2006年 11月 29日
演奏のコツ |
「ヨガによる人間回復への道」 沖 正弘著からご紹介します。
基本的姿勢は、どの道においても共通である。すなわち丹田で行なうことである。ラッパは口でふかずに、身体で吹くのである。わかりやすくいうと、腹筋の力で吹くのである。最初の内は口に力を入れて吹くから、耳の故障を起こしたりする。肛門をしめて、腹筋をひきしめてひっこめながら息を吐き出して吹くと軽く吹ける。口にあてている所でなく、ラッパの先をめがけて吹きこむのである。
鼓の場合は、裏側まで力を通すつもりで打つのである。しかし初心の内は、表側で力をとめてしまう。それは鼓に心をうばわれるからである。宗教では、その物に心をひっかけることを分別心という。分別心を起こすと力が分裂して弱くなってしまうのである。
打つときに、鼓の表側でなく、裏側をめがけて打っことはさきほどもいったが、力を表でとどめずに裏までフッと流す要領である。力をとめたら音は死に、流したときに生きるのである。心をとめると力も止まり、心を流すと力は生きる。心を流すことを無執着の心または不動心といい、無心ともいう。諸道諸芸はこの心になる修業のために行なっているのである。
音が生きているのは、手が生きているからである。手が生きているのは身体がほんとうに生きているからである。身体が生きているのは、心が生きているからである。ほんとうに生きている人でないと生きた音は出せないのである。
ほんとうに生きているという意味は、心身が極限の最上の働きをしている状態であり、心身が統一されている状態である。力がひとつにまとまっている状態である。手の力で打たずに、身体全体の力を手にまとめて打つのである。心身統一ということは、目的とするところに、心身の力をまとめてしまうことである。ひとつにまとめると、とても大きな力になる。この心身の力をまとめて物事をすることがヨガである。これが勉強するときや仕事をするときの秘訣(コツ)だと思うのである。
私は小指一本で十八貫(約七〇キログラム)ある物を、ヒモでつるして持ち上げたことがある。このコツは、力を小指に集めてしまうのである。
鼓ひとつ打つことでも修養である。何事も、ほんとうにやるときは修養である。
さっき、力を流せといったが、ヨガの講習会の実験のときに、よく、コヨリでわりばしを切ったり、新聞紙一枚で竹を割ったり、手でカワラ数枚をいっぺんに割ったりすることがある。あれが力を流す実験である。心をその対象物にとどめずに、それをないものとして、上から下まで力を通してしまえばできるわけである。
鼓を意識している間は、心がとまるから、鼓を忘れて鼓をうつのである。自分が鼓そのものになりきったらよいわけである。その状態になるために練習するわけである。
根本はすべて同一であって、ピアノでも、指先でケンを打たずに身体全体で打つことである。身体全体で打つということは、身体を全部ケンの上にのせかけることではなくて、打つ指の一本一本が全身を代表していることである。
すべてのことを科学的に哲学するのがヨガである。だから、ひとつひとつを科学し哲学しなくてはならない。
多くの人はピアノやオルガンを指でひくものだと思っているが、指でひくのではなくて腰でひくのだ。琴やギターでも同じである。いっさいの身体の動きは腰を中心にしてやっているのである。であるから正しい腰(すなわち正しい姿勢)をしていないと指はよく動かない。頭の働きを指に正しく伝えるためには、肩首手の力がぬけていなくてはならない。上手な人ほど手の力はぬいているものである。絵でも書でも踊りでもそうである。
上手な踊りは、腰だけで動いており、足や手はその腰の動きのバランス維持のために動いているだけである。だから上手な踊り手の足さばきを見ると、足が軽々としている。その手の力はぬけきっている。もし扇子をもっていたら、今にも落ちそうに見うけられる。これが丹田で踊っている姿である。
ピアノをひく場合にも、手の力がぬけていなくてはならない。柔軟なほど上手にひけるのである。ヨガをやったら、よくひけるようになったといわれるが、これは姿勢が正しくなるからである。
#楽隠居です
私の場合は、柔術も剣術も、身体全体を使って動いているかどうかをチェックする為のボディワークだと考えて稽古しています。もともと腰を反らして使う癖があったので、それを変えるのが一番大変でした。簡単にいうと「命門を開く」ということなのでしょうが、そのことを実感するまでに20年くらいかかったのではないでしょうか。
現在の身体の使い方が絶対に正しいとも思っていませんが、昔より応用範囲が広がっているのは確かです。古流武術も、剣術・抜刀術・柔術などをばらばらに教えていた流派ばかりではなかったようですから、それらを共通の身体使いで稽古して、何を持っても、また、何も持たなくても、同じように力を確実に伝えるということを大切にするべきだと考えています。
以前、新陰流を教えてくださった先生が、現代剣道も稽古している人達に、無刀取りをする為の身勢を教えたが、腰を反らす癖がとれず、どうしても身体を丸くすることが出来なかったので、教えるのを止めたという話を聞いた記憶があります。
詳しくは、配付資料051をお読み下さい。
参照1:ある時と無い時
参照2:命門を開く
参照3:小脳トレーニング
基本的姿勢は、どの道においても共通である。すなわち丹田で行なうことである。ラッパは口でふかずに、身体で吹くのである。わかりやすくいうと、腹筋の力で吹くのである。最初の内は口に力を入れて吹くから、耳の故障を起こしたりする。肛門をしめて、腹筋をひきしめてひっこめながら息を吐き出して吹くと軽く吹ける。口にあてている所でなく、ラッパの先をめがけて吹きこむのである。
鼓の場合は、裏側まで力を通すつもりで打つのである。しかし初心の内は、表側で力をとめてしまう。それは鼓に心をうばわれるからである。宗教では、その物に心をひっかけることを分別心という。分別心を起こすと力が分裂して弱くなってしまうのである。
打つときに、鼓の表側でなく、裏側をめがけて打っことはさきほどもいったが、力を表でとどめずに裏までフッと流す要領である。力をとめたら音は死に、流したときに生きるのである。心をとめると力も止まり、心を流すと力は生きる。心を流すことを無執着の心または不動心といい、無心ともいう。諸道諸芸はこの心になる修業のために行なっているのである。
音が生きているのは、手が生きているからである。手が生きているのは身体がほんとうに生きているからである。身体が生きているのは、心が生きているからである。ほんとうに生きている人でないと生きた音は出せないのである。
ほんとうに生きているという意味は、心身が極限の最上の働きをしている状態であり、心身が統一されている状態である。力がひとつにまとまっている状態である。手の力で打たずに、身体全体の力を手にまとめて打つのである。心身統一ということは、目的とするところに、心身の力をまとめてしまうことである。ひとつにまとめると、とても大きな力になる。この心身の力をまとめて物事をすることがヨガである。これが勉強するときや仕事をするときの秘訣(コツ)だと思うのである。
私は小指一本で十八貫(約七〇キログラム)ある物を、ヒモでつるして持ち上げたことがある。このコツは、力を小指に集めてしまうのである。
鼓ひとつ打つことでも修養である。何事も、ほんとうにやるときは修養である。
さっき、力を流せといったが、ヨガの講習会の実験のときに、よく、コヨリでわりばしを切ったり、新聞紙一枚で竹を割ったり、手でカワラ数枚をいっぺんに割ったりすることがある。あれが力を流す実験である。心をその対象物にとどめずに、それをないものとして、上から下まで力を通してしまえばできるわけである。
鼓を意識している間は、心がとまるから、鼓を忘れて鼓をうつのである。自分が鼓そのものになりきったらよいわけである。その状態になるために練習するわけである。
根本はすべて同一であって、ピアノでも、指先でケンを打たずに身体全体で打つことである。身体全体で打つということは、身体を全部ケンの上にのせかけることではなくて、打つ指の一本一本が全身を代表していることである。
すべてのことを科学的に哲学するのがヨガである。だから、ひとつひとつを科学し哲学しなくてはならない。
多くの人はピアノやオルガンを指でひくものだと思っているが、指でひくのではなくて腰でひくのだ。琴やギターでも同じである。いっさいの身体の動きは腰を中心にしてやっているのである。であるから正しい腰(すなわち正しい姿勢)をしていないと指はよく動かない。頭の働きを指に正しく伝えるためには、肩首手の力がぬけていなくてはならない。上手な人ほど手の力はぬいているものである。絵でも書でも踊りでもそうである。
上手な踊りは、腰だけで動いており、足や手はその腰の動きのバランス維持のために動いているだけである。だから上手な踊り手の足さばきを見ると、足が軽々としている。その手の力はぬけきっている。もし扇子をもっていたら、今にも落ちそうに見うけられる。これが丹田で踊っている姿である。
ピアノをひく場合にも、手の力がぬけていなくてはならない。柔軟なほど上手にひけるのである。ヨガをやったら、よくひけるようになったといわれるが、これは姿勢が正しくなるからである。
#楽隠居です
私の場合は、柔術も剣術も、身体全体を使って動いているかどうかをチェックする為のボディワークだと考えて稽古しています。もともと腰を反らして使う癖があったので、それを変えるのが一番大変でした。簡単にいうと「命門を開く」ということなのでしょうが、そのことを実感するまでに20年くらいかかったのではないでしょうか。
現在の身体の使い方が絶対に正しいとも思っていませんが、昔より応用範囲が広がっているのは確かです。古流武術も、剣術・抜刀術・柔術などをばらばらに教えていた流派ばかりではなかったようですから、それらを共通の身体使いで稽古して、何を持っても、また、何も持たなくても、同じように力を確実に伝えるということを大切にするべきだと考えています。
以前、新陰流を教えてくださった先生が、現代剣道も稽古している人達に、無刀取りをする為の身勢を教えたが、腰を反らす癖がとれず、どうしても身体を丸くすることが出来なかったので、教えるのを止めたという話を聞いた記憶があります。
詳しくは、配付資料051をお読み下さい。
参照1:ある時と無い時
参照2:命門を開く
参照3:小脳トレーニング
by centeringkokyu
| 2006-11-29 00:00
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