2007年 02月 05日
学ぶとは洞察力を養うこと |
ユダヤ処世術 5000年の苦難を生き抜いた英知
M・トケイヤー 加瀬英明訳 から抜粋してご紹介します。
質問することは大切なことである。人間は学ぶことを通して、一つ大切なことを学ぶ。それは、つねに疑い、質問することである。疑うことは知性の入口だ。知れば知るほど疑うようになる。質問することが増えてゆく。質問は人間を進歩させる。
自分に対して質問することも、大切である。タルムードは「よい質問は、よい答えを引き出す」といっているが、私たちはしばしば他人から思いがけないような質問をされて、驚くことがある。そして、こういうときには自分でも気がつかなかったような、よい答えを出すことがある。質問には、答えと同じほどの力があるのだ。
好奇心のない者は、疑うことがない。考えるということは、疑うこと、答えることから成り立っている。知恵者は疑うことが上手な者のことをいう。もちろん、人間がほんとうに確信を持てることなど、あるはずがない。疑いだせば、あらゆることが疑わしくなってくるというのだ。しかし、深い疑いから始まって得た確信のほうが、確かなものに近い。
そして、あらゆる迷いや疑いは、行動することによって終えることができる。最後には、行動しなければならない。
考えすぎることは、かえって行動する瞬間を遅らせるのではないか、と古代のラビたちは考えた。逡巡することは危険である。瞬時に決断をしないと、好機を逃すことが多い。時に合わせて、大胆に行動する者だけが勝利を掴むことができる。そのときになって、迷っては時機を逸してしまう。
それならば人は何のために学ぶのだろうか。まったく同じような状況は、二度と繰り返されることはない。したがって、新しい状況に直面したときには、それまで学んだことを参考にすることしかできない。たしかに参考にはなる。それならば、人間が最後に頼れるのは勘である。
私たちが学ぶのは、感性を研ぎすまし、鋭くするためだ。山を長く歩いたベテランの猟師は、鋭い勘をもっている。この勘は長い体験からきたえたというよりも、長い体験によって磨かれたものである。
そこで自ら現実に体験しなかったことでも、他人の体験を学ぶことは勘を鋭くする。勘は説明できないような神秘的なものに、見えるかもしれない。しかし、一瞬のあいだに勘に従って下される決断は、それまで積み上げられた英知によって支えられている。
勘は洞察力と言い換えてもよいだろう。学ぶことは、瞬時の洞察力を得るための用意なのだ。
参照1:わかる
参照2:体験学習とは
参照3:対談
#楽隠居です
M岡さんからのメールをご紹介します。
K野様
土曜日はありがとうございました。
一から色々と感覚を味合わせて頂きながら基本を再構築していくのは大変面白く、勉強になりました。
本日は、一人で「鎖骨」を意識して「サイクリックヨガ」から復習してみました。
解剖学的に言うと、「鎖骨」の可動範囲と言うのは限定されている訳ですが、「果たしてそうなのか?」...感じながらやってみるに、結構、繊細で面白い表現をする骨だなと思いました。
そして、この表現が広がると同時に、肩胛骨や肋骨、下半身の表現が増す様にも思われます。
特に、私としては、鎖骨と肩胛骨のバランスや鎖骨の「内旋・外旋」が肋骨一本一本の「内旋・外旋」が繋がっていくのが妙味深かったです。
よく周囲で「頭や首の位置が定まらない」と言う意見を聞きます。
下手に「スカイフック」等の要訣があるので余計に迷う様ですが、下半身の土台が「骨盤」の様に、上半身の土台は「鎖骨」で、これが定まらないと「土台お話に話にならない」と言えると今の所は思います。
従いまして、より立体的な、つながりのある、正確な骨盤時計に移行していく際、やはり「全体表現」としての「骨盤時計」と言えるなと思います。
また、本日の自己練習会をした感想ですが、
「合気」の表現になると途端に全身がつながらなくなります(笑)誠に不思議です。
何故かな?と発想や意識の面を見ますと...例えば、皆さん「作用」で技を掛けようとしていました。
対して、自分はどうか?と思うと、私は「反作用」を使っています。
例えば、「呼吸で足を上げる」事について、私は「上げるのでなく上がる」と思っていますし、実際そうなんです。
先ず、「足を上げる」と言う「作用」に語りかけるのでなく、自分の中に起こすつながりの「作用」がどんな「反作用」として「足が上がる」(表現)になるか?と言う感覚です。
それが分かって「相架け」がようやく腑に落ち、実感出来ました。
「相架け」は自分が自身に「相架かった」・「分け目がからんだ」=「つながった」時だけ表現できるものですからね。
はあ...長く掛かりましたが、良く分かりました。
M岡
一部削除させていただいていますが、ご了承ください。
土曜日の稽古の時にも、「鎖骨を上手に使えない」人には「粗忽」。「腑に落ちない」人には「腑抜け」と、問題発言を繰り返してしまいました。申し訳ございませんでした。
身体を絞って、伸ばして、広げて弛めると、自然に「腑に落ちる」ことになっているのですが・・・
合気(相気)を架けるという表現は、如何でしょうか?
「つなぐ」とか「橋を架ける」という表現も面白いと思います。
M・トケイヤー 加瀬英明訳 から抜粋してご紹介します。
質問することは大切なことである。人間は学ぶことを通して、一つ大切なことを学ぶ。それは、つねに疑い、質問することである。疑うことは知性の入口だ。知れば知るほど疑うようになる。質問することが増えてゆく。質問は人間を進歩させる。
自分に対して質問することも、大切である。タルムードは「よい質問は、よい答えを引き出す」といっているが、私たちはしばしば他人から思いがけないような質問をされて、驚くことがある。そして、こういうときには自分でも気がつかなかったような、よい答えを出すことがある。質問には、答えと同じほどの力があるのだ。
好奇心のない者は、疑うことがない。考えるということは、疑うこと、答えることから成り立っている。知恵者は疑うことが上手な者のことをいう。もちろん、人間がほんとうに確信を持てることなど、あるはずがない。疑いだせば、あらゆることが疑わしくなってくるというのだ。しかし、深い疑いから始まって得た確信のほうが、確かなものに近い。
そして、あらゆる迷いや疑いは、行動することによって終えることができる。最後には、行動しなければならない。
考えすぎることは、かえって行動する瞬間を遅らせるのではないか、と古代のラビたちは考えた。逡巡することは危険である。瞬時に決断をしないと、好機を逃すことが多い。時に合わせて、大胆に行動する者だけが勝利を掴むことができる。そのときになって、迷っては時機を逸してしまう。
それならば人は何のために学ぶのだろうか。まったく同じような状況は、二度と繰り返されることはない。したがって、新しい状況に直面したときには、それまで学んだことを参考にすることしかできない。たしかに参考にはなる。それならば、人間が最後に頼れるのは勘である。
私たちが学ぶのは、感性を研ぎすまし、鋭くするためだ。山を長く歩いたベテランの猟師は、鋭い勘をもっている。この勘は長い体験からきたえたというよりも、長い体験によって磨かれたものである。
そこで自ら現実に体験しなかったことでも、他人の体験を学ぶことは勘を鋭くする。勘は説明できないような神秘的なものに、見えるかもしれない。しかし、一瞬のあいだに勘に従って下される決断は、それまで積み上げられた英知によって支えられている。
勘は洞察力と言い換えてもよいだろう。学ぶことは、瞬時の洞察力を得るための用意なのだ。
参照1:わかる
参照2:体験学習とは
参照3:対談
#楽隠居です
M岡さんからのメールをご紹介します。
K野様
土曜日はありがとうございました。
一から色々と感覚を味合わせて頂きながら基本を再構築していくのは大変面白く、勉強になりました。
本日は、一人で「鎖骨」を意識して「サイクリックヨガ」から復習してみました。
解剖学的に言うと、「鎖骨」の可動範囲と言うのは限定されている訳ですが、「果たしてそうなのか?」...感じながらやってみるに、結構、繊細で面白い表現をする骨だなと思いました。
そして、この表現が広がると同時に、肩胛骨や肋骨、下半身の表現が増す様にも思われます。
特に、私としては、鎖骨と肩胛骨のバランスや鎖骨の「内旋・外旋」が肋骨一本一本の「内旋・外旋」が繋がっていくのが妙味深かったです。
よく周囲で「頭や首の位置が定まらない」と言う意見を聞きます。
下手に「スカイフック」等の要訣があるので余計に迷う様ですが、下半身の土台が「骨盤」の様に、上半身の土台は「鎖骨」で、これが定まらないと「土台お話に話にならない」と言えると今の所は思います。
従いまして、より立体的な、つながりのある、正確な骨盤時計に移行していく際、やはり「全体表現」としての「骨盤時計」と言えるなと思います。
また、本日の自己練習会をした感想ですが、
「合気」の表現になると途端に全身がつながらなくなります(笑)誠に不思議です。
何故かな?と発想や意識の面を見ますと...例えば、皆さん「作用」で技を掛けようとしていました。
対して、自分はどうか?と思うと、私は「反作用」を使っています。
例えば、「呼吸で足を上げる」事について、私は「上げるのでなく上がる」と思っていますし、実際そうなんです。
先ず、「足を上げる」と言う「作用」に語りかけるのでなく、自分の中に起こすつながりの「作用」がどんな「反作用」として「足が上がる」(表現)になるか?と言う感覚です。
それが分かって「相架け」がようやく腑に落ち、実感出来ました。
「相架け」は自分が自身に「相架かった」・「分け目がからんだ」=「つながった」時だけ表現できるものですからね。
はあ...長く掛かりましたが、良く分かりました。
M岡
一部削除させていただいていますが、ご了承ください。
土曜日の稽古の時にも、「鎖骨を上手に使えない」人には「粗忽」。「腑に落ちない」人には「腑抜け」と、問題発言を繰り返してしまいました。申し訳ございませんでした。
身体を絞って、伸ばして、広げて弛めると、自然に「腑に落ちる」ことになっているのですが・・・
合気(相気)を架けるという表現は、如何でしょうか?
「つなぐ」とか「橋を架ける」という表現も面白いと思います。
by centeringkokyu
| 2007-02-05 00:01
| 本などの紹介