2008年 05月 04日
姿勢と呼吸 |
「セラピストがいかに生きるかーー直感と共感」近藤章久著からご紹介します。
鈴木大拙先生のことですが、先生はいろいろ英語を書いたり仕事をされる時に、あぐらをかくようにして座って書かれる。僕は不思議でしようがない、あんなことをしたら足が痛くておれないだろうと思うんですけど、でもその方が楽みたいで、そういうようにして書いてらした。だからちょっとそこのあたりは時代の違いを感じます。僕も小さい時はしょっちゅう座らされて椅子は使わない。椅子を使ったのは東京へ来てからで、座ることは平気だったのですが、習慣ですね。
鈴木先生とそこでまた議論になった。寝て呼吸する、座って呼吸する、立って呼吸する、この三つのことについて僕は考えを述べたことがあるんです。先生も非常に興味を持たれた、非常に好奇心の強い人ですから。座っている時の人間の考え方、腰掛けている時の人間の考え方、感じること、それから寝ている時に感じること、立っている時の感じ方、どうも考えや感じ方の展開が違う。また、歩きながら考えることもできる。ここいらが、とっても僕はおもしろいと思うんです。
まず大事な疑問は、そこで呼吸法が正しくできるかということですが、これは訓練すれば、坐禅でもいいし立ってやることもできる。しかし一番の訓練は、長いことできないですけれど、立ってやることじゃないかと思っているんです。一応形としては丹田の腹筋と腰筋と背筋の発達ということですが、呼吸筋と横隔膜が最も自由に動かせるような姿勢がいいんじゃないかということで、立ってやるのが訓練になると思いました。
もうひとつ別な面から考えると、立つ姿勢というのは人間が歩くとか、逃げるとか、戦うとかそういうような時です。ですから人間の考え方がそんな方向になる。座っている時はある程度リラックスしていますが、いつでも場合によればサッと立つことができる。お互いに椅子に座って話すというのは、たとえばディスカッションするとか、そういう時にはいい。つまり、対する、対面すること。そうするといつも相手を意識して、相手に対している。一人でいる場合は、これは自分で立ったり座ったりしますので、そういう点で両面が感じられると思いますが。寝てしまう、つまり横になってくると、これはもう一番無抵抗な無防備な姿勢。だから、寝床にいて泥棒が入って来たという時は非常にうろたえるわけです。起きていて椅子に座っていた時に泥棒が入って来るのと大分違います。そういった意味で非常に無防備だけれど、その代わりその時は人を意識しないで、一人で自由に何でも考えられる。あるいは考えなくなる。その結果寝たりして、リラックスする。こういうことが人間の生理としてあるように思うので、それぞれの意味を果たすためにそれを利用したらどうだろうと、僕は言った。
先生は、「とてもおもしろい、寝てやる禅だってあり得るわけだな」というようなことになって、釈尊が亡くなられる時にも「やっぱり横になっておられる、だからそれは臥の、寝た姿勢の禅じゃないか、そこに本当に落ち着くところがあるんじゃないか」とおっしゃる。考えてみれば、寝ている姿勢は一番大地に近い。われわれは大地に対して、二本足なだけに動物よりも疎遠です。大地をしっかり踏むということは、人間にとって安定を与えるものです。その意味で大地というものを考えると、その大地の気を受けるということと、それから大地に近いということが非常に安定的であるという点、そういうことが人間に安心するということでいいのではないかと思う。
先生も非常に興味を持って、「そうじやな、西洋の人にはいろいろ西洋的なやり方もあって、必ずしも東洋的なやり方をしなくてもいいんじゃないかな」と言っておられました。そういうことに対しても割合自由な考え方を持っておられたと思います。
僕はもう僕流に自由にやっているわけで、一番その人がやりやすいやり方をやればいいというのが僕の考え方です。そこに集中と統一が行われればいいと思うんです。それを僕は患者さんに応用して、フロイトと違った意味で違った観点から、寝る姿勢で治療するという形を取ったわけです。その方が患者さん自身も楽だし、患者さんがある意味でひとりでいることにもなるし。治療者が黙っていれば、患者さんの方はひとりになるというようなこともある。
釈尊もそうだし、さっきの「独坐大雄峰」もそうですが、人間にとって独り坐するということは非常に大事なことじやないかと思います。それは西洋人の独立ということにも関係するけれど、西洋人の方は「独立」でしょう。どうしてああいうふうに「独り立つ」と訳したか。なかなか名訳だと思うのは、個人主義individualismというものが独りで立って相手に対するっていうことと関係するから、やっぱり立つことが必要だし、立つと戦うこともできるし逃げることもできる。そんな意味で、自由なことができる、動けるというようなことで、インディペンダンスindependenceを「独立」と訳したのはおもしろいと思う。先生とそんな話もしました。
#楽隠居です
退会決意3周年を掲載してから、2年経ちました。この時期には、よく新しいことを始めることになるようです。
今日は、「初めてのセンタリング呼吸法 個人レッスン篇」をまとめていました。基本的には、何も変わらないのですが、簡単なベッドを使ってセンタリング呼吸法をするための、導入部分を考えていました。
先日たまたまご来店くださったお客様に、少しだけセンタリング呼吸法をお教えしながら誘導したところ、店に来られたときと、お帰りになられる時の姿勢や歩き方がすっかり変わってしまわれたので、ご一緒に来られていた別のお客様が大変驚かれたのです。そして、そのことをご友人にお話になると、是非一度教えて欲しいということになり、早速3人一緒に予約をしてくださいました。
グループレッスンは、6年目になりますから、ある程度慣れていますが、狭い場所で初めての方3人に、センタリング呼吸法の基本をお教えしてから、個別にレッスンに入るのは初めてですから、その方法を模索していたわけです。
私の場合はいつも、お尻に火が付いてからしか動かないのですが、まぁ〜なんとかなりますやろ、と考えることにしています。それで、ときどき参加者の方々にご迷惑をおかけすることになってしまいます。申し訳ございません。でも、やりながら肚に貞(き)くというのが、私のスタイルですから、臨機応変に対応できればお慰み!というところです。
参照1:意識的呼吸
参照2:集中力
参照3:独坐大雄峰
参照4:臨済録
参照5:臨済録 続
参照6:合気の身体で日常生活
参照7:S多さんの資料の感想文
参照8:野口三千三語録
鈴木大拙先生のことですが、先生はいろいろ英語を書いたり仕事をされる時に、あぐらをかくようにして座って書かれる。僕は不思議でしようがない、あんなことをしたら足が痛くておれないだろうと思うんですけど、でもその方が楽みたいで、そういうようにして書いてらした。だからちょっとそこのあたりは時代の違いを感じます。僕も小さい時はしょっちゅう座らされて椅子は使わない。椅子を使ったのは東京へ来てからで、座ることは平気だったのですが、習慣ですね。
鈴木先生とそこでまた議論になった。寝て呼吸する、座って呼吸する、立って呼吸する、この三つのことについて僕は考えを述べたことがあるんです。先生も非常に興味を持たれた、非常に好奇心の強い人ですから。座っている時の人間の考え方、腰掛けている時の人間の考え方、感じること、それから寝ている時に感じること、立っている時の感じ方、どうも考えや感じ方の展開が違う。また、歩きながら考えることもできる。ここいらが、とっても僕はおもしろいと思うんです。
まず大事な疑問は、そこで呼吸法が正しくできるかということですが、これは訓練すれば、坐禅でもいいし立ってやることもできる。しかし一番の訓練は、長いことできないですけれど、立ってやることじゃないかと思っているんです。一応形としては丹田の腹筋と腰筋と背筋の発達ということですが、呼吸筋と横隔膜が最も自由に動かせるような姿勢がいいんじゃないかということで、立ってやるのが訓練になると思いました。
もうひとつ別な面から考えると、立つ姿勢というのは人間が歩くとか、逃げるとか、戦うとかそういうような時です。ですから人間の考え方がそんな方向になる。座っている時はある程度リラックスしていますが、いつでも場合によればサッと立つことができる。お互いに椅子に座って話すというのは、たとえばディスカッションするとか、そういう時にはいい。つまり、対する、対面すること。そうするといつも相手を意識して、相手に対している。一人でいる場合は、これは自分で立ったり座ったりしますので、そういう点で両面が感じられると思いますが。寝てしまう、つまり横になってくると、これはもう一番無抵抗な無防備な姿勢。だから、寝床にいて泥棒が入って来たという時は非常にうろたえるわけです。起きていて椅子に座っていた時に泥棒が入って来るのと大分違います。そういった意味で非常に無防備だけれど、その代わりその時は人を意識しないで、一人で自由に何でも考えられる。あるいは考えなくなる。その結果寝たりして、リラックスする。こういうことが人間の生理としてあるように思うので、それぞれの意味を果たすためにそれを利用したらどうだろうと、僕は言った。
先生は、「とてもおもしろい、寝てやる禅だってあり得るわけだな」というようなことになって、釈尊が亡くなられる時にも「やっぱり横になっておられる、だからそれは臥の、寝た姿勢の禅じゃないか、そこに本当に落ち着くところがあるんじゃないか」とおっしゃる。考えてみれば、寝ている姿勢は一番大地に近い。われわれは大地に対して、二本足なだけに動物よりも疎遠です。大地をしっかり踏むということは、人間にとって安定を与えるものです。その意味で大地というものを考えると、その大地の気を受けるということと、それから大地に近いということが非常に安定的であるという点、そういうことが人間に安心するということでいいのではないかと思う。
先生も非常に興味を持って、「そうじやな、西洋の人にはいろいろ西洋的なやり方もあって、必ずしも東洋的なやり方をしなくてもいいんじゃないかな」と言っておられました。そういうことに対しても割合自由な考え方を持っておられたと思います。
僕はもう僕流に自由にやっているわけで、一番その人がやりやすいやり方をやればいいというのが僕の考え方です。そこに集中と統一が行われればいいと思うんです。それを僕は患者さんに応用して、フロイトと違った意味で違った観点から、寝る姿勢で治療するという形を取ったわけです。その方が患者さん自身も楽だし、患者さんがある意味でひとりでいることにもなるし。治療者が黙っていれば、患者さんの方はひとりになるというようなこともある。
釈尊もそうだし、さっきの「独坐大雄峰」もそうですが、人間にとって独り坐するということは非常に大事なことじやないかと思います。それは西洋人の独立ということにも関係するけれど、西洋人の方は「独立」でしょう。どうしてああいうふうに「独り立つ」と訳したか。なかなか名訳だと思うのは、個人主義individualismというものが独りで立って相手に対するっていうことと関係するから、やっぱり立つことが必要だし、立つと戦うこともできるし逃げることもできる。そんな意味で、自由なことができる、動けるというようなことで、インディペンダンスindependenceを「独立」と訳したのはおもしろいと思う。先生とそんな話もしました。
#楽隠居です
退会決意3周年を掲載してから、2年経ちました。この時期には、よく新しいことを始めることになるようです。
今日は、「初めてのセンタリング呼吸法 個人レッスン篇」をまとめていました。基本的には、何も変わらないのですが、簡単なベッドを使ってセンタリング呼吸法をするための、導入部分を考えていました。
先日たまたまご来店くださったお客様に、少しだけセンタリング呼吸法をお教えしながら誘導したところ、店に来られたときと、お帰りになられる時の姿勢や歩き方がすっかり変わってしまわれたので、ご一緒に来られていた別のお客様が大変驚かれたのです。そして、そのことをご友人にお話になると、是非一度教えて欲しいということになり、早速3人一緒に予約をしてくださいました。
グループレッスンは、6年目になりますから、ある程度慣れていますが、狭い場所で初めての方3人に、センタリング呼吸法の基本をお教えしてから、個別にレッスンに入るのは初めてですから、その方法を模索していたわけです。
私の場合はいつも、お尻に火が付いてからしか動かないのですが、まぁ〜なんとかなりますやろ、と考えることにしています。それで、ときどき参加者の方々にご迷惑をおかけすることになってしまいます。申し訳ございません。でも、やりながら肚に貞(き)くというのが、私のスタイルですから、臨機応変に対応できればお慰み!というところです。
参照1:意識的呼吸
参照2:集中力
参照3:独坐大雄峰
参照4:臨済録
参照5:臨済録 続
参照6:合気の身体で日常生活
参照7:S多さんの資料の感想文
参照8:野口三千三語録
by centeringkokyu
| 2008-05-04 00:03
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