2008年 12月 19日
息の発見 |
「息の発見」五木寛之 × 玄侑宗久 対談からご紹介します。
▼なぜ、お経の意味はわからないほうがいいのか
五木 お経の話がいろいろ出ましたが、一説には、お経は意味がわからないほうがいい、というかたもいますが(笑)。
玄侑 たしかに意味はわからないほうがいいですね、純粋に音として扱うほうが。歌の場合は、たとえば脳波からすれば、ハミングのほうがα波になりやすいそうですね。歌詞を追うと、つい意味を考えますから、いい気持ちにはなりにくい。そういう意味でもお経の意味がわからないというのは、わるくないです。リズミカルな音韻(おんいん)を変えないためにもね。
五木 『観音経(かんのんぎょう)』の「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」のリズムは、音として聞いていても、すごく心地いいですね。
玄侑 あれは鳩摩羅什(クマラジュウ)の訳なんです。あのかたは、中国語の音韻に対する配慮が素晴らしいです。三蔵法師は意味に正確であるあまり、音韻への配慮が少し足りないというか、そんなこと言える立場じゃないんですけど、よくぞこんなに正確に訳してくださった、とみんないうわけですが、読みやすいのは絶対に、鳩摩羅什の訳なんですね。
五木 京都の萬福寺は、阿弥陀仏といわずに「おみとうふう」と、中国語で読んでいますよね。
玄侑 私らも、「おみとうふう」といいます。
五木 ええ、そうでしたね。中国のなかでも、時代によって、発音がいろいろとあるといいますね。
玄侑 ええ。「釈子は呉音」といわれるように、お経も基本は呉音ですが、いろいろ混じってますね。真言宗などは、当時長安で最新だった漢音を基本にしますし、禅語は主に唐宋音ですね。「和尚」なども、唐宋音の読みかたです。
五木 私がおもしろいなあと思っているものに、東本願寺大谷派に「揺(ゆす)り念仏」というのがあるんです。体を前後左右に振りながら念仏をするんですね。かつてシルクロードで流行っていた、くるくるとコマみたいに回るダンス、胡旋舞のように体を振りまわしながら念仏をするんです。あれは、リズム感と一体になって、一種の陶酔境にはいっていくんでしょうね。
玄侑 体の動きも加わると、やはり、トランス状態になりやすいでしょうね。
五木 トランスになりやすいんでしょうね。イスラム神秘主義にも、そういうダンスがあるみたいです。エルサレムの喚きの壁の前で、ユダヤ教の人たちが頭を振り振りやっている祈りも、ひとつの伝統になっていますね。そういうのを見ていると、身振りというのも、人間の呼吸の歴史の記憶だと痛感します。
玄侑 ヴイバッサナという瞑想でも、そういう身体感覚を用いますね。
五木 ブツダが、心の曇りというか汚れをきれいに掃除して、悟りを得たといわれる瞑想法ですね。
玄侑 はい。ヴィバッサナとは、パーリ語で、明確に観るのヴィと、観察するパサティの、二つの意味からできていることばで、いわゆる「止(サマタ瞑想)」と「観(ヴイバッサナ瞑想)」の、観のほうですね。
五木 ああ。観想法なんですね。
玄侑 観というのは、動きそのものを意識しつづけるんですね。たとえば目を閉じて、頭が揺れると思う……。最初は、もちろん意識してやります。ただし意識のしかたは、頭が勝手に動いているというふうに意識するんですね。そうすると、だんだん、ほんとに勝手に動きだすんです。
五木 体で動かすのではなく、意識が動かす。
玄侑 動かすことに意識は使わず、無意識に動いていると思いこむんです。そのときに自分の意識は、あ、ここが緊張してきた、ここがゆるんでいるとか、内部の筋肉のようすだけを追うんです。そうすると、完全に、頭の言語脳が休んじゃいますから、ほんとに速(すみ)やかに瞑想状態になります。
これは、即、瞑想状態になれますけど、揺り念仏の場合も、無意識にそうなっていると思いますね。
五木 揺り念仏は、いろいろとあとづけで、意味をもたせているようなところがありますね。たとえば親鸞上人が、上越の浜に送られたときに、船の上の荒波のなかで念仏を唱えていた姿を模倣しているんだとか……。しかし体を使うのは、やっぱり意味がありますよ。
玄侑 船居(せんご)禅というのがありますね。船の上で坐禅する。
五木 なるほど。揺られている状態をつくるわけですね。
玄侑 この福聚寺(ふくじゅうじ)の流れのもとになった、中国浙江省の天目山の、中峰明本=普応国師という禅師がはじめられたんです。さっきもいいましたが、うちの開山様の師匠ですね。わざわざ船の揺れの上で坐禅するんですね。状況が固定していると、すぐに概念が生まれるわけです。つねに変化している状況というものに意識を添わせることが大切なわけで、元をたどれば、それがヴイバッサナ瞑想法なんですね。
五木 ありとあらゆることを、もう古人がやっているんですね。
玄侑 やっていますよね。瞑想法というと、じっと坐っているイメージがありますが、船居禅の場合は、一粒ひとつぶの雨音に聞き入るのと同じように、揺れている変化のさなか、ずっと変化を意識で追いつづけるんですね。しかしこれ、完全にサッと入れる瞑想法ですよ。
五木 「天が下に新しきものなし」というけれども、いまいろんな呼吸法が出てきて、これはいいアイデアだと思っても、よくよく調べると、かならずだれかが、すでに何千年の歴史のなかでやっているんですよ。感心しますね。
玄侑 ヴイパッサナにしても、船居禅にしても、呼吸に無意識であるぶんだけ、私は効果的なような気がするんですね。意識して呼吸しているんじゃ、どうしようもないと思うんです。ほかのことで導かれて、自然に呼吸が変化しているというのが、一番いいんじゃないかと思います。呼吸法の大家である五木さんにいうのもなんですが、簡単ですから、一度おやりになることをおすすめしますね。
五木 では、ブッダを見習って、こころの曇りや汚れを掃除してみますか(笑)。
#楽隠居です
この本の最初には、「息の世界に気づく旅のはじめに」と題して五木寛之氏が書いておられます。そして、その最後の部分には『二日間にわたる私たちの対話の最後に、ひとつの宿題が残った。それは、人が死ぬときには、息を吐きながらなのか、吸いながらなのか、という問題である。しかし、考えてみれば、いずれにしてもそれは自分でどうにかできる問題ではない。大事なのは、生きているうちにより良い呼吸をすることではないか。現代人は、吸った息の半分ほども活かして使っていないのではないか、と私は感じている。良き息への道は、まだはるかに遠い。』と書かれています。
だからこそ「息の発見」という題になるのだと思いますが、普通に考えれば、生きている限り息は普通にしているのですから、改めて発見することは何もないはずです。
私としては、センタリング呼吸法は「呼吸から身体に対する問い掛け」ではないかと考えています。大きな声で問い掛けたり、囁くように問い掛けたりすることで、身体からどのような返事が帰ってくるのかを楽しむのです。勿論、返事が無いときや、返事が遅れることもあります。それをそのまま感じることが、次の問い掛けにつながるのだと思います。それは呼吸と身体とのコミュニケーションであり、その変化の様子を観ながら、第三者のように「うすらぼんやり」している自分がいるのだと考えています。そのコミュニケーションの中に「息の発見」があるのかもしれませんねぇ〜
ところで、今日このブログ全体の訪問者数が100,000を越えました。今年の10月10日に、88,888を越えたところでした。ネームカードの方のアクセス数は毎月11,000〜14,000ぐらいになっています。
自分の為の資料保存倉庫のようなこのブログに、驚くほど多くの皆さんが訪問してくださっているのです。訪問者の皆さんに心から感謝いたします。
そして、皆さんからの投稿を心よりお待ちしています。皆さんからの「問い掛け」がないと、私自身はどんどん「うすらぼんやり」するだけになってきています。 ほんまに、たのんますわ〜
予告無く記事を削除することもありますので、ご了承ください。
参照:魚鼓??
玄侑宗久先生ちょっと傾いておられるような気がするんですが・・?
私の目の錯覚でしょうか、それとも船居禅の最中ですか?
ひょっとすると呼吸に無意識だからかもしれませんねぇ〜・・
by centeringkokyu
| 2008-12-19 22:06
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