2007年 04月 09日
日中記者交換協定 |
日中記者交換協定から抜粋してご紹介します。
日本のマスコミは、中国に不利な報道はしないという契約を結んでいます。
昭和39年(1964)松村謙三ら親中派の自民党代議士3名が訪中し、中国共産党と日中記者交換協定を結び、日中双方が記者交換に当たって必ず守るべき事項として、「日中関係の政治三原則」
1) 中国を敵視しない 2)二つの中国を造る陰謀に加わらない
3) 日中国交正常化を妨げない を受諾してしまったのである。
事実上中国共産党によって恣意的に解釈できる検閲条項に等しい日中政治三原則に拘束されてしまい、朝日新聞以下我が国のマスコミは、
A. チベット、ウイグルを始め周辺諸国諸民族に対する中国共産党の侵略行為とジェノサイド(大虐殺)
B. 中国共産党の腐敗汚職、彼等に対する中国人民の憎悪反発
C. 中共軍の軍備拡張と我が国の領海、排他的経済水域への侵犯行為
D. 内憂を外患に転ずる為の中国共産党の虚偽に満ちた反日政策宣伝
等を批判せず、或いは報道さえしないのである。
恒常的に人権侵害を行っている国はあまりに報道されない!
次に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋します。
朝日新聞の中国報道問題
1964年頃より日中間で新聞記者交流が行われ各新聞社が北京支局を開設していたが、1967年頃から1974年頃まで中国側による再入国拒否などで、数ヶ月ほど朝日新聞社だけだった事もあった。
言論の自由、取材の自由がほとんどない当時の中国に、朝日新聞だけが特派員をおいていることに、内外から批判が集まったという。この点を、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は、こう答えており、中国政府の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。
「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)さらに、「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」(同『新聞研究』より)
当時の朝日新聞には親中国的な報道が存在したとの見方もある。広岡知男社長は自ら顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られるエドガー・スノーである。さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして中国政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。
しかし、文化大革命初期の混乱を全く報じていなかったわけではない。外電を中心に、紅衛兵による武闘を伝える記事を掲載しているのである。勿論、文革に批判的な報道をほとんど外電を通してしか報じていないというのでは到底公正な報道を行なっているとは言えない。また、「文革礼賛」は朝日新聞だけの特権ではなく、濃淡の差はあれ、他の新聞や雑誌にも現れていたが、朝日新聞が突出して、「文革礼賛」を行っていたという印象を持たれたことも確かである。稲垣の著作は、この点について留意しているが、「朝日新聞の文革礼賛」だけが突出してしまっていると考えるものもある。
人脈的には、上記の秋岡家栄記者が後に「人民日報」海外版の日本代理人に就任、後に北京特派員、北京支局長になった横堀克己氏が中国共産党傘下の対日政治宣伝雑誌『人民中国』の編集顧問に就任したりする中国あるいは中国共産党との繋がりを批判する向きもある。ただし、特定の国に長期赴任した記者が現地の機関に再雇用される例は、朝日と中国との関係に限ったことではないが、好ましくない事である。
また、朝日新聞と上記の「人民日報」は提携関係にあり、朝日新聞のWebサイトは人民日報の記事を、特別コーナーにて常時掲載している(2006年2月現在)。新華社の日本支局も朝日新聞東京本社の社屋内にある。
参照:産経新聞の紹介
#楽隠居です
私が高校生の頃、中国は文化大革命の真っ最中でした。深夜に北京放送(日本語)をよく聞いていました。別に思想的なことではなく、お話がちょと荒唐無稽なところがあって面白かったからなんですが、それに、勉強が嫌いでしたから・・・
大学に入る頃は、学生運動の真っ最中。東京大学の入試もできませんでした。ですから、私の大学卒業年度には、留年した人は別として東大生はいないのです。大学に入っても、神戸大学や関西学院は、夏頃まで授業ができない状態でした。
その大学時代の一年後輩が昨日テレビに出ていました。去年、偶然芦屋駅で会った時に、独立したという話は聞いていたのですが、現在は、神戸コレクションの上海公演を企画、運営しているエグゼクティブプロデューサーになっておられました。
日本のマスコミは、中国に不利な報道はしないという契約を結んでいます。
昭和39年(1964)松村謙三ら親中派の自民党代議士3名が訪中し、中国共産党と日中記者交換協定を結び、日中双方が記者交換に当たって必ず守るべき事項として、「日中関係の政治三原則」
1) 中国を敵視しない 2)二つの中国を造る陰謀に加わらない
3) 日中国交正常化を妨げない を受諾してしまったのである。
事実上中国共産党によって恣意的に解釈できる検閲条項に等しい日中政治三原則に拘束されてしまい、朝日新聞以下我が国のマスコミは、
A. チベット、ウイグルを始め周辺諸国諸民族に対する中国共産党の侵略行為とジェノサイド(大虐殺)
B. 中国共産党の腐敗汚職、彼等に対する中国人民の憎悪反発
C. 中共軍の軍備拡張と我が国の領海、排他的経済水域への侵犯行為
D. 内憂を外患に転ずる為の中国共産党の虚偽に満ちた反日政策宣伝
等を批判せず、或いは報道さえしないのである。
恒常的に人権侵害を行っている国はあまりに報道されない!
次に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋します。
朝日新聞の中国報道問題
1964年頃より日中間で新聞記者交流が行われ各新聞社が北京支局を開設していたが、1967年頃から1974年頃まで中国側による再入国拒否などで、数ヶ月ほど朝日新聞社だけだった事もあった。
言論の自由、取材の自由がほとんどない当時の中国に、朝日新聞だけが特派員をおいていることに、内外から批判が集まったという。この点を、1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は、こう答えており、中国政府の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。
「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)さらに、「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」(同『新聞研究』より)
当時の朝日新聞には親中国的な報道が存在したとの見方もある。広岡知男社長は自ら顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られるエドガー・スノーである。さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして中国政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。
しかし、文化大革命初期の混乱を全く報じていなかったわけではない。外電を中心に、紅衛兵による武闘を伝える記事を掲載しているのである。勿論、文革に批判的な報道をほとんど外電を通してしか報じていないというのでは到底公正な報道を行なっているとは言えない。また、「文革礼賛」は朝日新聞だけの特権ではなく、濃淡の差はあれ、他の新聞や雑誌にも現れていたが、朝日新聞が突出して、「文革礼賛」を行っていたという印象を持たれたことも確かである。稲垣の著作は、この点について留意しているが、「朝日新聞の文革礼賛」だけが突出してしまっていると考えるものもある。
人脈的には、上記の秋岡家栄記者が後に「人民日報」海外版の日本代理人に就任、後に北京特派員、北京支局長になった横堀克己氏が中国共産党傘下の対日政治宣伝雑誌『人民中国』の編集顧問に就任したりする中国あるいは中国共産党との繋がりを批判する向きもある。ただし、特定の国に長期赴任した記者が現地の機関に再雇用される例は、朝日と中国との関係に限ったことではないが、好ましくない事である。
また、朝日新聞と上記の「人民日報」は提携関係にあり、朝日新聞のWebサイトは人民日報の記事を、特別コーナーにて常時掲載している(2006年2月現在)。新華社の日本支局も朝日新聞東京本社の社屋内にある。
参照:産経新聞の紹介
#楽隠居です
私が高校生の頃、中国は文化大革命の真っ最中でした。深夜に北京放送(日本語)をよく聞いていました。別に思想的なことではなく、お話がちょと荒唐無稽なところがあって面白かったからなんですが、それに、勉強が嫌いでしたから・・・
大学に入る頃は、学生運動の真っ最中。東京大学の入試もできませんでした。ですから、私の大学卒業年度には、留年した人は別として東大生はいないのです。大学に入っても、神戸大学や関西学院は、夏頃まで授業ができない状態でした。
その大学時代の一年後輩が昨日テレビに出ていました。去年、偶然芦屋駅で会った時に、独立したという話は聞いていたのですが、現在は、神戸コレクションの上海公演を企画、運営しているエグゼクティブプロデューサーになっておられました。
by centeringkokyu
| 2007-04-09 00:03
| 社会