2007年 12月 19日
柳生宗矩と江戸思想 |
「徳川将軍と柳生新陰流」赤羽根龍夫著からご紹介します。
二代将軍秀忠の周囲は譜代の家臣が老中などの役職を固めており、宗矩は積極的に幕政に関われる立場ではなかった。そうした実務的なことよりも、宗矩を二代将軍秀忠の兵法師範とした家康は、おそらく三代将軍となるべき家光の兵法師範も宗矩に命じて、家光は宗矩が死んだ後、「われ天下統馭の道は宗矩に学びたり」(『家光実紀』附録巻二)と常に言い、五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保は「太神君(家康)の台命にも、神(新)陰流の道理を以て天下を治めよ、と御条目これあり」(『玉栄拾遺』)と言っているのだから、宗矩の隠された業績とは、江戸幕府の成立の理念そのものに関わっていなければならないというのが私の主張である。
宗矩は、上泉秀綱から父宗厳へと受け継がれた「無刀」の精神と、自分の方からは決して攻撃を仕かけず、相手の動きを見てから受けて立つ家康の精神を一体化して、泰平の世の武士の作法としての剣術を確立したのである。
家康が天下を統一し、数百年続いた乱世に平和をもたらして以降は、争いは「あってはならないもの」である。したがって最初に刀を抜く者は、秩序を破る無法者である。その無法者に対して初めて剣が抜かれなければならない。したがって江戸時代の武士の刀は敵を攻撃するためのものではなく、泰平の世の秩序を守る護国の剣であり、法の守護者として身分制度の第一位に置かれた者としての象徴である。
しかし、家康が国を治めるための思想的基盤とした無刀の精神を、剣のうえに体現しようとした宗矩の存在は、決して表に出てはいけないものであった。それは一個人の考えから出たものではなく、家康精神の実現でなければならなかったから。しかし宗矩の名は表に出なくても、柳生新陰流は将軍家の御流儀であるのだから、家康精神は宗矩の生き方や柳生流の剣の中に体現されていなければならなかった。宗矩はただひたすら家康精神を幕府の政策の中に生かし、自らの剣に体現する道を歩いていった。そして宗矩が切り開いた道こそが江戸時代の武士道の本質だったのである。こうして家康の文武両道の精神にしたがって、剣を自己修養の道としたのが柳生宗矩だったのである。
ひたすら家康の精神を学び、それを新陰流の「無刀」の極意と結びつけて泰平の世の武士道を確立することに心を尽くして来た宗矩の、家康なき後の課題は次のようなものであった。
一、家康の精神が幕政の中に生かされること。
二、幕政が家康の精神から逸脱しないように監視すること。
三、家康の精神と新陰流の「無刀」の極意が一体化した、泰平の世の王者の剣である新しい柳生新陰流を確立すること。
四、それを伝書として成文化すること。
五、家康の精神を柳生の剣を通して三代将軍となるべき家光に伝え、家光を理想的な武士像を体現した将軍として育てること。
#楽隠居です
「柳生新陰流を学ぶ」から引用します。
『私の研究によれば、海軍中佐であった下條は、同期の竹下勇大将を中心とした海軍将校達の、武田惣角や植芝盛平の合気柔術に対する関心に合わせて、新陰流の剣術的身体操作を体術的なものに変え、近衛師団師範となった厳長も近代戦に合うように新陰流を改革し、その子息の延春氏は現代剣道の強い影響下にあります。つまり江戸時代の武士の新陰流を伝えているのは神戸金七だけであると思われます。』
春風館に伝わる「無刀の精神」と「剣術的身体操作による無刀取の術理」が公開されるのを楽しみにしているのですが・・・
参照1:柳生新陰流を学ぶ
参照2:自然自由の勢を体得する
参照3:組打
参照4:斬り合う剣の業前は術と道とに通ず
参照5:最大最小理論・等速度理論
二代将軍秀忠の周囲は譜代の家臣が老中などの役職を固めており、宗矩は積極的に幕政に関われる立場ではなかった。そうした実務的なことよりも、宗矩を二代将軍秀忠の兵法師範とした家康は、おそらく三代将軍となるべき家光の兵法師範も宗矩に命じて、家光は宗矩が死んだ後、「われ天下統馭の道は宗矩に学びたり」(『家光実紀』附録巻二)と常に言い、五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保は「太神君(家康)の台命にも、神(新)陰流の道理を以て天下を治めよ、と御条目これあり」(『玉栄拾遺』)と言っているのだから、宗矩の隠された業績とは、江戸幕府の成立の理念そのものに関わっていなければならないというのが私の主張である。
宗矩は、上泉秀綱から父宗厳へと受け継がれた「無刀」の精神と、自分の方からは決して攻撃を仕かけず、相手の動きを見てから受けて立つ家康の精神を一体化して、泰平の世の武士の作法としての剣術を確立したのである。
家康が天下を統一し、数百年続いた乱世に平和をもたらして以降は、争いは「あってはならないもの」である。したがって最初に刀を抜く者は、秩序を破る無法者である。その無法者に対して初めて剣が抜かれなければならない。したがって江戸時代の武士の刀は敵を攻撃するためのものではなく、泰平の世の秩序を守る護国の剣であり、法の守護者として身分制度の第一位に置かれた者としての象徴である。
しかし、家康が国を治めるための思想的基盤とした無刀の精神を、剣のうえに体現しようとした宗矩の存在は、決して表に出てはいけないものであった。それは一個人の考えから出たものではなく、家康精神の実現でなければならなかったから。しかし宗矩の名は表に出なくても、柳生新陰流は将軍家の御流儀であるのだから、家康精神は宗矩の生き方や柳生流の剣の中に体現されていなければならなかった。宗矩はただひたすら家康精神を幕府の政策の中に生かし、自らの剣に体現する道を歩いていった。そして宗矩が切り開いた道こそが江戸時代の武士道の本質だったのである。こうして家康の文武両道の精神にしたがって、剣を自己修養の道としたのが柳生宗矩だったのである。
ひたすら家康の精神を学び、それを新陰流の「無刀」の極意と結びつけて泰平の世の武士道を確立することに心を尽くして来た宗矩の、家康なき後の課題は次のようなものであった。
一、家康の精神が幕政の中に生かされること。
二、幕政が家康の精神から逸脱しないように監視すること。
三、家康の精神と新陰流の「無刀」の極意が一体化した、泰平の世の王者の剣である新しい柳生新陰流を確立すること。
四、それを伝書として成文化すること。
五、家康の精神を柳生の剣を通して三代将軍となるべき家光に伝え、家光を理想的な武士像を体現した将軍として育てること。
#楽隠居です
「柳生新陰流を学ぶ」から引用します。
『私の研究によれば、海軍中佐であった下條は、同期の竹下勇大将を中心とした海軍将校達の、武田惣角や植芝盛平の合気柔術に対する関心に合わせて、新陰流の剣術的身体操作を体術的なものに変え、近衛師団師範となった厳長も近代戦に合うように新陰流を改革し、その子息の延春氏は現代剣道の強い影響下にあります。つまり江戸時代の武士の新陰流を伝えているのは神戸金七だけであると思われます。』
春風館に伝わる「無刀の精神」と「剣術的身体操作による無刀取の術理」が公開されるのを楽しみにしているのですが・・・
参照1:柳生新陰流を学ぶ
参照2:自然自由の勢を体得する
参照3:組打
参照4:斬り合う剣の業前は術と道とに通ず
参照5:最大最小理論・等速度理論
by centeringkokyu
| 2007-12-19 00:03
| 本などの紹介