2007年 02月 22日
部分と全体 |
「イメージ健康体操」増永静人著から抜粋してご紹介します。
生命というのは、いつも丸ごとの全体であって、部分がより集まってできているものではありません。人間は何十兆の細胞から成立っているというのは科学的に正しいのですが、人間という生命体は、細胞が集まってできたのではなく、一つの細胞が分裂して何十兆に分かれているだけです。生物の中には、集合体として生存するものも、共同体として成立つのもありますがそれは全体として一つの存在です。人間も、一人は生物的単位であり得ても、生活するのは、社会共同体の一員であって、全体を分けもつことで生きられるので、個々に分かれたものが集まっているのではないのです。
部分的なものを切り離して、その集合した形で全体を理解するのは、意識の働きにほかなりません。意識は部分を区切り、そのものだけを取り出して他から区別し、その関係づけによって、全体を理解するのです。社会共同体に於て分業がはっきり意識して行なわれるようになって、それぞれの持分を区分けする知能が発達し、自分という考えが生まれ、その区切りが「我」という意識を育てました。近世ヨーロッパは、ものを区切る科学思想の発達で、我を人間の単位として考えたのです。意識できるものが、存在の基本であるという単位によって、全体を理解する方法ができ上がったのです。
人間は、心と身体に分かれ、身体は解剖的な組織やその単位である細胞によって考えられてきました。筋肉・骨格・神経・血液といった部分から健康が考えられ、これを整え鍛える体操の理論づけが行なわれました。しかし、私たちは、決してその部分を生きてとり出すことも、動かすこともできないのであって、どんなに部分を意識的に動かしたとしても、それは常に全体との関連でしかあり得ない、ということは疑えないことなのです。
部分は全体の原因にはなり得ません。だから骨格だけを矯正することも、ある臓器だけを整えることも、ある筋肉だけを動かすことも不可能なのです。部分は、ただ意識することができ、その意識によって、気を集中して目立たせ力をいれることはできます。そのとき、全体はその背後にあって、意識から見えにくくなっているだけなのです。病気の症状は部分にあらわれ、そこだけが悪いように意識させますが、その影響は全体の生命に及び、むしろ全体の力によって、症状を部分的にあらわしているにすぎないのです。病んでいるのは部分ではなく、全体の生命そのものです。
意識がとり出したものにとらわれること、それは全体の歪みを早く、はっきりと気付かせるための役割があるからです。生命にとっては、その部分だけをとり出して、どうすることもできないのに、意識はあたかもその部分が独立して存在しているように考えて、そこに作用を及ぼそうとします。我が強くなればなる程、社会から孤立するように、意識をはっきりさせればさせる程、その部分は生命から遊離して、ものとしての性質を強めてきます。流れ、動き、全体との調和が失われ、物質的な固さ、不自由さ、個別的で、ギゴチない、意に反した運動をもつようになるわけです。病人とは、自分の中にそうした部分をもつか、または自分自身の我を、そのような存在として社会の中に部分的に孤立させることを意味します。
生命というのは、いつも丸ごとの全体であって、部分がより集まってできているものではありません。人間は何十兆の細胞から成立っているというのは科学的に正しいのですが、人間という生命体は、細胞が集まってできたのではなく、一つの細胞が分裂して何十兆に分かれているだけです。生物の中には、集合体として生存するものも、共同体として成立つのもありますがそれは全体として一つの存在です。人間も、一人は生物的単位であり得ても、生活するのは、社会共同体の一員であって、全体を分けもつことで生きられるので、個々に分かれたものが集まっているのではないのです。
部分的なものを切り離して、その集合した形で全体を理解するのは、意識の働きにほかなりません。意識は部分を区切り、そのものだけを取り出して他から区別し、その関係づけによって、全体を理解するのです。社会共同体に於て分業がはっきり意識して行なわれるようになって、それぞれの持分を区分けする知能が発達し、自分という考えが生まれ、その区切りが「我」という意識を育てました。近世ヨーロッパは、ものを区切る科学思想の発達で、我を人間の単位として考えたのです。意識できるものが、存在の基本であるという単位によって、全体を理解する方法ができ上がったのです。
人間は、心と身体に分かれ、身体は解剖的な組織やその単位である細胞によって考えられてきました。筋肉・骨格・神経・血液といった部分から健康が考えられ、これを整え鍛える体操の理論づけが行なわれました。しかし、私たちは、決してその部分を生きてとり出すことも、動かすこともできないのであって、どんなに部分を意識的に動かしたとしても、それは常に全体との関連でしかあり得ない、ということは疑えないことなのです。
部分は全体の原因にはなり得ません。だから骨格だけを矯正することも、ある臓器だけを整えることも、ある筋肉だけを動かすことも不可能なのです。部分は、ただ意識することができ、その意識によって、気を集中して目立たせ力をいれることはできます。そのとき、全体はその背後にあって、意識から見えにくくなっているだけなのです。病気の症状は部分にあらわれ、そこだけが悪いように意識させますが、その影響は全体の生命に及び、むしろ全体の力によって、症状を部分的にあらわしているにすぎないのです。病んでいるのは部分ではなく、全体の生命そのものです。
意識がとり出したものにとらわれること、それは全体の歪みを早く、はっきりと気付かせるための役割があるからです。生命にとっては、その部分だけをとり出して、どうすることもできないのに、意識はあたかもその部分が独立して存在しているように考えて、そこに作用を及ぼそうとします。我が強くなればなる程、社会から孤立するように、意識をはっきりさせればさせる程、その部分は生命から遊離して、ものとしての性質を強めてきます。流れ、動き、全体との調和が失われ、物質的な固さ、不自由さ、個別的で、ギゴチない、意に反した運動をもつようになるわけです。病人とは、自分の中にそうした部分をもつか、または自分自身の我を、そのような存在として社会の中に部分的に孤立させることを意味します。
by centeringkokyu
| 2007-02-22 00:03
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