2008年 10月 01日
健康法は「これ一つ」ではダメ |
「健康問答」五木寛之・帯津良一の対談からご紹介します。
はじめにーー五木寛之
世の中には、「これ一つで十分」と、いうようないい方が結構あるものだ。
たとえば、「玄米さえ食べていれば ー 」とか、「背骨の歪みをまっすぐに直すことで、万病が治る」だとか、「ありがとうの言葉さえ忘れなければ、すべてうまくいく」とか、これ一つを大事にすれば、なにもかも解決するような話が少なくない。
私は、これは怪しい、と思っている。世の中というものは、そんなに簡単ではない。人間も、すこぶる複雑にできている。何十、いや、何百何千もの要素が入り組んで困果関係を織りなしているのだから、「これ一つ」で、なにもかもがうまくいくわけがない。
民間療法などで、「これ一つをやれば、すべて大丈夫」というようなことを平然という人は、疑ってかかるべきだろう。
私たちの国では、古来、一筋の道、とか、一事を極める、というモノラルな姿勢が尊重されてきた。
「二君につかえず」と、いった言葉もあった。
「二兎を追わず」ともいう。とかく物事をシンプルに考えることが美徳だったのである。
「中道」などという言葉も、誤解されやすい考え方である。
中道とは、右と左の、ちょうど中間ということではない。左右の距離を計って、ちょうどその二分の一の場所のことでもない。また両者をそれぞれ折衷して、どちらの要素も少しずつとり入れる、という折衷主義でもない。
右へぶれ、左へぶれしながらも、最終の針路は一定である、といった進み方が中道だ。いうなればスイングする生き方、とでもいおうか。
こ世の中のことは複雑である。そのすべてに目配りをすることは容易ではない。右顧左眄(うこさべん)して、どれも中途半端になるというのも困る。むしろ一つに集中して徹底するほうがいい、という意見もわからぬではない。しかし、やはり「これ一つ」という考え方には、私は賛成できないのである。
先日の「納豆騒ぎ」を起こしたテレビ番組も、やはり「これ一つ」の例である。納豆が体にいいことは、すでに常識である。しかし、納豆さえ食べていればスリムな体型が保てるかといえば、それは無理だろう。メタポリック・シンドロームなどと、人を脅すような表現がはやると、だれもが痩せようとする。細ければ健康か、といえば、そうとは限らないのが、現実の複雑さだ。スリムで病弱な人もいる。肥っていて体調がいい人もいる。野菜が体に合う人もおり、肉食に向いている人もなかにはいる。
私の知人に、一日三食、ケーキだけしか食べない中年婦人がいらした。その後、すこぶる健康で喜寿をむかえられたと聞く。
毎日、三時間しか眠らないという、まるでナポレオンの逸話を地でいくような元気な男性がいた。それはそれで、ご本人には向いた生活なのかもしれない。
世の中のことは、ほんとうはなに一つ、確実にわかってはいないのだ。現代の医学、栄養学、生理学、心理学など、すべての学問や理論も、人間でいうなら、まだ小学生の域にも達していないのではないか。
それを明快に割り切ったいい方をするから、おかしくなるのである。経済の予測や、政治の行方など、そもそも当たるわけがない。大地震や、大物政治家の病気などといった不確定要素を、そこに加えることはできないからである。そんな予測を入れると、学問ではなく占いになってしまうだろう。
しかし、天災も、交通事故も、病気も、確実に存在する。そして現実は、それらの予期せざる出来事に左右されることが少なくない。
要するに、「これ一つ」ではダメなのだ。といって、できるだけ多くの視点からものを見る、というのにも限りがある。ではどうするか。
せめて二つの立場から考えてみる、と言うぐらいが精一杯だろう。西洋医学も尊重するが、東洋医学も決しておろそかにしない。理論も馬鹿にせず、経験からくる直感も大事にする。といった月並みな姿勢だ。これが実際には、なかなかむずかしい。まして安易に両者を折衷せず、中道という第三の道を探すとなればなおさらである。
私たちが「これ一つ」に心を惹かれるのは、心身が疲れているときに多い。つい気弱になってしまうと、スパッと断定的で簡単明解ないい方に、すがりたくなるのが人間である。牛乳は体に良いか、悪いか。良い牛乳もあれば、悪い牛乳もある。牛乳に向いた体もあれば、体質的に合わない人もいる。それを見つけるのは、当人の責任だ。
世の中のこと、「これ一つ」ではダメなのだ、と覚悟するしかない、というのが私のようやくたどりついた結論である。
参照1:センタリング呼吸法再考
参照2:野口三千三語録
参照3:医者に過剰な期待をしない
参照4:医術は芸術?
参照5:病気は自分で治す
はじめにーー五木寛之
世の中には、「これ一つで十分」と、いうようないい方が結構あるものだ。
たとえば、「玄米さえ食べていれば ー 」とか、「背骨の歪みをまっすぐに直すことで、万病が治る」だとか、「ありがとうの言葉さえ忘れなければ、すべてうまくいく」とか、これ一つを大事にすれば、なにもかも解決するような話が少なくない。
私は、これは怪しい、と思っている。世の中というものは、そんなに簡単ではない。人間も、すこぶる複雑にできている。何十、いや、何百何千もの要素が入り組んで困果関係を織りなしているのだから、「これ一つ」で、なにもかもがうまくいくわけがない。
民間療法などで、「これ一つをやれば、すべて大丈夫」というようなことを平然という人は、疑ってかかるべきだろう。
私たちの国では、古来、一筋の道、とか、一事を極める、というモノラルな姿勢が尊重されてきた。
「二君につかえず」と、いった言葉もあった。
「二兎を追わず」ともいう。とかく物事をシンプルに考えることが美徳だったのである。
「中道」などという言葉も、誤解されやすい考え方である。
中道とは、右と左の、ちょうど中間ということではない。左右の距離を計って、ちょうどその二分の一の場所のことでもない。また両者をそれぞれ折衷して、どちらの要素も少しずつとり入れる、という折衷主義でもない。
右へぶれ、左へぶれしながらも、最終の針路は一定である、といった進み方が中道だ。いうなればスイングする生き方、とでもいおうか。
こ世の中のことは複雑である。そのすべてに目配りをすることは容易ではない。右顧左眄(うこさべん)して、どれも中途半端になるというのも困る。むしろ一つに集中して徹底するほうがいい、という意見もわからぬではない。しかし、やはり「これ一つ」という考え方には、私は賛成できないのである。
先日の「納豆騒ぎ」を起こしたテレビ番組も、やはり「これ一つ」の例である。納豆が体にいいことは、すでに常識である。しかし、納豆さえ食べていればスリムな体型が保てるかといえば、それは無理だろう。メタポリック・シンドロームなどと、人を脅すような表現がはやると、だれもが痩せようとする。細ければ健康か、といえば、そうとは限らないのが、現実の複雑さだ。スリムで病弱な人もいる。肥っていて体調がいい人もいる。野菜が体に合う人もおり、肉食に向いている人もなかにはいる。
私の知人に、一日三食、ケーキだけしか食べない中年婦人がいらした。その後、すこぶる健康で喜寿をむかえられたと聞く。
毎日、三時間しか眠らないという、まるでナポレオンの逸話を地でいくような元気な男性がいた。それはそれで、ご本人には向いた生活なのかもしれない。
世の中のことは、ほんとうはなに一つ、確実にわかってはいないのだ。現代の医学、栄養学、生理学、心理学など、すべての学問や理論も、人間でいうなら、まだ小学生の域にも達していないのではないか。
それを明快に割り切ったいい方をするから、おかしくなるのである。経済の予測や、政治の行方など、そもそも当たるわけがない。大地震や、大物政治家の病気などといった不確定要素を、そこに加えることはできないからである。そんな予測を入れると、学問ではなく占いになってしまうだろう。
しかし、天災も、交通事故も、病気も、確実に存在する。そして現実は、それらの予期せざる出来事に左右されることが少なくない。
要するに、「これ一つ」ではダメなのだ。といって、できるだけ多くの視点からものを見る、というのにも限りがある。ではどうするか。
せめて二つの立場から考えてみる、と言うぐらいが精一杯だろう。西洋医学も尊重するが、東洋医学も決しておろそかにしない。理論も馬鹿にせず、経験からくる直感も大事にする。といった月並みな姿勢だ。これが実際には、なかなかむずかしい。まして安易に両者を折衷せず、中道という第三の道を探すとなればなおさらである。
私たちが「これ一つ」に心を惹かれるのは、心身が疲れているときに多い。つい気弱になってしまうと、スパッと断定的で簡単明解ないい方に、すがりたくなるのが人間である。牛乳は体に良いか、悪いか。良い牛乳もあれば、悪い牛乳もある。牛乳に向いた体もあれば、体質的に合わない人もいる。それを見つけるのは、当人の責任だ。
世の中のこと、「これ一つ」ではダメなのだ、と覚悟するしかない、というのが私のようやくたどりついた結論である。
参照1:センタリング呼吸法再考
参照2:野口三千三語録
参照3:医者に過剰な期待をしない
参照4:医術は芸術?
参照5:病気は自分で治す
by centeringkokyu
| 2008-10-01 00:01
| 本などの紹介