2006年 12月 25日
釣り落とした魚の寸法 |
私のHPのコラム(2003-04-06)から転載します。
先頃、中川一政氏のコレクションが、オークションにかけられ、出品作品168点中167番目で、作者不詳の油絵「婦人像」が、ゴッホの作であると鑑定されたところ、6,600万円で落札され、話題になりました。
その「万年山房愛玩目録」と題された図録には、バラの絵のシリーズに使用された、マジョリカ壺や硯、中国やエジプトの置物が載っています。さらに、梅原龍三郎、ユトリロ、ルオーなどの絵画や一休さんや池大雅の書まで掲載されています。
それらを見ていますと、何となく収集した人の人柄が偲ばれ、興味深いものです。中川氏自身は、氏の著書の中で、例え偽物であっても、それなりの味わいがあって面白いと記していますので、全てが本物だとは考えてはいなかったのかもしれません。中川氏が言われるところの、「腹の虫」が騒いだものだけを、収集したのでしょうか。
収集した物を、がらくたと感じるか、宝物と感じるかは、個人の感性と思い入れの問題でしょうから、陶器の破片を手にしているだけでも、色々な空想が拡がり、その歴史までを感じることができるかもしれません。中には、人を騙す為に作られたものもあるでしょうし、真面目に模写したものに、後世の人が、勝手に時代をつけたり、有名な作者の銘を入れたりすることもあり得ると思います。
作品の作者も、作品を買う人も、何らかの感動を共有することが、大切なのではないでしょうか。中川氏は、その著書の中で、感動について面白い表現をしておられますので、引用させて頂きます。
◎『フォルムと言うのは形だ。デフォルムというのは形を毀した意味だ。心が感極まって形を毀すのである。それを承知していないと芸術は成り立たない。(中略)取りも直さず感動がなくては芸術でない。
ボクシングに判定勝ちとKO勝ちとある。判定勝ちとは審判官が幾人かいてどっちが強いか決めるのだ。ノックアウトは審判官は無用になる。誰が見ても勝ちがわかる。構図も色彩も整っていて感動を与えない絵がある。アカデミックという。ボクシングでは判定勝ちという。』
◎『鯛を釣り落した男が、「ああ、残念なことをした。三尺もあった。」と言った。かたわらで釣っていた男が、「三尺なんてあるものかよ!一尺もあるものか。」と言った。そうかもしれない。釣り落した男は感動で言っているのだ。傍で見ていた男は物差で言っているのだ。
しかし、もう釣り落してしまって証拠がないのだ。口惜しくても泣寝入しなければならない。今の世の中は物差を信用する。(中略)しかし物差ではかれないものがある。人間の感動は物差でははかれない。だから古来一尺悲しい、三尺悲しいとは言わない。釣り落した鯛の感動は三尺あったと言ってもいいのだ。感動がそれくらいあったのだ。』
(引用終わり)
昔の彼や彼女は良かったと、思い出に耽ることも、ある意味では、釣り落とした魚の寸法を測っている事になるのかもしれません。そして、数十年たってから開催される同窓会というのは、人々を思い出の世界から、現実の世界へと、引き戻す為のシステムになっているのかもしれません。
#楽隠居です
歳を取るとだんだん感動することが少なくなります。その割には、涙もろくなっているような気もします。
街で綺麗なお嬢さんを見かけても、身体のバランスや歩き方のほうが気になってしまいます。何故素直に女性の美を観照することが出来なくなってしまったのでしょうか。とっても残念です。
以前、中川一政作品集の図録を観照塾に来られているT本さんからいただきました。貴重な図録なので大喜びでした。その図録は、T本さんがお勤めしておられる会社が印刷したものだったのです。
参照1:対談
参照2:八十八
参照3:いろいろの「みる」
先頃、中川一政氏のコレクションが、オークションにかけられ、出品作品168点中167番目で、作者不詳の油絵「婦人像」が、ゴッホの作であると鑑定されたところ、6,600万円で落札され、話題になりました。
その「万年山房愛玩目録」と題された図録には、バラの絵のシリーズに使用された、マジョリカ壺や硯、中国やエジプトの置物が載っています。さらに、梅原龍三郎、ユトリロ、ルオーなどの絵画や一休さんや池大雅の書まで掲載されています。
それらを見ていますと、何となく収集した人の人柄が偲ばれ、興味深いものです。中川氏自身は、氏の著書の中で、例え偽物であっても、それなりの味わいがあって面白いと記していますので、全てが本物だとは考えてはいなかったのかもしれません。中川氏が言われるところの、「腹の虫」が騒いだものだけを、収集したのでしょうか。
収集した物を、がらくたと感じるか、宝物と感じるかは、個人の感性と思い入れの問題でしょうから、陶器の破片を手にしているだけでも、色々な空想が拡がり、その歴史までを感じることができるかもしれません。中には、人を騙す為に作られたものもあるでしょうし、真面目に模写したものに、後世の人が、勝手に時代をつけたり、有名な作者の銘を入れたりすることもあり得ると思います。
作品の作者も、作品を買う人も、何らかの感動を共有することが、大切なのではないでしょうか。中川氏は、その著書の中で、感動について面白い表現をしておられますので、引用させて頂きます。
◎『フォルムと言うのは形だ。デフォルムというのは形を毀した意味だ。心が感極まって形を毀すのである。それを承知していないと芸術は成り立たない。(中略)取りも直さず感動がなくては芸術でない。
ボクシングに判定勝ちとKO勝ちとある。判定勝ちとは審判官が幾人かいてどっちが強いか決めるのだ。ノックアウトは審判官は無用になる。誰が見ても勝ちがわかる。構図も色彩も整っていて感動を与えない絵がある。アカデミックという。ボクシングでは判定勝ちという。』
◎『鯛を釣り落した男が、「ああ、残念なことをした。三尺もあった。」と言った。かたわらで釣っていた男が、「三尺なんてあるものかよ!一尺もあるものか。」と言った。そうかもしれない。釣り落した男は感動で言っているのだ。傍で見ていた男は物差で言っているのだ。
しかし、もう釣り落してしまって証拠がないのだ。口惜しくても泣寝入しなければならない。今の世の中は物差を信用する。(中略)しかし物差ではかれないものがある。人間の感動は物差でははかれない。だから古来一尺悲しい、三尺悲しいとは言わない。釣り落した鯛の感動は三尺あったと言ってもいいのだ。感動がそれくらいあったのだ。』
(引用終わり)
昔の彼や彼女は良かったと、思い出に耽ることも、ある意味では、釣り落とした魚の寸法を測っている事になるのかもしれません。そして、数十年たってから開催される同窓会というのは、人々を思い出の世界から、現実の世界へと、引き戻す為のシステムになっているのかもしれません。
#楽隠居です
歳を取るとだんだん感動することが少なくなります。その割には、涙もろくなっているような気もします。
街で綺麗なお嬢さんを見かけても、身体のバランスや歩き方のほうが気になってしまいます。何故素直に女性の美を観照することが出来なくなってしまったのでしょうか。とっても残念です。
以前、中川一政作品集の図録を観照塾に来られているT本さんからいただきました。貴重な図録なので大喜びでした。その図録は、T本さんがお勤めしておられる会社が印刷したものだったのです。
参照1:対談
参照2:八十八
参照3:いろいろの「みる」
by centeringkokyu
| 2006-12-25 00:38
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