2007年 06月 29日
医術は芸術? |
「医学は科学ではない」 米山公啓著から引用します。
近代臨床内科学の父ともいえるジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授であったウィリアム・オスラーは、医学生や看護師に向けて多くの講演をしているが、それらは『平静の心‥オスラー博士講演集』(日野原重明、仁木久恵訳、医学書院)として出版されている。
そのなかでギリシャの医学に触れ、プラトンの言葉を引用している。
「医術のほうは、患者の本性を考察し、また自分が取り行ういろいろな処置の根拠をもよく研究していて、そしてその一つひとつのケースについて理論的な説明を当てることができる技術(アート)である」
つまり、当時の医学はサイエンスとアートの融合したものを目指していたようだ。
医学が科学と考えられるようになったのは、近代医学以降の話で、それまでは医学は曖昧で科学的なものとは見なされていなかった。
イヴァン・イリッチ(『脱病院化社会』金子嗣郎訳、晶文社)によれば、病院は古代の終わりころから、旅行者、放浪者の宿舎として建てられ、十八世紀末までは病院に入ることは帰る望みのないこととされ、十七、十八世紀では、患者を測定した医師はやぶ医者だと思われていた。つまり体温を測ることすら、疑惑の日が向けられたのだ。
ところで、科学であるとはどういうことであろうか。
科学の定義は非常に難しいが、生物学著のE・0・ウィルソンによれば、
(1)実験を再現し、検証することができる
(2)それによって以前より万物の予測がたつようになる
この二つの条件を満たすものが科学であるとしている。つまり、「誰がやっても同じ結果がでる」ということであり、これがわかりやすい科学の定義である(ただし科学者側に自分の実験結果をすべて公開する勇気がなければ、インチキなデータで書き上げた論文のウソを見破ることが難しくなってしまう)。
科学においては再現性ということがもっとも重要な意味を持つだろう。となると、医学は果たして、現代において科学と考えられるだろうか。医術(アート)と呼ばれていたギリシャの医学と比べて、本当に現代医学は科学となってきたのだろうか。
この間いに答えることは非常に難しい。
たとえば、外科手術の成否は執刀医によって異なることを考えても、医学に再現性があると言い切ることがためらわれる。
これには二つの理由がある。
ひとつには、同じ患者というものが存在しないからだ。どんな病気においても、病気はその患者にとっては唯一のものである。
そもそも病気は、患者自身とその病原菌やがん細胞との相互関係によって起きてくる。
がん細胞は元はといえば患者の細胞から作り出されたものであり、異常増殖しているとはいえ、あくまでも患者の細胞の個性にもとづいている。そのため、病気は結局、細胞の個性の問題、つまりもとの遺伝子と深い関係があるのだ。
したがって、医者がいくら医学的に病気を分類しようとも、それは顕微鏡の上で死んだ細胞を見て行った病理的な区別であり、あるいはさまざまな検査をした結果からの診断にすぎない。病気は最先端の医学研究ではさまざまな分類がされているが、病因は細胞の個性に関係しているために、患者が同じような経過をたどらないのである。
要するに、同じ患者がいないのであるから、これを比較することが非常に難しいということだ。これが医学には再現性が欠けているという理由である。
もうひとつは医者自身の技術的な差の影響である。一人の患者で、二人の医者の技術的な差を比べることはできない。外科的な手術であれば、医者個人の技術レベルの差があることは想像できる。
内科医が風邪薬を処方するということですら、患者の治癒には影響がでる可能性がある。というのは、患者との信頼関係ができあがっている医者が「必ずよくなりますよ」と言うことで、患者のもつ自然治癒力が高まる可能性があるからだ。
医学はそういった見えない部分での、患者への影響が非常に大きい。
以上のように考えると、どの医者が診ても同じ結果ということが非常に難しくなってくるわけである。
参照1:それでも地球は回っている
参照2:素人だから・・・
近代臨床内科学の父ともいえるジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授であったウィリアム・オスラーは、医学生や看護師に向けて多くの講演をしているが、それらは『平静の心‥オスラー博士講演集』(日野原重明、仁木久恵訳、医学書院)として出版されている。
そのなかでギリシャの医学に触れ、プラトンの言葉を引用している。
「医術のほうは、患者の本性を考察し、また自分が取り行ういろいろな処置の根拠をもよく研究していて、そしてその一つひとつのケースについて理論的な説明を当てることができる技術(アート)である」
つまり、当時の医学はサイエンスとアートの融合したものを目指していたようだ。
医学が科学と考えられるようになったのは、近代医学以降の話で、それまでは医学は曖昧で科学的なものとは見なされていなかった。
イヴァン・イリッチ(『脱病院化社会』金子嗣郎訳、晶文社)によれば、病院は古代の終わりころから、旅行者、放浪者の宿舎として建てられ、十八世紀末までは病院に入ることは帰る望みのないこととされ、十七、十八世紀では、患者を測定した医師はやぶ医者だと思われていた。つまり体温を測ることすら、疑惑の日が向けられたのだ。
ところで、科学であるとはどういうことであろうか。
科学の定義は非常に難しいが、生物学著のE・0・ウィルソンによれば、
(1)実験を再現し、検証することができる
(2)それによって以前より万物の予測がたつようになる
この二つの条件を満たすものが科学であるとしている。つまり、「誰がやっても同じ結果がでる」ということであり、これがわかりやすい科学の定義である(ただし科学者側に自分の実験結果をすべて公開する勇気がなければ、インチキなデータで書き上げた論文のウソを見破ることが難しくなってしまう)。
科学においては再現性ということがもっとも重要な意味を持つだろう。となると、医学は果たして、現代において科学と考えられるだろうか。医術(アート)と呼ばれていたギリシャの医学と比べて、本当に現代医学は科学となってきたのだろうか。
この間いに答えることは非常に難しい。
たとえば、外科手術の成否は執刀医によって異なることを考えても、医学に再現性があると言い切ることがためらわれる。
これには二つの理由がある。
ひとつには、同じ患者というものが存在しないからだ。どんな病気においても、病気はその患者にとっては唯一のものである。
そもそも病気は、患者自身とその病原菌やがん細胞との相互関係によって起きてくる。
がん細胞は元はといえば患者の細胞から作り出されたものであり、異常増殖しているとはいえ、あくまでも患者の細胞の個性にもとづいている。そのため、病気は結局、細胞の個性の問題、つまりもとの遺伝子と深い関係があるのだ。
したがって、医者がいくら医学的に病気を分類しようとも、それは顕微鏡の上で死んだ細胞を見て行った病理的な区別であり、あるいはさまざまな検査をした結果からの診断にすぎない。病気は最先端の医学研究ではさまざまな分類がされているが、病因は細胞の個性に関係しているために、患者が同じような経過をたどらないのである。
要するに、同じ患者がいないのであるから、これを比較することが非常に難しいということだ。これが医学には再現性が欠けているという理由である。
もうひとつは医者自身の技術的な差の影響である。一人の患者で、二人の医者の技術的な差を比べることはできない。外科的な手術であれば、医者個人の技術レベルの差があることは想像できる。
内科医が風邪薬を処方するということですら、患者の治癒には影響がでる可能性がある。というのは、患者との信頼関係ができあがっている医者が「必ずよくなりますよ」と言うことで、患者のもつ自然治癒力が高まる可能性があるからだ。
医学はそういった見えない部分での、患者への影響が非常に大きい。
以上のように考えると、どの医者が診ても同じ結果ということが非常に難しくなってくるわけである。
参照1:それでも地球は回っている
参照2:素人だから・・・
by centeringkokyu
| 2007-06-29 00:03
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