2007年 04月 28日
最大最小理論・等速度理論 |
「消える動きを求めて 鉄山パリ合宿記」 振武館 黒田鉄山著 から抜粋してご紹介します。
ここで私のいう「型」について確認をしておきたい。
型というものは、実戦のなかから生まれ育ってきたものではあるが、それは実戦の雛形などではなく、実戦に対応し得る術技的能力を養うための身体運用法としての公理公式とみなさなければならない。これは型が初伝から奥伝へと連なる体系を持つものであることを見ても理解し得ることである。
実戦には初伝も奥伝もなく、また実戦では型どおりになど事が運ぶわけがない。このような約束事のない無法地帯ともいえる戦闘の場で、自己の身体生命を守る楯、矛が型なのである。
型そのものは、実戦の場で我々が型のとおりに動くことなどまたく期待していない。型で学ぶ身体の運用法則そのものを要求しているのみである。つまり型においては、実戦における身体や力の大小、動きの遅速、武器武具の差異などの単なる日常性を越えた、様々な不測の事態をも克服し得る能力が要求されている。
そして型は、千変万化の意外性の大半を克服し得る能力を備えており、それこそが古人が伝えようとした、見えないが、しかしもっとも重要な型の部分なのである。
実戦においては、型どおりの手順、恰好で動作をする必要などまったくない。もし型どおりになったとすれば、それは、型の合理合法性つまり最大の動きで最小、最短、最速、最強というひとつの動き(最大最小理論)が相手との複雑な状況下において、結果として最も適した形であらわれたにすぎない。相手に応じて、ひとつとして同じ型が生まれることなどあり得ないし、あり得るわけがない。
しかし、それでもなおその千変万化の動きは、合理合法な一定の法則を備えた動きであるがゆえに、誰と相対しても「型どおりの動き」「理に適った動き」と称されるべきものでなければならないし、そうであったはずである。
また、型の修練に際しては、つぎのことに厳重な注意を払わなければならない。それは実際の動きには関係なく等速度で動くということである(等速度理論)。もし、加速度運動をその運動の基本原理とするならば、たとえば居合において、「離れの至極」ーーつまり、太刀の切っ先が鯉口から抜け出た瞬間がその切っ先相手に到達した時とされる極意的心身の状態ーーを実現することは到底不可能である。
加速度運動ではないからこそ、ゆっくりときわめて静かに、動かぬところを動くようにし、動いてはいけないところを動かぬように体を働かせることにより、調和のとれたひとつの動きを得ることができるのだ。そしてこの時、その調和のとれた動きはゆっくりでありながら、「最速の動き」の方法論となるのである。
さらに、この等速度で動く修練により、一調子あるいは無拍子などといわれる始めと終わりの区別もない、気配のない運動形態が生まれる。このような気配のない動きというものは、ふつうに動いているかぎり、それが速い動きであることを相手に気付かせない。
型とは何か、型によって何を学ぼうとするのかが明確に理解されれば、型を学ぶこと自体が実戦そのものに直結する世界であることが理解されるであろう。それだからこそ、それはまた逆に、型そのものは実戦に直結したものではなく、まして実戦の雛形などではないということになる。(中略)
型を学ぶことにより、手の上げ下げから歩行にいたるまで、あらゆる日常の動作が武術的に術技化されて、初めて古伝の武術が身体文化として今日に伝えられているといえるのではないだろうか。
私が型という語を使う場合は、以上のような意味の型をさす。型によって最大最小理論、等速度理論、そして一調子の動き、浮身、無足の法などを学ぶことにより、その動きは消えて見える。したがって、現今多く眼にする型(形)などと同一視、混同されるのは私にとりはなはだ不都合きわまりないことである。動きの消えるものが私に伝えられた型の特徴であり、私にとって唯一の型である。
参照1:見えない動き
参照2:知るための訓練 スローモーション
参照3:型ができる以前を考える
参照4:日本は「本物」の伝統芸能を守れるか
参照5:術と道
参照6:道は己の中に
参照7:全体を見ること
参照8:道歌してる?Vol.1
ここで私のいう「型」について確認をしておきたい。
型というものは、実戦のなかから生まれ育ってきたものではあるが、それは実戦の雛形などではなく、実戦に対応し得る術技的能力を養うための身体運用法としての公理公式とみなさなければならない。これは型が初伝から奥伝へと連なる体系を持つものであることを見ても理解し得ることである。
実戦には初伝も奥伝もなく、また実戦では型どおりになど事が運ぶわけがない。このような約束事のない無法地帯ともいえる戦闘の場で、自己の身体生命を守る楯、矛が型なのである。
型そのものは、実戦の場で我々が型のとおりに動くことなどまたく期待していない。型で学ぶ身体の運用法則そのものを要求しているのみである。つまり型においては、実戦における身体や力の大小、動きの遅速、武器武具の差異などの単なる日常性を越えた、様々な不測の事態をも克服し得る能力が要求されている。
そして型は、千変万化の意外性の大半を克服し得る能力を備えており、それこそが古人が伝えようとした、見えないが、しかしもっとも重要な型の部分なのである。
実戦においては、型どおりの手順、恰好で動作をする必要などまったくない。もし型どおりになったとすれば、それは、型の合理合法性つまり最大の動きで最小、最短、最速、最強というひとつの動き(最大最小理論)が相手との複雑な状況下において、結果として最も適した形であらわれたにすぎない。相手に応じて、ひとつとして同じ型が生まれることなどあり得ないし、あり得るわけがない。
しかし、それでもなおその千変万化の動きは、合理合法な一定の法則を備えた動きであるがゆえに、誰と相対しても「型どおりの動き」「理に適った動き」と称されるべきものでなければならないし、そうであったはずである。
また、型の修練に際しては、つぎのことに厳重な注意を払わなければならない。それは実際の動きには関係なく等速度で動くということである(等速度理論)。もし、加速度運動をその運動の基本原理とするならば、たとえば居合において、「離れの至極」ーーつまり、太刀の切っ先が鯉口から抜け出た瞬間がその切っ先相手に到達した時とされる極意的心身の状態ーーを実現することは到底不可能である。
加速度運動ではないからこそ、ゆっくりときわめて静かに、動かぬところを動くようにし、動いてはいけないところを動かぬように体を働かせることにより、調和のとれたひとつの動きを得ることができるのだ。そしてこの時、その調和のとれた動きはゆっくりでありながら、「最速の動き」の方法論となるのである。
さらに、この等速度で動く修練により、一調子あるいは無拍子などといわれる始めと終わりの区別もない、気配のない運動形態が生まれる。このような気配のない動きというものは、ふつうに動いているかぎり、それが速い動きであることを相手に気付かせない。
型とは何か、型によって何を学ぼうとするのかが明確に理解されれば、型を学ぶこと自体が実戦そのものに直結する世界であることが理解されるであろう。それだからこそ、それはまた逆に、型そのものは実戦に直結したものではなく、まして実戦の雛形などではないということになる。(中略)
型を学ぶことにより、手の上げ下げから歩行にいたるまで、あらゆる日常の動作が武術的に術技化されて、初めて古伝の武術が身体文化として今日に伝えられているといえるのではないだろうか。
私が型という語を使う場合は、以上のような意味の型をさす。型によって最大最小理論、等速度理論、そして一調子の動き、浮身、無足の法などを学ぶことにより、その動きは消えて見える。したがって、現今多く眼にする型(形)などと同一視、混同されるのは私にとりはなはだ不都合きわまりないことである。動きの消えるものが私に伝えられた型の特徴であり、私にとって唯一の型である。
参照1:見えない動き
参照2:知るための訓練 スローモーション
参照3:型ができる以前を考える
参照4:日本は「本物」の伝統芸能を守れるか
参照5:術と道
参照6:道は己の中に
参照7:全体を見ること
参照8:道歌してる?Vol.1
by centeringkokyu
| 2007-04-28 00:00
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