2007年 04月 26日
いい加減に生きる |
「いい加減に生きるーースピリチュアル仏教のすすめ33」 大下大圓著から抜粋してご紹介します。
専門家からは異論反論あるかもしれませんが、仏教とは、突きつめれば「四苦八苦」、つまり人間が生きる上で通らずにはいられない苦しみを、どうやったら乗り越えることができるかを考えるもの、そうとらえていただいていいのではないかとわたしは考えています。
四苦八苦の個々の中身については、のちほど詳しくお話させていただくとして、とにかく本来仏教とは、生きるための教えなのです。
たとえばいま、仏教といえばお葬式というイメージがありますが、もともとお釈迦さまは弟子たちに、「お葬式は在家の者がするから僧たちがする必要はない」と教えています。そもそものはじまりでは、仏教の僧は、お葬式をしないのです。生老病死という苦しみを抱えて、なぜわたしたちは生きなければならないのか、そういう生きるための知恵を考える、それが仏教の本来のあり方なのです。
「仏教とは、仏さまのマネをして生きる方法を教えてくれるのも」
どうせこの身体という器を使って、いまという世の中を生きていかなければならないのだから、それを否定するのではなく、絶対に肯定して生きてみようじゃないか、そのくらい大胆な教えなのです。
いのちとは、生きることを知ることであり、死ぬことを知ることです。お釈迦さまが生きることを四つの苦しみととらえたのは、いつの時代も変わらず困難な人間の一生を、なんとか折り合いをつけて豊かなものとして生き抜くための、「生きる術」そのものでした。どういう生き方をするかを学ぶためのひとつの課題が「生老病死」の苦しみとどう向き合うか、ということであって、そこがすべての出発点なのです。
まさに自分の命と向き合うことなのです。
◎「止観」はニュートラルな視座
人生を長いスパンで考えてみることです。現在の悩みを引き伸ばしてみる。そうすることで、こころがふっと軽くなることがあります。
もしくは、本当にそれが悩みなのか深く考えてみる。そのうえで、悩むことをいったんやめて、立ち止まってふり返ってみる。すると、「待てよ、こんなことは本当は、どうでもいいじゃないか」ということが見えてくることがある。
一度ふっと視線を外してみる、前に進むだけでなくちょっと引いて見てみる。これが、仏教の「止観」の教えです。「止観」とは、サンスクリット語の「シャマタ」と「ヴィパシャナー」を訳したもので、「こころの乱れたものの見方を止めることによって知恵を起こし、その知恵でもって対象を正しく観察する」という教えです。天台宗を開いた最澄さんが、この止観の教えを中国からもたらしました。
四苦八苦というように、たとえば年を取る、病気になる、障害を持つということは、自分の目の前に起きている困難です。乗り越えられないのではないかと思われるような困難に出くわしたとき、まずはその場に留まって、先にお話しした「四諦八正道」の知恵なども活用して考えてみる。それが「止観」です。
こんなたとえをすると、わかりやすいかもしれませんね。
だれもがみんな、まっすぐ歩いています。そのままいけばどんどん前に行ってしまうので、いったん自分だけ止まってみる。すると、周りがみんな前に進んでいきます。まるで自分は後ろに下がっているように見えるけれども、じつは、周りだけが前に行って、自分はその場にしっかり留まっているだけ。 このような意識でものごとを見るというのが大事な視点で、後ろから見ると、急に全体がよく見えてくる。そのまま集団といっしょに流れていたらわからなかったことがわかってくる。自分のこころが見えてくる。
出世競争に敗れた人が、「出世競争がどうしたっていうんだ。会社を引退したらみんな同じだ」。立ち止まってそんな視点で自分と周りの人を見てみたら、出世のために自分の人生を捧げるよりもっと大切なことがあったことに気づく……。営利を求めていた自分がボランティアの世界に意義を見出す。そんな例は枚挙にいとまがないと思いますが、いったん離れてみる、離れた位置からあるがままに見てみる。すると新しい道が開けてくる。それがニュートラルな「止観」の智恵です。
◎窮屈な自分を抜け出し、自分と和解する
歴史的に見れば、日本人の基層文化を再構築し、大胆に取り入れて教えを説いたのが天台宗の最澄さんや真言宗の弘法大師さま(空海さん)ですし、曼荼羅の思想のなかには、こうした日本の基層文化の精神が多く取り入れられています。
弘法大師さまは、日本の基層文化をベースに、仏教という新しい息吹を日本に吹き込んでいきました。
その中心にあるのが、仏教の中道の教えです。極端に走らず、「これだけが絶対だ」と思いつめず、「これもあるよ」「それもあるよ」とすべてを受け入れて、「じやあ、あなたはどうする?」と自分なりの偏らない生き方を見出してもらう。
中道の教えは、ニュートラル・ポイント(点)ではなくて、ニュートラル・ゾーン(空間、領域)というふうにとらえていくとわかりやすいように思います。「幅」があるのです。真ん中のただ一点ではなく、「だいたいこのへん」というくらいの幅がある。
ですから、人によっては中道のなかで少し右側、少し左側ということがあるかもしれないし、それがその人の個性、持ち味となっていく。偏らないこころを大事にしながら、自分なりのよさを出していくことを大切にする。
「いい加減」でいいのです。
あなたのやっていることはそれでいいのです。もっと楽にしていいのです。
大切なのは、自分と自分の生き方にどう折り合いをつけていくか、ということです。自分といかに和解していくか、ということなのです。そして、殻に閉じこもり、他人を否定する窮屈な自分を抜け出して、偏らない自分の「いい加減」を見つけて、のびやかに自由自在に生きていく。
それがお釈迦さまが最後に伝えたかった〝こころ″なのではないでしょうか。
飛騨千光寺ホームページもご覧下さい。そして、このHP内で「高野山大学」を検索してみてください。ついでに、「円空仏について」も是非ご覧下さい。
参照:スピリチュアル
専門家からは異論反論あるかもしれませんが、仏教とは、突きつめれば「四苦八苦」、つまり人間が生きる上で通らずにはいられない苦しみを、どうやったら乗り越えることができるかを考えるもの、そうとらえていただいていいのではないかとわたしは考えています。
四苦八苦の個々の中身については、のちほど詳しくお話させていただくとして、とにかく本来仏教とは、生きるための教えなのです。
たとえばいま、仏教といえばお葬式というイメージがありますが、もともとお釈迦さまは弟子たちに、「お葬式は在家の者がするから僧たちがする必要はない」と教えています。そもそものはじまりでは、仏教の僧は、お葬式をしないのです。生老病死という苦しみを抱えて、なぜわたしたちは生きなければならないのか、そういう生きるための知恵を考える、それが仏教の本来のあり方なのです。
「仏教とは、仏さまのマネをして生きる方法を教えてくれるのも」
どうせこの身体という器を使って、いまという世の中を生きていかなければならないのだから、それを否定するのではなく、絶対に肯定して生きてみようじゃないか、そのくらい大胆な教えなのです。
いのちとは、生きることを知ることであり、死ぬことを知ることです。お釈迦さまが生きることを四つの苦しみととらえたのは、いつの時代も変わらず困難な人間の一生を、なんとか折り合いをつけて豊かなものとして生き抜くための、「生きる術」そのものでした。どういう生き方をするかを学ぶためのひとつの課題が「生老病死」の苦しみとどう向き合うか、ということであって、そこがすべての出発点なのです。
まさに自分の命と向き合うことなのです。
◎「止観」はニュートラルな視座
人生を長いスパンで考えてみることです。現在の悩みを引き伸ばしてみる。そうすることで、こころがふっと軽くなることがあります。
もしくは、本当にそれが悩みなのか深く考えてみる。そのうえで、悩むことをいったんやめて、立ち止まってふり返ってみる。すると、「待てよ、こんなことは本当は、どうでもいいじゃないか」ということが見えてくることがある。
一度ふっと視線を外してみる、前に進むだけでなくちょっと引いて見てみる。これが、仏教の「止観」の教えです。「止観」とは、サンスクリット語の「シャマタ」と「ヴィパシャナー」を訳したもので、「こころの乱れたものの見方を止めることによって知恵を起こし、その知恵でもって対象を正しく観察する」という教えです。天台宗を開いた最澄さんが、この止観の教えを中国からもたらしました。
四苦八苦というように、たとえば年を取る、病気になる、障害を持つということは、自分の目の前に起きている困難です。乗り越えられないのではないかと思われるような困難に出くわしたとき、まずはその場に留まって、先にお話しした「四諦八正道」の知恵なども活用して考えてみる。それが「止観」です。
こんなたとえをすると、わかりやすいかもしれませんね。
だれもがみんな、まっすぐ歩いています。そのままいけばどんどん前に行ってしまうので、いったん自分だけ止まってみる。すると、周りがみんな前に進んでいきます。まるで自分は後ろに下がっているように見えるけれども、じつは、周りだけが前に行って、自分はその場にしっかり留まっているだけ。 このような意識でものごとを見るというのが大事な視点で、後ろから見ると、急に全体がよく見えてくる。そのまま集団といっしょに流れていたらわからなかったことがわかってくる。自分のこころが見えてくる。
出世競争に敗れた人が、「出世競争がどうしたっていうんだ。会社を引退したらみんな同じだ」。立ち止まってそんな視点で自分と周りの人を見てみたら、出世のために自分の人生を捧げるよりもっと大切なことがあったことに気づく……。営利を求めていた自分がボランティアの世界に意義を見出す。そんな例は枚挙にいとまがないと思いますが、いったん離れてみる、離れた位置からあるがままに見てみる。すると新しい道が開けてくる。それがニュートラルな「止観」の智恵です。
◎窮屈な自分を抜け出し、自分と和解する
歴史的に見れば、日本人の基層文化を再構築し、大胆に取り入れて教えを説いたのが天台宗の最澄さんや真言宗の弘法大師さま(空海さん)ですし、曼荼羅の思想のなかには、こうした日本の基層文化の精神が多く取り入れられています。
弘法大師さまは、日本の基層文化をベースに、仏教という新しい息吹を日本に吹き込んでいきました。
その中心にあるのが、仏教の中道の教えです。極端に走らず、「これだけが絶対だ」と思いつめず、「これもあるよ」「それもあるよ」とすべてを受け入れて、「じやあ、あなたはどうする?」と自分なりの偏らない生き方を見出してもらう。
中道の教えは、ニュートラル・ポイント(点)ではなくて、ニュートラル・ゾーン(空間、領域)というふうにとらえていくとわかりやすいように思います。「幅」があるのです。真ん中のただ一点ではなく、「だいたいこのへん」というくらいの幅がある。
ですから、人によっては中道のなかで少し右側、少し左側ということがあるかもしれないし、それがその人の個性、持ち味となっていく。偏らないこころを大事にしながら、自分なりのよさを出していくことを大切にする。
「いい加減」でいいのです。
あなたのやっていることはそれでいいのです。もっと楽にしていいのです。
大切なのは、自分と自分の生き方にどう折り合いをつけていくか、ということです。自分といかに和解していくか、ということなのです。そして、殻に閉じこもり、他人を否定する窮屈な自分を抜け出して、偏らない自分の「いい加減」を見つけて、のびやかに自由自在に生きていく。
それがお釈迦さまが最後に伝えたかった〝こころ″なのではないでしょうか。
飛騨千光寺ホームページもご覧下さい。そして、このHP内で「高野山大学」を検索してみてください。ついでに、「円空仏について」も是非ご覧下さい。
参照:スピリチュアル
by centeringkokyu
| 2007-04-26 00:00
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