2006年 12月 15日
こころの書 |
「こころの書」 佐藤勝彦著からご紹介します。
○人間は眼ができたら、その眼の高さに至るまでは、自分の居心地は悪いものである。眼の高さまで、自分を持っていかなくては、気が済まないものである。
しかし、眼さえあれば、ほうっておいてもその眼の高さまで己を導いて、自分で育てるものである。
いままで絵や書をやっていなくても、眼ができたら、おのずと手はついていく。これは、自分でもそう思えるし、自信を持っていえる気がする。
だから結局は、心が先、つまり心が安心なるものを欲したら、眼がそれを見分けるわけである。心の水先案内人が眼である。眼と心は一心同体であるといえる。眼と心がいっしょだから、眼が高まれば、身体はついていかなければならないのである。人間は、眼が先へ先へといってくれだすと、手があとを追いかけていく楽しさを味わえるのだ。
芸術における精進とか、努力、勉強というものは、眼と手の追いかけっこであるといっていい。もし、手が眼を追い抜くようなことがあるとしたら、その時は、己が職人化しつつあるときだと思えばいい。多くの書家たちは、よく眼を知らずして、手ばかり教わるのである。自分を安心させる眼と心は何かということをつかまずして、手を修練すると、そこには、心を失った技術屋が誕生する。
○達人たちの書が一見して、子供のような稚拙さを見せるのは、彼らの意識が子供世界に住んでいるからである。まねてつくった子供らしきものではなく、すでに子供なのである。大宇宙に突入した世界である。超自我、大我の世界である。宇宙とか自然とかが一体となった次元である。
子供たちが人間の顔を描くと、みな生きてくる。不思議なほどに生きているように見える。これは、子供たちが無意識のうちに、宇宙の次元、悟りの世界にいるから、そうなるのである。
人間はみな肉体的成長にともない、その悟りの世界から一度落ちるのである。意識、つまり自我が目覚めることによって、迷いの世界という無明の世界、つまり地獄、とらわれ、苦しみ悲しみの世界へと落ち込む。しかし、人間は正しい知恵というものを得て、だんだんとそこからはい上がろうと努力する。しかし、いくら長い努力と精進を重ねても、結局悟れぬまま、そのまま死んでしまうもの、悟ることをあきらめたもの、いや悟りのあることすら知らないものもいる。悟りのあることを、なにかの因縁でほいっと知ったもの、師によって教えられたものもいる。そうしたいろんな歩み方を経て、再び悟りの世界へ戻ってくるが、その数はごく少数である。それほど悟りの世界へ戻ってくるのはむずかしい。
宗教や芸術の教えは、ひとえに悟りの世界へもどらんがための精進であり、努力である。悟りの世界へもどった人たちは達人であるともいう。自己を求め、自己を忘れ、自己を取り戻した人たちである。
書の大家と称される人たちは、だからこの悟りを得んとして努力し得た人たちである。しかし、悟りを得んとして努力すれば、悟りが得られるかというとそうでもない。「美を求むれば、美は得られず」である。「悟りを求めると悟りは得られない」である。実に矛盾しているのである。求めると得られない。しかし、求めないでは、また得られない。求めて、求めず、求めずして求む。「たたけよさらば開かれん」のキリストの言葉のように求めなくてはならない。しかし求めたら得られないのである。
そこを道元は、「自己を学んで、自己を忘れろ」という。つまり仏道をならうというのは、自己をならうなりである。悟りを得るためには、自己をみつめよ。自己というのは自分だが、その自分の偉さ、醜さをみつめよ。そこには、偉大なる自己がある。その自己をみつめよ。しかしそれには、自分から離れて見よ。もっと離れて、遠くから眺めて見よ。そうすると、自分というものの本質が見える。それをじっくりみつめろ。それが、自己を忘るるなりだというのである。
さらにまた、道元さんは、この自己も忘れてしまえ、といわれる。そうすると、万法に証せらるるという。宇宙がありありと見え、大自然の動き、人間どもの動き、そこらあたりが見えてきて、人間も自分もそうした大いなる動きの中にいて、それぞれ生き生きと生かされていることが見えてくる。それが「自己の身心及び佗己の身心をして脱落せしむるなり」だというのである。
お前だとか俺だとかいうへだたりがなくなって、一体になって全部が自分になってくる。へだたりがあるから、意識ぜずにはおれない。へだたりがないとなると、まるで腰がベタッと落ちつく、楽になる。これを「悟迹の休歇なるなり」と道元さんはいわれる。
悟りは休憩時間だといわれる。自由になる、楽な時間だというわけである。楽、楽ちんで、これを「悟迹の休歇を長々出ならしむ」つまり、長く出せ、それが仏道だといわれる。長く気分いい味わいをするのが仏道だから、この繰り返しを大いにやって精進しろといわれる。
絵も書も、ひとえにこの繰り返しの道でなくてはならない、書のいいことは、この繰り返しの道であるからだというのである。
○どこどこへ、何々を習いに行っているということを、得意気にいう人がいる。恥ずかしいことに思わないのかと思う。作家でも、画家でも、師匠はだれと、大きく発表する。これはかんがえねばならないことに思える。なぜに芸術に師匠がいるのか。師匠がいても、技の師匠ではなく、心の師匠とするならいい。しかし、ほとんどが技の師匠ばかりだ。
芸術で最も大切なるものは、生き方である。生き方に美しきもの、本当のものがなければ強さが出ないし、輝きも出ない、信じさせるものも出ない。そうした根本になる中心を教わらなければ意味がない。
「よき師を持たねば、よき人になれぬ」といわれる。だが、師とは、何の師かということになる。技も心だ、といわれれば、いたしかたがない。しかし、本当によき師とは、技のことはいわないはずである。本当に師たるものは、「お前が学ぶものは、お前自身だ」というはずであるから‥‥。
良き師ほど、「わしのとおりにしろ」とは、いわないのである。「お前自身を知りなさい」。本当の師とは、そういうものである。本当のものは、外にあるのではない、内にあるからで、それを外に求めるものをいましめ、うながすだろうと思う。
本当の師は、自らが自らの中に求めつづけているから、人に教えようとする暇を持たぬ。まず、自らのことで、一生懸命であろうと思う。弟子たるものは、師の意にかかわりなく、自分の師は、あの方だと信ずるのはいいとしても、師自ら、お前はわしの弟子だとはいわないと思う。
○人間のバランスは感覚的なものだが、これは大自然がもつバランスと通じる。バランスが悪ければ、真理に到達しにくい。親鸞や道元は実にバランスがいいから大自然の奥義をものの見事にあきらかにした。
#楽隠居です
Uさんからのメールも紹介します。
毎回の練習でも
「常に変わります 諸行無常」
「正しい位置というの はないのです」
「自分で感じてください 僕の体ではないので 僕はわかりません」
「自分で感じて 位置を見つけてください」
いつもの言葉だけど この感覚を どうやって伝えるのかって
苦労して苦労して 言葉にしていただいて
それでもなお 一年経っても まだわからない。
マニュアル化はできない というところが大事なんじゃないのかな。
昨日はほんとに楽しい忘年会でした。
今日は椅子に座るところから先ずチェック。
ここで外に開いているのも感じられて
後は意識して意識して・・・。
M岡様もお仕事大変みたいですね。
でも 毎回親切なアドバイスに 感謝感謝。
ちょっと疲れてそうで お大事にしてください。
参照1:こちらもどうぞ!
参照2:ココはどこ〜
参照3:工夫する楽しさ
○人間は眼ができたら、その眼の高さに至るまでは、自分の居心地は悪いものである。眼の高さまで、自分を持っていかなくては、気が済まないものである。
しかし、眼さえあれば、ほうっておいてもその眼の高さまで己を導いて、自分で育てるものである。
いままで絵や書をやっていなくても、眼ができたら、おのずと手はついていく。これは、自分でもそう思えるし、自信を持っていえる気がする。
だから結局は、心が先、つまり心が安心なるものを欲したら、眼がそれを見分けるわけである。心の水先案内人が眼である。眼と心は一心同体であるといえる。眼と心がいっしょだから、眼が高まれば、身体はついていかなければならないのである。人間は、眼が先へ先へといってくれだすと、手があとを追いかけていく楽しさを味わえるのだ。
芸術における精進とか、努力、勉強というものは、眼と手の追いかけっこであるといっていい。もし、手が眼を追い抜くようなことがあるとしたら、その時は、己が職人化しつつあるときだと思えばいい。多くの書家たちは、よく眼を知らずして、手ばかり教わるのである。自分を安心させる眼と心は何かということをつかまずして、手を修練すると、そこには、心を失った技術屋が誕生する。
○達人たちの書が一見して、子供のような稚拙さを見せるのは、彼らの意識が子供世界に住んでいるからである。まねてつくった子供らしきものではなく、すでに子供なのである。大宇宙に突入した世界である。超自我、大我の世界である。宇宙とか自然とかが一体となった次元である。
子供たちが人間の顔を描くと、みな生きてくる。不思議なほどに生きているように見える。これは、子供たちが無意識のうちに、宇宙の次元、悟りの世界にいるから、そうなるのである。
人間はみな肉体的成長にともない、その悟りの世界から一度落ちるのである。意識、つまり自我が目覚めることによって、迷いの世界という無明の世界、つまり地獄、とらわれ、苦しみ悲しみの世界へと落ち込む。しかし、人間は正しい知恵というものを得て、だんだんとそこからはい上がろうと努力する。しかし、いくら長い努力と精進を重ねても、結局悟れぬまま、そのまま死んでしまうもの、悟ることをあきらめたもの、いや悟りのあることすら知らないものもいる。悟りのあることを、なにかの因縁でほいっと知ったもの、師によって教えられたものもいる。そうしたいろんな歩み方を経て、再び悟りの世界へ戻ってくるが、その数はごく少数である。それほど悟りの世界へ戻ってくるのはむずかしい。
宗教や芸術の教えは、ひとえに悟りの世界へもどらんがための精進であり、努力である。悟りの世界へもどった人たちは達人であるともいう。自己を求め、自己を忘れ、自己を取り戻した人たちである。
書の大家と称される人たちは、だからこの悟りを得んとして努力し得た人たちである。しかし、悟りを得んとして努力すれば、悟りが得られるかというとそうでもない。「美を求むれば、美は得られず」である。「悟りを求めると悟りは得られない」である。実に矛盾しているのである。求めると得られない。しかし、求めないでは、また得られない。求めて、求めず、求めずして求む。「たたけよさらば開かれん」のキリストの言葉のように求めなくてはならない。しかし求めたら得られないのである。
そこを道元は、「自己を学んで、自己を忘れろ」という。つまり仏道をならうというのは、自己をならうなりである。悟りを得るためには、自己をみつめよ。自己というのは自分だが、その自分の偉さ、醜さをみつめよ。そこには、偉大なる自己がある。その自己をみつめよ。しかしそれには、自分から離れて見よ。もっと離れて、遠くから眺めて見よ。そうすると、自分というものの本質が見える。それをじっくりみつめろ。それが、自己を忘るるなりだというのである。
さらにまた、道元さんは、この自己も忘れてしまえ、といわれる。そうすると、万法に証せらるるという。宇宙がありありと見え、大自然の動き、人間どもの動き、そこらあたりが見えてきて、人間も自分もそうした大いなる動きの中にいて、それぞれ生き生きと生かされていることが見えてくる。それが「自己の身心及び佗己の身心をして脱落せしむるなり」だというのである。
お前だとか俺だとかいうへだたりがなくなって、一体になって全部が自分になってくる。へだたりがあるから、意識ぜずにはおれない。へだたりがないとなると、まるで腰がベタッと落ちつく、楽になる。これを「悟迹の休歇なるなり」と道元さんはいわれる。
悟りは休憩時間だといわれる。自由になる、楽な時間だというわけである。楽、楽ちんで、これを「悟迹の休歇を長々出ならしむ」つまり、長く出せ、それが仏道だといわれる。長く気分いい味わいをするのが仏道だから、この繰り返しを大いにやって精進しろといわれる。
絵も書も、ひとえにこの繰り返しの道でなくてはならない、書のいいことは、この繰り返しの道であるからだというのである。
○どこどこへ、何々を習いに行っているということを、得意気にいう人がいる。恥ずかしいことに思わないのかと思う。作家でも、画家でも、師匠はだれと、大きく発表する。これはかんがえねばならないことに思える。なぜに芸術に師匠がいるのか。師匠がいても、技の師匠ではなく、心の師匠とするならいい。しかし、ほとんどが技の師匠ばかりだ。
芸術で最も大切なるものは、生き方である。生き方に美しきもの、本当のものがなければ強さが出ないし、輝きも出ない、信じさせるものも出ない。そうした根本になる中心を教わらなければ意味がない。
「よき師を持たねば、よき人になれぬ」といわれる。だが、師とは、何の師かということになる。技も心だ、といわれれば、いたしかたがない。しかし、本当によき師とは、技のことはいわないはずである。本当に師たるものは、「お前が学ぶものは、お前自身だ」というはずであるから‥‥。
良き師ほど、「わしのとおりにしろ」とは、いわないのである。「お前自身を知りなさい」。本当の師とは、そういうものである。本当のものは、外にあるのではない、内にあるからで、それを外に求めるものをいましめ、うながすだろうと思う。
本当の師は、自らが自らの中に求めつづけているから、人に教えようとする暇を持たぬ。まず、自らのことで、一生懸命であろうと思う。弟子たるものは、師の意にかかわりなく、自分の師は、あの方だと信ずるのはいいとしても、師自ら、お前はわしの弟子だとはいわないと思う。
○人間のバランスは感覚的なものだが、これは大自然がもつバランスと通じる。バランスが悪ければ、真理に到達しにくい。親鸞や道元は実にバランスがいいから大自然の奥義をものの見事にあきらかにした。
#楽隠居です
Uさんからのメールも紹介します。
毎回の練習でも
「常に変わります 諸行無常」
「正しい位置というの はないのです」
「自分で感じてください 僕の体ではないので 僕はわかりません」
「自分で感じて 位置を見つけてください」
いつもの言葉だけど この感覚を どうやって伝えるのかって
苦労して苦労して 言葉にしていただいて
それでもなお 一年経っても まだわからない。
マニュアル化はできない というところが大事なんじゃないのかな。
昨日はほんとに楽しい忘年会でした。
今日は椅子に座るところから先ずチェック。
ここで外に開いているのも感じられて
後は意識して意識して・・・。
M岡様もお仕事大変みたいですね。
でも 毎回親切なアドバイスに 感謝感謝。
ちょっと疲れてそうで お大事にしてください。
参照1:こちらもどうぞ!
参照2:ココはどこ〜
参照3:工夫する楽しさ
by centeringkokyu
| 2006-12-15 00:01
| 本などの紹介