、偉大なる先生といつも一緒にいるということが、三宝に帰依して活動することなのです。
なぜ、慈悲の冥想をするのだと思われますか?あの「天にまします我々の神様、ありがとうございます」というあいまいとした概念、正月だけ神社や寺に行って知らない神や仏に感謝するような意味のない思考、それを正すためなんです。なぜかというと、我々はすべての生命のお蔭で生きているからです。たとえば、私の着ている衣ひとつとってみてもどれほどの人の手を経てできたものかわかりません。糸、色、織り、またその機械を作った人やシステム開発した人など、何十人、何百人もの人間の協力でできあがったものです。何げなく手にするこの衣の裏に、どれほどの人が介在しているのでしょう。紅茶はもともとは東洋のものだけれど、缶を作るシステムや畑で量産する現代のシステムはヨーロッパ人が考えたものもあり、今口にする紅茶には東も西も全部入っていますよね。ですからその紅茶を飲むときには日本風に「いただきます」「ありがとうございます」と飲むことは正しいと思います。紅茶一杯飲めることも、ひとつの幸福です。それができたのはすべて多くの「人」のお蔭です。皆のおかげでできあがったわけですから誰かわからない相手に感謝するのではなくてやっぱり「生きとし生けるものが幸福でありますように」ではないでしょうか。
一杯の紅茶を飲んで幸福だと感じるならその幸福をくれた相手、つまり「生きとし生けるもの」の幸福をお祈りする義務がついてくるのです。それをしなければそれは借りになります。おいしい紅茶を飲んで「神様ありがとうございました」と言ったところで借りは返せないんです。お釈迦様ははっきりとおっしゃってます。生きとし生けるものは幸せでありますようにと心から祈ることで、自分の借りは全部消えるのだと。
ですから仏教では、誰かに向かってお祈りするというような唯一の相手はないのです。生きとし生けるものに対して慈しみの心を作ってください。そうすることであなたが得た幸福の借りを返したことになります。生きとし生けるものとは人間だけじゃないんですよ。人間は、他の生命もなければ存在しません。動物もみんな対象になります。さらに目に見える生命ばかりではなくて目に見えない生命もいっぱいある。その生命も、たとえ我々にわからなくても我々の生存と何か関係があるはずなのです。そんなすべての、限りない生命に対して慈悲の心を作ることです。
とは言え人は弱いものですから、どうしても誰かを仰ぎたいと思うとすれば、その相手は仏法僧しかありません。なぜなら仏法僧は偉大なる師だからです。輪廻解脱する方法を教えることのできる師は他にないからです。つまり「先生」としてということです。仏法僧の立場から見ると、ありがとうと感謝されたいと思っているのではないのですが、おはようございます、というような明るい気持ちで感謝の礼をすればよいと思います。毎朝お釈迦様の仏像の前で感謝の礼をすることは、人間としての立派な行為といえるのではないでしょうか。
そんなことが、「宗教じみてる」とか「盲信」だとか言う人にはあえて説明しようと思いませんが、そういう人は自由にすればいいと思うし、また個人的な信仰を持っているならそれもなさっていいのです。すべては個人の自由だからです。誰がどう考えようと私たちの答えはひとつです。すべての生命に慈悲の心を作ること…。そうすることではじめて、いただいている恩恵に感謝したことになるということです。神というひとつのエネルギーに支えられて生きているわけではなくて、我々みんなひとり一人が力を出し合って相互に依存しあってやっと、社会は成り立つのだということです。ただそれだけのことです。
そして我々は誰ひとり偉くはないのです。みんな同じです。
話を戻しますが、神様のような存在を作りそれに向かってお祈りしたがる人はカルマ論を否定している人です。カルマというのは、我々は自分の行動によって幸福にもなり不幸にもなる、心の持ち方次第で人生は決まるという考え方です。そうではなく神様のおかげで人間の運命が決められるのだとしたら、その神様という人はひどい人なのではありませんか。地球を見てもお腹いっぱいご飯を食べられる人より食べられない人の方が多いし、最新の医学の恩恵を受けられる人よりちょっとした痛気で死んでしまう人の数の方が多いわけですから、それなら人間を造った神様ほど悪い人はないのではありませんか。
カルマ論では、あなたが何かすると何か結果が生まれると言います。とても具体的でわかりやすい話ではないでしょうか。
#楽隠居です
地震や洪水で、お盆休みどころではなくなった方達もおられますが、私の方は、日々気楽に過ごさせていただいています。ありがたいことです。
それでも、パソコン(Mac)の調子が良くないので、予備のパソコン(Win)を使えるようにしようと、悪戦苦闘?を楽しんでいます。
水曜日は、中心塾難波教室がありましたし、木曜日は実家で両親の調整と毎日いろいろな予定がありましたので、今日は部屋の片付けをしないと、家から追い出されかねません!
ところで、この時期になると両親から「お前は、お墓参りも行かないバチアタリだ!」と罵られます。私は、「毎日必ず神仏やご先祖様に手を合わせて感謝してるから・・・」と言い訳?を繰り返すことになります。宗派が違うから仕方ないんでしょうねぇ〜
ところで、私が感謝できるご先祖様の基準は、「お年玉やお小遣いをくれたかどうか!」ということになっておりますので、その他のご先祖様には、悪しからずご了承いただきたいと祈っております・・・?
参照1:中国儒教文化で発展した大乗仏教
参照2:スマナサーラ長老の講習会
参照3:ブッダは最高の治療をする
参照4:ブタのふところ
参照5:知るための訓練 スローモーション
参照6:般若心経は間違い?
参照7:法句経
参照8:悟りながら生きる
参照9:悟りながら生きる 続
参照10:悟りながら生きる 続々
参照11:「あなたはいい人間か、悪い人間か」と問われたら
参照12:修行はあらゆる瞬間に
参照13:呼吸による癒し
参照14:センタリング呼吸法について教えてください
参照15:水だし紅茶の作り方
参照16:韓国では病院に併設、その施設とは?
by centeringkokyu
| 2009-08-14 09:59
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