2005年 03月 02日
ある時と無い時(551) |
稽古では、ボールや太極棒、そして木刀や杖を使って基本的な身体の使い方を工夫します。道具に習うという事なのですが、何か道具を持っている時は、持っていないかのように滑らかに動き、持っていない時は、あたかも道具を持っているかのように動く事が大切だと思います。更に、重いものは軽く扱い、軽いものは重いように扱ってみることも必要です。
しっかり握り締めてみたり、ふわっと持ってみたりして、前提条件を変えて、身体の伝達系をチェックしてみてください。自動的に身体が、体内でバランスを取れるようになることが目的で、何が正解か不正解かという問題ではないのです。
そういう稽古を、自分で工夫しながら積み重ねる以外に、「そこしかない」のではないかな?という事に気付く為の方法は無いと思います。
剣の稽古でも、礼法と無形(むけい)の位が大切で、スタートがずれていると、そこから先で「そこしかない」ところに行くことは不可能です。
因みに、無形とは形が無いという事ではなく、どのようにでも展開できるという、ニュートラルな状態を意味するのではないでしょうか。何も形が無いから、全ての形に成り得るのだと考えています。
どのような動きでも、最初は少しだけ臨界点を広げるような動きをしてみる必要があります。そして、伝達系や動力系が認識出来、それなりに出来るようになった時に、少しずつ動きは小さくして、意識は大きく自由に使えるような稽古をするのがいいと思います。
気功などでも、先生は子供の頃からしっかり基本功の練功を積んでいるのに、教える時には、意識の部分ばかりでパフォーマンスして、生徒を煙に巻いているとしか考えられない場合もあります。
フェルデンクライス身体訓練法の場合は、左半身は呼吸や動きを一致させた、正確な小さい動きを要求し、右半身を動かす場合は、その人のレベルに合わせて、イメージだけで動かし、左側と同じ効果が現れるかどうかをチェックする。このような方法が、本来の意味でのイメージ・トレーニングなのだと思います。
私も最初の頃は、25回動かしていたのですが、だんだん動く回数を少なくする工夫をして、現在では、3〜5回でそれなりに弛める事ができるように成りつつあります。そして、1回動くだけで結果を出せるような方法を模索中です。
その内に、動かなくてもイメージしただけで、体中が弛めばいいな〜というイメージをしているのですが・・・
しっかり握り締めてみたり、ふわっと持ってみたりして、前提条件を変えて、身体の伝達系をチェックしてみてください。自動的に身体が、体内でバランスを取れるようになることが目的で、何が正解か不正解かという問題ではないのです。
そういう稽古を、自分で工夫しながら積み重ねる以外に、「そこしかない」のではないかな?という事に気付く為の方法は無いと思います。
剣の稽古でも、礼法と無形(むけい)の位が大切で、スタートがずれていると、そこから先で「そこしかない」ところに行くことは不可能です。
因みに、無形とは形が無いという事ではなく、どのようにでも展開できるという、ニュートラルな状態を意味するのではないでしょうか。何も形が無いから、全ての形に成り得るのだと考えています。
どのような動きでも、最初は少しだけ臨界点を広げるような動きをしてみる必要があります。そして、伝達系や動力系が認識出来、それなりに出来るようになった時に、少しずつ動きは小さくして、意識は大きく自由に使えるような稽古をするのがいいと思います。
気功などでも、先生は子供の頃からしっかり基本功の練功を積んでいるのに、教える時には、意識の部分ばかりでパフォーマンスして、生徒を煙に巻いているとしか考えられない場合もあります。
フェルデンクライス身体訓練法の場合は、左半身は呼吸や動きを一致させた、正確な小さい動きを要求し、右半身を動かす場合は、その人のレベルに合わせて、イメージだけで動かし、左側と同じ効果が現れるかどうかをチェックする。このような方法が、本来の意味でのイメージ・トレーニングなのだと思います。
私も最初の頃は、25回動かしていたのですが、だんだん動く回数を少なくする工夫をして、現在では、3〜5回でそれなりに弛める事ができるように成りつつあります。そして、1回動くだけで結果を出せるような方法を模索中です。
その内に、動かなくてもイメージしただけで、体中が弛めばいいな〜というイメージをしているのですが・・・
by centeringkokyu
| 2005-03-02 23:14
| 合気観照塾