2008年 07月 07日
「人権教育」という、祖国喪失の洗脳 |
「教育を救う保守の哲学」 中川八洋 渡部昇一 共著からご紹介します。
第六章「人権教育」という、祖国喪失の洗脳―「スクール・ジャック」」を煽る、子供の権利条約
「人権」とは、既存の国家そのものを解体・破壊し、「人権」の信奉者による「人権共同体」を新たに創造する、宗教的な革命を正当化するドグマである、と前述した。「プロレタリアート共同体」を夢想する階級闘争とプロレタリアート独裁国家づくりのマルクスの理論も、この「人権」のドグマから一直線に誕生している。なぜなら、労働が生存のために不可欠なプロレタリアートだけが「人権」の定義する「人間である」から、自らの生存のために労働を必要としないブルジョアジーは「人間でない」ことになるからである。
このように、「人権」は、人間を二分し、対立させ、差別する、非人間性を極めるイデオロギーである。二十世紀の「人権」の信徒であるレーニンが、ロシア革命で「富農」を含め富裕な国民をシベリアでの強制労働に駆りたてたり餓死させたり銃殺したり、そして一方、貧民階級のものに権力の座につかせたが、このように、「人権」とは、原始的で野蛮な人間が権力の主体となり、文明的で真善美に生きる倫理的・道徳的人間を抑圧する、転倒した宗教的共同体に国家を改造する悪魔の呪文である。
だから、ソ連邦の崩壊に伴ってマルクス主義が衰退し「プロレタリアートの地上の天国」の夢が粉砕されても、「人権」という呪文が存在する限り、一九九〇年代以降の日本で現出されているように、「人権」の阿片を吸った野蛮で赤い無法者(ならず者)たちが、「法の支配」を破壊し、権力を掌握し、文明的な人間を支配し殺裁する国家への改造をする、共産革命がなくなることは決してない。
日本の現実において、「人権」は、在日外国人や、身体障害者あるいは凶悪犯罪者や精神障害者などを、「平等」ではなく、「特別に扱え」との逆差別化のドグマとなって猛威をふるっている。
「被差別者」と称されるものを「王様」にして、他の一般の人々はその奴隷か虫けらかのようにそれらに奉仕させる「召使い」にする、〝逆平等″を強要する。殺人鬼の酒鬼薔薇聖斗は「人権」に守られて名前も顔写真も出ないが、その被害者の小学六年生の方はマスコミの好餌になるがままに放置されている。あるいは、日本の「人権」屋は、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんほか約百名の日本国民の生命と自由は、二〇〇二年九月十七日までは完全に無視してきた。バークが指摘した通り、「人権」は〝国民″という二文字を嫌い、「国民の基本権」を否定する。日本で「人権」がかくも「法の前の平等」や「法の支配」を平然と無視しこれを排除するように、「人権」とは立憲主義を拒絶する。「法の支配」や立憲主義なしには「国民の基本権」は守られないから、「人権」こそが必ず国民の生命や自由を侵害していくのである。
中一少年が腰塚教諭をナイフで殺害したあとも、学校が生徒の持物を開けてナイフの所持検査をすることを「人権」で阻まれたように、「人権」とは無法者の方を必ず擁護する。ナイフで教師や生徒を殺傷する可能性のある犯罪予備軍の中学生が、「人権」のドグマでは、「王様」として特別に扱われ、法の枠外におかれるのである。
倒錯性をもつ「人権」とは、実は非理非道のメカニズムを生む魔語である。つまり、「人権」とは、人間の法的・政治的な基本権利を擁護する近代概念ではなく、あくまで「自然人」の野蛮性を是認する、〝悪魔の宗教″上の呪文である。
参照1:教育を救う保守の哲学
参照2:人権擁護法案の国会提出を許すな
参照3:サルでも分かる?人権擁護法案
参照4:ぼやきくっくり【過去】人権擁護法案
参照5:市民運動とは何でしょう
参照6:NHKご用達プロ市民のひとたち
参照7:日本のレーニンが知った労働
参照8:達人が人を見る目
参照9:権利の主張がかえって不利益をもたらす
参照10:「学校―家族」複合体の破壊
参照11:人権という権利を主張すべき相手は?
by centeringkokyu
| 2008-07-07 00:02
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