2006年 10月 27日
本当の合気とは |
フルコンタクト・カラテの1996年1月号に、特集「秘技・合気の秘密」が掲載されました。その中で、様々な団体が持っている、「合気」に対する見解を紹介しています。
◎財団法人合気会 本部道場 師範 藤田 昌武
合気会は合気道を国内外に推進・普及している中心団体として活動していますが、合気という言葉自体を特別に取り上げ定義・説明はしていません。合気道は競技体系を持っていませんので、約束稽古・型稽古を通じて体の鍛練をすると同時に、相手と合い和する心の鍛錬を目的にしています。そして、こうした稽古を通じて、誰もが持っている合気も養われ、発揮されてゆくと考えています。
◎合気道 茨城道場 師範 斉藤 守弘
合気道はそもそも植芝盛平先生から伝わったもので、先生から伝えられた合気を、現在正しく伝えているのはうちしかない。今の多くの合気道家は、合気を求めるあまり、先生の伝えた稽古を疎かにしている。それでは合気を得ることは出来ない。合気は本来誰もが持っているものだが、それは正しい型の稽古から発揮されるもので、その為には、正しい型の稽古を繰り返すことにより習得しなければならず、それなくして合気を得ることはない。
◎合気道養神館 本部道場 師範 中野 仁
合気を得るには、理屈によるものと体によるものがあります。どちらも合気という答えを求めているのですが、戦後の新しい流派の多くは、過程を飛ばして理屈により答えを求めているようです。私達はそれとは違い、基本動作や指導稽古等の過程、体を使った稽古を通じて合気を習得する方法をとっています。また、合気は必ずしも神秘的なものではなく、敵との間合いや殺気を感じる等のことを含めて合気であると思います。
◎合気練体会 主宰 吉丸 慶雪
合気というものは伸筋を使い相手を崩す「技術」で、その原理は全て合理的に説明が出来ます。そして多くの人が気と呼んでいるものは、この伸筋の力を指しているもので、神秘的な意味での「気の力」は存在しません。ただ、この伸筋の働きは、使っている人が「力を使っている」という意識が出来ないため、多くの人はこれを指して「気の力」と呼んでいるわけです。ですから合気と気は分けて考える必要があるのです。
◎総合武道養正館 館長 望月 稔
合気の気は「やる気」。すなわち闘志です。闘志と闘志のぶつかり合い。それが合気道だと思います。気には強いものもあれば弱いものもある。しかし、それらは修練によって強くなるものです。私のところにも女か男かわからのいような若者が入門してきますが、稽古が進むにつれて、道場での態度も引き締まってくる。つまり、やる気が出てくる。やる気のある者は、より積極的に稽古に取り組むようになる。それが大切なのです。
◎大東流合気柔術幸道会 総本部長 井上 祐助
言葉や文章ではなく、実技を通じて伝えてゆくべきものであるだけに、定義したり、本に書いたりしたこともありません。人それぞれの個性というものがあるように、修業の過程でその者の個性ないし特徴を見ながら、「それを伸ばしてやるにはどうすればよいのか」という部分に重点を置いて教えています。その結果、私と違った合気を身につけたとしても構わないと思います。それがその人の持ち味なのですから。
◎大東流合気柔術本部 本部長 近藤 勝之
大東流の技は5つの基本(礼儀、目付、呼吸、間合、残心)を修得し、合気による崩しが加わることで完成します。柔術の崩しと合気による崩しは異なるので、必ずしも合気=崩しではありませんが、最初の段階では「崩し」と理解してよいでしょう。相手の虚をついて崩すこともありますが、合気による崩しは相手が触れた瞬間に崩していなければなりません。そのためにも、基本の修得が必要不可欠となるのです。
◎大東流合気柔術 練心館 師範 前田 武
「集中力」ではなく、触れることで相手を無抵抗にさせることだと思います。接点から気を出して、丹田から足へと伝えることによって相手を動けない状態にしてしまう。あとは投げようが倒そうが、こちらの意のままです。師匠の松田敏美には「力を入れるな」と教わりました。師の手を握った時の感触を覚えておいて、あとは自分でいろいろ思考錯誤することで身に付くはずです。私の場合には30年ぐらい掛かりましたね。
◆フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から転載します。
合気(あいき)とは、強い筋力を用いずに相手の身体の自由を奪う武道の技の一種、もしくはそのような技の源となる力のことを指して言う。
軽く触れただけで相手を一瞬にして無力化させるなどの現象を引き起こす。日本武道の極意とされ、習熟者による演武は神技と称されることもある。
合気という言葉がつく有名な武道には合気道があるが、合気道の技は関節の取り方などを重視して稽古することが多く、合気という言葉は理念的に使用されることがある(例:合気は愛である)。技法としての合気は大東流の方が熱心に探求する傾向がある。合気道では技の源となる力に関して呼吸力という表現がよく用いられる。八光流では中心力、金剛力という名称がこの力を指している。
合気の理論・・・・合気についてのいくつかの説明を概観する。
大東流合気柔術六方会 宗師 岡本正剛は、合気の原理として「円運動・呼吸・反射」という三つを挙げている。円や螺旋の動きで相手の中心を崩し、自由を奪う。ただしこの円運動ははっきり外から見える運動とは限らず、上級者になると身体内部で処理される。円運動で相手の人体の反射をひきおこし虚の状態を作り出す。そこから相手の重心を崩す。この動きの中に呼吸の力を用いることによって合気は威力が引き出される。
高岡英夫は合気を三つに分類する。一般の修行者同士でかけあう低次合気、達人が一般の修行者にかける中次合気、達人同士がかけあう中に成立する高次合気の三つである。低次合気はタイミング、テコ、固定支点、慣性の単純な利用、重力の単純な利用、力の合成などによって特徴付けられる。中次合気は、動きの支点の絶妙な操作である支点転動によって実現される。
▼合気の真偽
合気の技にはやらせ疑惑がつきものである。演武で見せる技は時に超人的なものに見えるので、本当にこのような技が可能なのか疑わしい。技をかけられる側が演技で自分から跳んで「達人の神技」を演出しているのではないかという疑惑である。このような疑問に関しては、論点をいくつかに分けて論じることが可能である。合気は一概にインチキであるとか本物であるとか言いにくいものである。
・「合気の存在」の論点:経験がない人は合気の存在そのものを疑う場合がある。これは単純に経験があるかないかの問題である。ただしその存在を認めた上でも、合気の価値評価に関しては意見が分かれる。
・「集団心理」の論点:多くの弟子が見る道場内で師匠の面目を潰すようなことは心理的に難しい。師匠に本気でかかることができず、回りの人間に合わせて跳んでしまうという人がいる。
・「稽古法」の論点:初心者が合気をかける感じを少しでもつかむ為に、技が効いていなくても受け側が跳ぶ場合がある。力み癖がつくので、常に力いっぱいかかる稽古が最善であるとは限らない。
・「見せ方」の論点:演武会などで見せる合気の技は人の目を意識したものである。受けが意識的に綺麗に跳ぶことはパフォーマンスとしての技に不可欠な要素であると言える。
・「感覚精度」の論点:合気は運動神経がよく敏感な人ほどよく効くということが言われることがある。逆に言えば鈍感な人には効きにくいということである。長年修業した高弟は師匠の微妙な動きに反応して跳ぶが、素人は技をかけられていることに気づかないということも起こりうる。修業が進むほど師匠にやられやすくなることに対する疑問もある。
・「実戦性」の論点:合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題。限定された条件下でよくかかる技でも、どのような攻防が繰り広げられるか分からない状況でとっさに合気の技を使うことは難しい。合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激しい闘いの最中にそのような状態になることは凡人には難しいことである。手首を力いっぱい握られた状態からは相手を魔法のように翻弄することができる人であっても、相手がとっさにパンチを繰り出してくれば当たってしまうということはありうる。
合気の武道をやっていても、実戦的状況の中で合気が使える人は更に限られているのが実状である。
★佐川幸義先生談
柔術を形としてやるのが一番悪い。実際に全然使い物にならなくなってしまう。変化が大事なのだ。私の所のやり方はそうだ。一つの代表として形を教えても臨機応変に変化する。
結局のところ(諸々の技は)合気之体を作ることが目的であって、合気之体ができればどのように動いても技になり合気になる。
★養神館塩田剛三先生談
こうしてやろう、ああしてやろうという欲を棄てなければなりません。頭で判断して動くのではなく、五感の反応にまかせてしまったとき、初めて自由にさばくことができます。そうなったらもう、相手の攻撃の種類などは問題外になるのです。
★琢磨会総務長森恕先生談
合気をかけ、合気技を行なうためには、関節技で要求されるこのような力・技術・要領等は必要要件ではない。むしろ、邪魔になると言った方が早い。
つまり、合気技と関節技は、技の原理が全く異なっており、極端に言えば、両者の術理は対極にあると言ってもよい。従って、関節技の稽古をどれ程重ねても、それだけでは絶対に合気には到達できないのである。
参照1:合気とは何か
参照2:合気の体内操作法
参照3:現代剣道と古流剣術そして合気
参照4:合気道?それとも大東流?
参照5:合気とりあえず理論
参照6:緊張について
参照7:陰主陽従
参照8:味わいそして工夫
参照9:私の履歴書
参照10:合気の定義
◎財団法人合気会 本部道場 師範 藤田 昌武
合気会は合気道を国内外に推進・普及している中心団体として活動していますが、合気という言葉自体を特別に取り上げ定義・説明はしていません。合気道は競技体系を持っていませんので、約束稽古・型稽古を通じて体の鍛練をすると同時に、相手と合い和する心の鍛錬を目的にしています。そして、こうした稽古を通じて、誰もが持っている合気も養われ、発揮されてゆくと考えています。
◎合気道 茨城道場 師範 斉藤 守弘
合気道はそもそも植芝盛平先生から伝わったもので、先生から伝えられた合気を、現在正しく伝えているのはうちしかない。今の多くの合気道家は、合気を求めるあまり、先生の伝えた稽古を疎かにしている。それでは合気を得ることは出来ない。合気は本来誰もが持っているものだが、それは正しい型の稽古から発揮されるもので、その為には、正しい型の稽古を繰り返すことにより習得しなければならず、それなくして合気を得ることはない。
◎合気道養神館 本部道場 師範 中野 仁
合気を得るには、理屈によるものと体によるものがあります。どちらも合気という答えを求めているのですが、戦後の新しい流派の多くは、過程を飛ばして理屈により答えを求めているようです。私達はそれとは違い、基本動作や指導稽古等の過程、体を使った稽古を通じて合気を習得する方法をとっています。また、合気は必ずしも神秘的なものではなく、敵との間合いや殺気を感じる等のことを含めて合気であると思います。
◎合気練体会 主宰 吉丸 慶雪
合気というものは伸筋を使い相手を崩す「技術」で、その原理は全て合理的に説明が出来ます。そして多くの人が気と呼んでいるものは、この伸筋の力を指しているもので、神秘的な意味での「気の力」は存在しません。ただ、この伸筋の働きは、使っている人が「力を使っている」という意識が出来ないため、多くの人はこれを指して「気の力」と呼んでいるわけです。ですから合気と気は分けて考える必要があるのです。
◎総合武道養正館 館長 望月 稔
合気の気は「やる気」。すなわち闘志です。闘志と闘志のぶつかり合い。それが合気道だと思います。気には強いものもあれば弱いものもある。しかし、それらは修練によって強くなるものです。私のところにも女か男かわからのいような若者が入門してきますが、稽古が進むにつれて、道場での態度も引き締まってくる。つまり、やる気が出てくる。やる気のある者は、より積極的に稽古に取り組むようになる。それが大切なのです。
◎大東流合気柔術幸道会 総本部長 井上 祐助
言葉や文章ではなく、実技を通じて伝えてゆくべきものであるだけに、定義したり、本に書いたりしたこともありません。人それぞれの個性というものがあるように、修業の過程でその者の個性ないし特徴を見ながら、「それを伸ばしてやるにはどうすればよいのか」という部分に重点を置いて教えています。その結果、私と違った合気を身につけたとしても構わないと思います。それがその人の持ち味なのですから。
◎大東流合気柔術本部 本部長 近藤 勝之
大東流の技は5つの基本(礼儀、目付、呼吸、間合、残心)を修得し、合気による崩しが加わることで完成します。柔術の崩しと合気による崩しは異なるので、必ずしも合気=崩しではありませんが、最初の段階では「崩し」と理解してよいでしょう。相手の虚をついて崩すこともありますが、合気による崩しは相手が触れた瞬間に崩していなければなりません。そのためにも、基本の修得が必要不可欠となるのです。
◎大東流合気柔術 練心館 師範 前田 武
「集中力」ではなく、触れることで相手を無抵抗にさせることだと思います。接点から気を出して、丹田から足へと伝えることによって相手を動けない状態にしてしまう。あとは投げようが倒そうが、こちらの意のままです。師匠の松田敏美には「力を入れるな」と教わりました。師の手を握った時の感触を覚えておいて、あとは自分でいろいろ思考錯誤することで身に付くはずです。私の場合には30年ぐらい掛かりましたね。
◆フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から転載します。
合気(あいき)とは、強い筋力を用いずに相手の身体の自由を奪う武道の技の一種、もしくはそのような技の源となる力のことを指して言う。
軽く触れただけで相手を一瞬にして無力化させるなどの現象を引き起こす。日本武道の極意とされ、習熟者による演武は神技と称されることもある。
合気という言葉がつく有名な武道には合気道があるが、合気道の技は関節の取り方などを重視して稽古することが多く、合気という言葉は理念的に使用されることがある(例:合気は愛である)。技法としての合気は大東流の方が熱心に探求する傾向がある。合気道では技の源となる力に関して呼吸力という表現がよく用いられる。八光流では中心力、金剛力という名称がこの力を指している。
合気の理論・・・・合気についてのいくつかの説明を概観する。
大東流合気柔術六方会 宗師 岡本正剛は、合気の原理として「円運動・呼吸・反射」という三つを挙げている。円や螺旋の動きで相手の中心を崩し、自由を奪う。ただしこの円運動ははっきり外から見える運動とは限らず、上級者になると身体内部で処理される。円運動で相手の人体の反射をひきおこし虚の状態を作り出す。そこから相手の重心を崩す。この動きの中に呼吸の力を用いることによって合気は威力が引き出される。
高岡英夫は合気を三つに分類する。一般の修行者同士でかけあう低次合気、達人が一般の修行者にかける中次合気、達人同士がかけあう中に成立する高次合気の三つである。低次合気はタイミング、テコ、固定支点、慣性の単純な利用、重力の単純な利用、力の合成などによって特徴付けられる。中次合気は、動きの支点の絶妙な操作である支点転動によって実現される。
▼合気の真偽
合気の技にはやらせ疑惑がつきものである。演武で見せる技は時に超人的なものに見えるので、本当にこのような技が可能なのか疑わしい。技をかけられる側が演技で自分から跳んで「達人の神技」を演出しているのではないかという疑惑である。このような疑問に関しては、論点をいくつかに分けて論じることが可能である。合気は一概にインチキであるとか本物であるとか言いにくいものである。
・「合気の存在」の論点:経験がない人は合気の存在そのものを疑う場合がある。これは単純に経験があるかないかの問題である。ただしその存在を認めた上でも、合気の価値評価に関しては意見が分かれる。
・「集団心理」の論点:多くの弟子が見る道場内で師匠の面目を潰すようなことは心理的に難しい。師匠に本気でかかることができず、回りの人間に合わせて跳んでしまうという人がいる。
・「稽古法」の論点:初心者が合気をかける感じを少しでもつかむ為に、技が効いていなくても受け側が跳ぶ場合がある。力み癖がつくので、常に力いっぱいかかる稽古が最善であるとは限らない。
・「見せ方」の論点:演武会などで見せる合気の技は人の目を意識したものである。受けが意識的に綺麗に跳ぶことはパフォーマンスとしての技に不可欠な要素であると言える。
・「感覚精度」の論点:合気は運動神経がよく敏感な人ほどよく効くということが言われることがある。逆に言えば鈍感な人には効きにくいということである。長年修業した高弟は師匠の微妙な動きに反応して跳ぶが、素人は技をかけられていることに気づかないということも起こりうる。修業が進むほど師匠にやられやすくなることに対する疑問もある。
・「実戦性」の論点:合気の精妙な技が激しい実戦の中で使えるかという問題。限定された条件下でよくかかる技でも、どのような攻防が繰り広げられるか分からない状況でとっさに合気の技を使うことは難しい。合気の条件にリラックス・脱力ということが言われるが、激しい闘いの最中にそのような状態になることは凡人には難しいことである。手首を力いっぱい握られた状態からは相手を魔法のように翻弄することができる人であっても、相手がとっさにパンチを繰り出してくれば当たってしまうということはありうる。
合気の武道をやっていても、実戦的状況の中で合気が使える人は更に限られているのが実状である。
★佐川幸義先生談
柔術を形としてやるのが一番悪い。実際に全然使い物にならなくなってしまう。変化が大事なのだ。私の所のやり方はそうだ。一つの代表として形を教えても臨機応変に変化する。
結局のところ(諸々の技は)合気之体を作ることが目的であって、合気之体ができればどのように動いても技になり合気になる。
★養神館塩田剛三先生談
こうしてやろう、ああしてやろうという欲を棄てなければなりません。頭で判断して動くのではなく、五感の反応にまかせてしまったとき、初めて自由にさばくことができます。そうなったらもう、相手の攻撃の種類などは問題外になるのです。
★琢磨会総務長森恕先生談
合気をかけ、合気技を行なうためには、関節技で要求されるこのような力・技術・要領等は必要要件ではない。むしろ、邪魔になると言った方が早い。
つまり、合気技と関節技は、技の原理が全く異なっており、極端に言えば、両者の術理は対極にあると言ってもよい。従って、関節技の稽古をどれ程重ねても、それだけでは絶対に合気には到達できないのである。
参照1:合気とは何か
参照2:合気の体内操作法
参照3:現代剣道と古流剣術そして合気
参照4:合気道?それとも大東流?
参照5:合気とりあえず理論
参照6:緊張について
参照7:陰主陽従
参照8:味わいそして工夫
参照9:私の履歴書
参照10:合気の定義
by centeringkokyu
| 2006-10-27 00:03
| 合気観照塾