2008年 03月 19日
叱言以前 |
「叱言以前」野口晴哉著を古書店で偶然見つけました。すでに一冊持っているのですが、180円均一で売っていましたし、平成16年に発行された改訂8版でしたので、いずれは孫も生まれることでしょうから、予備として買っておきました。
後書きによりますと、「戦争中の文章で、もともと戦前の親に説いたことを念頭において読んで欲しい。」と書かれています。しかし、久しぶりに読み返してみたのですが、やっぱり新鮮なんですね。
叱言を辞書でひいてみると載っていないので、ちょっとネットで調べてみました。
「こごと」は辞書では「小言」です。ただ文学の世界では正式表現ではなくも、その文学者が独自に考えた表現が許されます。
例をあげれば「叱言」で「こごと」と読んでいるのは、岡本かの子「食魔」・中里介山「大菩薩峠」・江戸川乱歩「接吻」・芝木好子「青果の市」にあり、「叱責」で「こごと」と読んでいるのは、平出修「逆徒」にあります。(引用終了)
一時期、アドラー心理学の本も数冊読んだのですが、もうひとつピンときませんでした。アメリカでアドラー心理学を勉強してきたという人ともお話させていただいたのですが、国によって生活習慣や言葉が違うので、表現が曖昧になっても仕方がないかなぁ〜というところで、意見が合いました。
「叱言以前」から抜粋してみました。適当に省略していますので、できれば原本をお読み下さい。
◎天心を傷つけるな
大人はともすると子供の遊びを遊びと見るが、子供の遊びは子供の生活そのものであって、大人の遊びとは違う。大人はそのエネルギーが過剰になったり疲労して不足したりすると遊びたくなるし、その遊びのうちに本能を満足させるが、子供は本能を押さえていないのであるからその遊びは本能の昇華とも違うし、過剰エネルギーの発散の為でもまた休養の為でもない。ただそれが生活なのである。
大人の立場からそれを遊びとして見てはいけない。大人の干渉を受けない限り子供は幾度失敗してもガッカリしない。いくら遊んでいても疲れない。結果のために行動しているのではないから、いつも活き活きと元気に失敗も成功も楽しんで遊んでいる。
大人は生活の中に働かねばならぬという「ねばならぬ」を持ち込んだ為に、働くこと自体の楽しさを失って遊びを求めているが、子供が遊ぶように働くことが大人の生活である筈だ。いつも楽しく生きる為には子供の天心に生きていることを見習わねばならぬ。
◎子供の空想を奪うな
一本の棒は剣にもなれば鉄砲にもなり、ステッキにもなれば、しんばり棒にもなる。子供の豊かな空想をこわしてはいけない。空想を法螺だといって嘲ってはいけない。空想は新しい思いつきのもとであり、人間の独創するはたらきはここに育つのである。
大人はともすると正確を求めたがるが、正確は他の何ものかに依って正確なので、正確の押しつけが模倣のもとになる。日本人を物真似人種にしたのは正確愛好病の為だ。大きな視野をもって子供の空想を導かねばならぬ。おとぎ話を失った国は亡びる。
◎手伝うことの限界
子供が考えている。見ていられないで大人が答えを教える。次はこどもは考え抜かないで答えをきく。次には答えの為に考える。新しい思いつきは之で無くなってしまう。馬鹿々々しい考えから新しい智慧は産まれるのだ。
子供の考えを面倒臭がってはいけない。辛棒強く考えている子供達に微笑をもって考えさせておきたいものだ。昨日子供が穴を掘っているのを手伝っている大人があったが、穴を掘ることを手伝うことは子供の楽しみを奪い子供の努力する心を鈍らすものだ。
美奈ちゃんがボタンをかけられないと泣くのは大人が手伝ったことがあるからだ。信ちゃんは一時間もかかってボタンをついにはめた。一度自分ではめれば次はだんだんと上手になる。一度手伝うと泣き出すことだけが早くなる。美奈ちゃんの手がとどかぬボタンを最後にハメてやるのは良くない。最初はしてやり、後は自分でやらす可きだ。いつもその感性は子供自身の手で行わせることが大切だ。出来ないことを手伝うにも、手伝う時とその限界を見定める必要がある。決して大人の感情で動作しないで欲しいものだ。
参照:風声明語2
後書きによりますと、「戦争中の文章で、もともと戦前の親に説いたことを念頭において読んで欲しい。」と書かれています。しかし、久しぶりに読み返してみたのですが、やっぱり新鮮なんですね。
叱言を辞書でひいてみると載っていないので、ちょっとネットで調べてみました。
「こごと」は辞書では「小言」です。ただ文学の世界では正式表現ではなくも、その文学者が独自に考えた表現が許されます。
例をあげれば「叱言」で「こごと」と読んでいるのは、岡本かの子「食魔」・中里介山「大菩薩峠」・江戸川乱歩「接吻」・芝木好子「青果の市」にあり、「叱責」で「こごと」と読んでいるのは、平出修「逆徒」にあります。(引用終了)
一時期、アドラー心理学の本も数冊読んだのですが、もうひとつピンときませんでした。アメリカでアドラー心理学を勉強してきたという人ともお話させていただいたのですが、国によって生活習慣や言葉が違うので、表現が曖昧になっても仕方がないかなぁ〜というところで、意見が合いました。
「叱言以前」から抜粋してみました。適当に省略していますので、できれば原本をお読み下さい。
◎天心を傷つけるな
大人はともすると子供の遊びを遊びと見るが、子供の遊びは子供の生活そのものであって、大人の遊びとは違う。大人はそのエネルギーが過剰になったり疲労して不足したりすると遊びたくなるし、その遊びのうちに本能を満足させるが、子供は本能を押さえていないのであるからその遊びは本能の昇華とも違うし、過剰エネルギーの発散の為でもまた休養の為でもない。ただそれが生活なのである。
大人の立場からそれを遊びとして見てはいけない。大人の干渉を受けない限り子供は幾度失敗してもガッカリしない。いくら遊んでいても疲れない。結果のために行動しているのではないから、いつも活き活きと元気に失敗も成功も楽しんで遊んでいる。
大人は生活の中に働かねばならぬという「ねばならぬ」を持ち込んだ為に、働くこと自体の楽しさを失って遊びを求めているが、子供が遊ぶように働くことが大人の生活である筈だ。いつも楽しく生きる為には子供の天心に生きていることを見習わねばならぬ。
◎子供の空想を奪うな
一本の棒は剣にもなれば鉄砲にもなり、ステッキにもなれば、しんばり棒にもなる。子供の豊かな空想をこわしてはいけない。空想を法螺だといって嘲ってはいけない。空想は新しい思いつきのもとであり、人間の独創するはたらきはここに育つのである。
大人はともすると正確を求めたがるが、正確は他の何ものかに依って正確なので、正確の押しつけが模倣のもとになる。日本人を物真似人種にしたのは正確愛好病の為だ。大きな視野をもって子供の空想を導かねばならぬ。おとぎ話を失った国は亡びる。
◎手伝うことの限界
子供が考えている。見ていられないで大人が答えを教える。次はこどもは考え抜かないで答えをきく。次には答えの為に考える。新しい思いつきは之で無くなってしまう。馬鹿々々しい考えから新しい智慧は産まれるのだ。
子供の考えを面倒臭がってはいけない。辛棒強く考えている子供達に微笑をもって考えさせておきたいものだ。昨日子供が穴を掘っているのを手伝っている大人があったが、穴を掘ることを手伝うことは子供の楽しみを奪い子供の努力する心を鈍らすものだ。
美奈ちゃんがボタンをかけられないと泣くのは大人が手伝ったことがあるからだ。信ちゃんは一時間もかかってボタンをついにはめた。一度自分ではめれば次はだんだんと上手になる。一度手伝うと泣き出すことだけが早くなる。美奈ちゃんの手がとどかぬボタンを最後にハメてやるのは良くない。最初はしてやり、後は自分でやらす可きだ。いつもその感性は子供自身の手で行わせることが大切だ。出来ないことを手伝うにも、手伝う時とその限界を見定める必要がある。決して大人の感情で動作しないで欲しいものだ。
参照:風声明語2
by centeringkokyu
| 2008-03-19 00:02
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